私たち、死に戻ったからにはもう絶対に婚約しないと決めました。
※5/30 誤字報告ありがとうございます。修正しました。
※6/3 後半にリオside追加しました。
炎に包まれ、「もう終わりだ」と目を閉じたわたしの世界は闇に包まれた。
――お願い、彼だけは助けて。
そう願ったことだけははっきりと覚えている。そして誰かが自分の名を呼ぶ声が聞こえたその瞬間、暗転した世界に光が差した。
わたしがゆっくりとまぶたを持ち上げると、そこは実家の庭先だった。目の前には見覚えのある銀髪の男の子。次いで自分の手を見ると、記憶の中のものよりもだいぶ小さくなっている。しかし肩に流された柔らかく赤みがかった金色の髪も、五歳の頃に転んでできた手のひらの傷跡もまぎれもない自分――ベルリーゼのもので……。
わたしは思い切って男の子に尋ねてみることにした。彼もまた同じように怪訝そうな顔をして、群青色の双眸をこちらに向けていたから。
「ねえ、リオ。わたしたち、もしかしてあの時死んだの?」
「……たぶん」
「でも私たち生きているし、なぜか小さい頃の姿よ?」
「言われなくてもわかっている」
リオは肩ほどの長さの銀髪をうっとおしそうにかき上げ、混乱しているわたしをまだ幼い顔で睨みつけた。
「あの時、俺たちはたしかに死んだ。火事になった劇場で、炎に巻き込まれてな」
「やっぱりあなたも……」
「一緒にいたんだ。当たり前だろう」
「そう、ね……」
そこでようやく実感が湧いて来た。目の前でツンツンした態度を取る少年はリオ。わたしの住む王都の東方を治めるブラーケン伯爵家の次男だ。豪商の娘であるわたし――ベルリーゼ・ネルギと婚約し、わたしたちは結婚間近だった。しかし友人に誘われ観劇に行った劇場で火災に見舞われる。逃げ遅れた観客の中にわたしたちも含まれていた。
つまり、わたしたちは一度死んだ。けれどどんな理由か、記憶を持ったまま子どもの頃に戻って来てしまったようだ。
理屈では説明できないことが自分たちの身に起きた。もしかしたら泣いたり、取り乱したりする場面かもしれない。けれど不思議なほどわたしの心は凪いでいた。
それどころか、ホッとしてさえいる。あの人生が終わったことに……。
まだすべてを受け入れたわけではない。けれどまた人生をやり直せるのなら、この機会を逃すわけにはいかないと思ってしまったのだ。
もう一度自分の体に視線を落とすと、繊細なレースを重ねたワンピースの裾が風に揺れていた。確かこの服は子どもの頃に一度だけ袖を通したことのある特別な服だ。
そういえばこの服を着た日は――。
ハッとして顔を上げれば、リオが身に着けているのは堅苦しい立ち襟のジャケット。子ども用に簡略化されているものの、立派な正装だ。
辺りを見回すと数人の使用人たちがわたしたちを遠巻きに見守っている。この場所に大人が少ないのは、ほんの少し前に「両親同士で話があるから」と、二人だけが庭に残されたからだ。
子ども時代のわたしたちがこの家で顔を合わせたのはただ一度しか記憶にない。それは二人がそれぞれの親に連れられ、初めて会った日のこと――つまり、二人の婚約のための顔合わせの日。
ある可能性に気づいてしまったわたしは、おそるおそる口を開いた。
「――今日って、たしか私たちの顔合わせの日だったわよね」
周囲が自ら恋人や結婚相手を見つけることが主流となっていた中、同い年のわたしたちは珍しく親たちの主導で七歳の時に婚約した。父から「あの子と結婚してもいいか?」と聞かれ、よくわからないまま「はい」と答えたことですべてが決まってしまった。それがいわゆる政略結婚だと気づくのは翌年実家を離れ、全寮制の学校に通い始めるようになってからだ。
リオはわたしの言葉に、珍しく素直に頷いた。
「ああ、そうだ。来る前に父上に聞いた」
「ということは、まだわたしたちは婚約者じゃないってこと?」
「そういうことになる」
「それじゃあ――」
興奮気味に口を開いたわたしは一息に続けた。
「それじゃあ、わたし、あなたともう絶対に婚約したくないわ!」
◇◇◇
前の人生で、わたしたちは誰しもが認める不仲な二人だった。
リオは他の友人には穏やかに接しているのに、わたしにだけは刺々しい態度を取ってきた。わたしもリオにだけは負けたくない気持ちが強く、つい張り合ってしまっていた。
わたしたちの様子を見た友人からは、何度も「婚約を解消すれば?」と言われたことがある。だが、この婚約はいわば家同士の契約だ。わたしたちの婚約によって我が家は伯爵家の権威という後ろ盾を、そして伯爵家は経済的な後ろ盾を得たのだ。お互いに利益を享受している状況で、そう簡単に解消できるわけがない。
でも、わたしは喧嘩なんか本当はしたくなかった。もっと素直にリオと話したかったし、笑い合いたかった。愛し合っている恋人たちが眩しくて目を逸らしたことも何度もある。
――形だけの婚約者。
――変えられない未来。
リオはこんな不仲な相手と一生を共に過ごすことに絶望していたはず。それなのにたまたま出かけた先の劇場が火事になり、わたしたちは巻き込まれて命を失ってしまった。そして二人同時に命を落としたのだ。
――お願い、彼だけは助けて。
そう思った気持ちは嘘ではない。
かわいそうなリオが、せめてわたしという呪縛から解かれればいいと思ったのだ。
しかし今のわたしたちはまだ何も始まっていない。やり直すなら今しかない。
「わたしたち、このままじゃ同じ人生を繰り返すわ。学校生活も、休みの日も、それからずー……っと、同じことの繰り返し。ここで変えないと、きっとまた同じように死ぬ時まで一緒よ」
リオを見れば、複雑そうに瞳を揺らしていたものの、やがてわたしに歩み寄った。懐かしい彼のさわやかな香りがふわりと鼻を掠め、群青色の真剣な瞳がわたしを映す。
「わかった。俺たちは未来で一度死んで、ここに戻ってきた。このことは二人だけの秘密だ。そして俺たちは婚約はしない。君との婚約は今後どんなことがあっても拒否する」
「ええ、もちろん秘密にするわ。わたしも何があっても婚約は断ります」
運命が変わる。わたしはそこでようやくホッと息がつけた思いだった。
もう関わらなければ、もしまた同じ出来事が起きたとしても彼を巻き込む心配はない。あんなに苦しい思いをリオに二度と味わわせたくない。彼には幸せに生きてほしい――ただそれだけを願った。
そうして、わたしたちの婚約話は消滅した。
両家に利のある婚約だったことから、必死に説得しようとする父にわたしは物心ついてからはじめて泣き喚いて抵抗し、最終的には寝込んでしまった。リオにいたっては家出を繰り返したらしい。なぜ子どもたちがそこまで嫌がるのか――疑問を通り越して恐ろしさを覚えた親たちは、付き合いはそのままに、婚約話だけは白紙に戻そうということで片を付けたそうだ。
まさかこれほどあっけなく終わりを迎えることになろうとは思いもよらなかった。やはりリオも婚約を解消したかったのかと考えると胸の奥がわずかに痛んだが、それもすぐに消えてなくなるだろう。わたしたちには穏やかな日々がやってくるはずだから。
◇◇◇
それから十数年。リオの婚約話が蒸し返されることはなく、わたしは穏やかな日々を過ごした。
わたしたちが命を落とした劇場も、父に頼んで買収してもらった。案の定、設備管理が行き届いておらず、いつ事故が起きてもおかしくない状態だった。我が家の傘下となってからは厳しい管理のもとに置かれることとなった。
さらにわたしは前とは違う学校に入ることにした。前とは違う環境と出会いは新鮮で楽しかったし、卒業する頃には友人の紹介でアークという近衛騎士と仲良くなることができた。アークは多少強引な部分はあるものの、真面目で優しい人だった。
危険を潰し、新たな縁を作り、未来は変わった。わたしはそう信じて疑わなかった。
その日、わたしはアークと一緒に遠乗りに出かけることとなった。卒業試験が終わった気晴らしにと、アークが誘ってくれたのだ。
「しかし君が馬に乗れると聞いた時は、本当に驚いたな。馬に触れようともしない女性が多いのに」
「もうっ。その話、何度目よ。できることを少しでも増やしたかっただけよ」
「ベルリーゼは努力家だからな。本当に尊敬するよ」
白い歯を見せてさわやかに笑うアークに、わたしも笑って答えた。
一度目の人生ではリオの妻となる将来が決まっていたが、今回リオと婚約が成されなかったことで、わたしは生きる道を探さねばならなかった。
幸い、我が家は経済的に恵まれていたし、いろんなことを身に付けることができたのはよかった。勉学もそれなりに頑張り、乗馬のように他の人とは違う技術も学んできた。もし良い人と巡り合えなくても、自分一人で生きて行けるように。
その一方で、アークがわたしを憎からず思っていることは知っていた。けれどわたしは彼のアプローチをのらりくらりとかわしながら今にいたる。他に意中の相手がいるわけではない。なんとなく、誰かとの未来が考えられなかっただけだ。
馬は機嫌よく歩みを進め、周囲をぐるりと見渡せる小高い丘の上にたどり着いた。若草の香りが鼻をくすぐり、髪を撫でる風が気持ち良い。その時だ。丘を下った先にある花畑を見下ろしていたアークが「おや?」と声を上げた。
「おや、あれはリオじゃないか?」
「リオ?」
「おーい! リオ!」
アークの視線の先には立ち上がる馬を押さえようとする青年と、鮮やかなピンクのワンピースを身にまとった女性の姿があった。アークが口走った名前に嫌な予感しかしなかったものの、すぐさま馬の腹を蹴ったアークに付き従わないわけにはいかず、わたしもしぶしぶ馬に合図をおくった。
近づいていくと、必死に馬をなだめようとしている青年の美しい銀髪が激しく揺れているのがはっきり見えて来た。何年経っても忘れるはずがない。目の前にいるのは、もう二度と関わるつもりはないと告げた、前の人生での婚約者だった。
「リオ……」
「リオ! 加勢しよう!」
思わず呟いた彼の名は、アークの声にかき消された。大声に驚き、振り向いたリオはさらに目を大きく見開く。
「アーク、どうして……っ、君は――」
「まさかこんなところで会うとはなっ。ほら、どうどうどう」
リオと共に手綱を抑えたアークは、暴れる馬の首筋をポンポンと何度も叩いた。そうしているうちに興奮していた馬は、徐々に落ち着きを取り戻していく。だがリオの群青色の瞳はまるで亡霊にでも出くわしたかのように驚きに固まっていた。
「ベルリーゼ、こいつは俺の職場の友人なんだ」
「え、ああ、そうなのね。ベルリーゼ・ネルギです」
「リオ・ブラーケンだ」
アークはわたしたちが知り合いだとは想像もしていないようで、リオにわたしを紹介してくれた。わたしはこれ幸いとばかりに、初対面であるかのように挨拶をする。リオは一瞬不機嫌そうな顔を見せたものの、初対面を装って返事をしてくれた。
「ブラーケン伯爵家って知ってるか? こいつ貴族出身なんだぜ」
「やめてくれ。爵位は兄が継いだんだ、もう俺には関係ない」
わたしは内心驚いていた。
前の人生ではリオに爵位を譲る話も出ていたけれど、そうならなかったということはリオは平民になったということ。わたしはリオと婚約しなかったところで特に身分が変わらない。しかしリオはきっと取り巻く環境、向けられる視線全てが変わってしまったはずだ。
わたしたちは婚約すべきじゃなかったと信じているが、そればかりは申し訳なく感じてしまう。
わたしがそんなことを考えていると、リオの後ろから透けるような金髪のかわいらしい令嬢が顔をのぞかせた。そう言えば丘の上から見た時に、リオと一緒に女性がいたことをすっかり忘れていた。
「はじめまして、私はミシェットと申します」
ミシェットと名乗った令嬢はワンピースの裾をつまみ、ちょんと膝を折った。首をかしげて微笑むミシェットの頬はほんのり桃色に染まり、長いまつげに囲まれた大きな瞳は吸い込まれそうな青色で。
同じ女性でも見とれてしまうほどの美しさのミシェットに、アークが挨拶を返した。
「これは突然失礼を。私はアーク・ジネッツ。リオとは仕事で知り合った友人で……それで、いったいどうなさったのですか?」
「私、この子に嫌われてしまったようなんです」
そう言って視線を送ったのはアークとリオに手綱を抑えられている馬だ。眉を下げたミシェットはただかわいらしかったが、馬には何か気に入らない行動だったらしい。ミシェットの声が聞こえると、再び鼻息荒く首を振り始めた。
「――ブルルルルッ!」
「うわっ! どうどう、大丈夫だ。落ち着け!」
「ずっとこの調子なんだ。一旦、鞍も外したんだが踏まれてしまってな」
「困りましたわ。このままでは帰れないもの」
リオの視線を追うと少し離れた場所にばらばらに分解した鞍だったものが落ちている。再び馬を落ち着かせたアークは順繰りにリオ、ミシェット、そして最後に私と顔を見合わせた。
「たしかにこのままではどうしようもない……。ベルリーゼ、すまないが今日はここで引き返してもいいか?」
「え……」
突然のアークの提案にわたしは言葉を失った。
「馬がこの状態では二人には帰る方法が無いも同然だ。俺の馬にミシェット嬢を乗せるから、君はリオを乗せてやってくれ」
「ま、待って――」
「誰よりも信頼できる男だ。安心してくれ」
アークはそう言ってニカッと笑った。彼の中ではすでに決定事項のようで、あっという間にミシェットを自分の馬に乗せてしまった。
「アーク様……ありがとうございます。またね、リオ」
「すまないベルリーゼ! リオ、ベルリーゼを頼んだぞ」
「ちょ、ちょっとアーク!」
わたしのアークを呼び止める声は、馬が地面を蹴り出す音にかき消された。二人を乗せた馬はあっという間に速度を上げていく。草原にはわたしとリオだけが残されてしまった。
爽やかな風がわたしとリオの髪を揺らす。
「……彼、面倒見はいいんだけど人の話を聞かないところがあるし、わりと強引なのよね」
「そのようだな」
気まずさに耐え兼ねて独り言のように呟くと、予想外なことにリオは返事をしてくれた。
「久しぶり……」
「ああ。まさかこんな所で会うとは思わなかったがな。面倒に巻き込んでしまって申し訳ない」
リオは馬の首筋を撫でながら、小さくため息をついた。すでにリオの馬は落ち着き、わたしの馬と鼻を合わせて挨拶をする余裕も出て来たようだ。
前の人生では想像できないほど静かな時間が流れる。しかし徐々に沈黙がむずがゆくなるにつれ、余計なことを口走ってしまうのはなぜだろう。
「あ、あのね! アークとは最近仲良くなったの。リオも近衛騎士だったなんて知らなかったわ!」
「俺は事務方だ。武具や備品の管理を任されている」
「そうなんだ……。あっ、あの子は? ミシェットさん。とてもかわいい方ね!」
「……母方の遠縁なんだ。何度断っても押しかけて来る」
「そ、そう……。大変ね」
わたしは口を開いたことをすぐに後悔した。途切れる会話。喧嘩にならないだけいいものの、リオはやっぱりわたしと話す気がないらしい。
それは当然だろう。以前はあんなに張り合ってばかりだったし、人生をやり直したからといって、私の印象が良くなっているわけない。
わたしはそれ以上会話の糸口を見つけられず、無意識に馬の首を撫でていた。リオの視線が向けられていることに気づかずに……。
「馬に乗れたんだな。知らなかったよ」
「え? ええ、まあ。でも前の人生では乗れなかったから、知らないのは当然――」
突然の質問に驚きつつ顔を上げると、リオの群青色の瞳と視線がぶつかる。
「知らないことばかりになってしまったな、お互い」
「――っ」
苦笑いを浮かべたリオに胸が詰まる。
わたしたちはかつて七歳で婚約者となり、学校でも一緒。いつも一緒に行動し、結局死ぬときも一緒だった。リオの存在はわたしにとってあまりにも近すぎて、あまりにも大きかった。
わたしが返事できずにいると、リオは同じ表情のまま続けた。
「アークは確かに強引だがいい男だ。きっと君を楽しませてくれるはずだ」
「そっ……そうね、彼はいい人だわ」
いつからだろう、「もし隣にリオがいたら」と考えてしまうようになったのは。リオ以外との未来が考えられなくなっていたのは。
しかしわたしは喉まで出かかった言葉を呑み込み、にっこりと微笑んで見せた。
それがわたしたちにとって最善のはずだから。
◇◇◇
遠乗りの日から数週間が経った。その日仕事を抜け出してきたというアークに呼び出されたわたしは、歌劇の鑑賞に誘われた。
「観劇? しかも明日?」
「もともと俺と明日会う予定だったから、都合は大丈夫だろ? それにミシェット嬢が誘ってくれたんだ。この前のお礼だそうだ。歌と踊りなら、いくら劇が苦手なベルリーゼでも楽しめるはずだ」
満面の笑みで告げるアークに、わたしは吐き気がこみ上げてきた。
前の人生を終えた原因は劇場での火事だ。その時の恐怖が消え去らず、わたしはこの人生で劇場に足を運んだことがない。周囲には「あの閉塞感が苦手だ」と伝えていたし、アークにも理由と共に「出かけるなら劇場以外で」と話したことがある。
「違っ……! わたしは劇場が――」
「大丈夫、きっと楽しめるさ。じゃあまた! ああ、リオも一緒だからよろしく頼むな」
アークはまったく話を聞いてくれることなく、慌ただしく仕事に戻っていった。わたしはそのうしろ姿に「そんな勝手に……」と呟くことしかできず、ただ茫然と見送ったのだった。
当日にでも断るという選択肢はあった。しかしわたしは恐怖を押し殺し、アークとの約束どおり劇場に向かうことにした。わたしの重い気持ちを後押ししたのはリオが同席すると言っていたからだ。
わたしたちは同じ時、同じ場所で命を落とした。リオがわたしと同じように劇場が苦手になっている可能性は高い。もしも遠乗りのときに世話になったお礼のためだからと、断り切れず無理をしていたら……と、心配になってしまったのだ。
けれどわたしの心の傷は、リオへの心配でも誤魔化せなかったらしい。
当日の昼下がり、馬車に乗り待ち合わせ場所である劇場が近づくにつれ、うっすらと吐き気がこみ上げてくる。冷や汗も止まらない。しかしアークはわたしの様子に気づかないようで、興奮気味に今日の劇がいかに話題なのかを語っていた。
劇場前で馬車を降りると、具合の悪さが一気に加速する。命を落とした劇場とは違う場所だが、わたしの脳裏には否が応でも死の記憶がよみがえってくる。こめかみから汗がつぅ……と流れ落ち、動悸が激しくなる。周りの楽しそうな話し声がだんだん遠くなり、視界が黒く染まり始めたことで、わたしは限界を悟った。
「アーク……わたしちょっと座りたい」
「もう少しだから我慢してくれよ。でなミシェット嬢によると、まさか舞台上で火薬を使うなんて奇想天外なことをしてのけたのがこの歌劇団らしくて――」
「ごめんなさい、わたし帰――」
しかし隣に立つアークは全く話を聞いてくれない。こんなにも冷たい人だった?……と考えているうちに、わたしの意識は暗闇に吸い込まれていった。無理をしてしまうのは悪い癖だ。もっと早くこの場所から離れる判断をしていればよかったのに。
けれど、完全に意識が途切れる直前。ふっと鼻先を掠めたさわやかな香りにわたしは心の底から安心してしまったのだった。もう、大丈夫だと。
ゆっくりと目を開けると、見慣れない天井が視界に入った。どうやらわたしは寝かせられているようだ。
「……ここは?」
「劇場の医務室だ。君を運び込んだのが医者が舞台袖に向かう前でよかったよ」
「リオ、やっぱりあなただったのね。二人は?」
「先に行ってもらった。それよりだ――」
横を向くとベッドサイドにリオが座っていた。ここまで運んでくれたのは彼らしい。わたしが感謝を告げる一方で、眉間にしわを寄せたリオが怒りを孕んだ声で尋ねてきた。
「具合が悪かったんだろう? どうして来たんだ。そんなにあいつに惚れてるのか?」
「ほ、惚れてる?!」
「ああ。だからこんな状態なのに一緒に来たんだろう?」
「違うわ!」
「待て、急に起きるんじゃない」
反論に必死になり、急に体を起こしたわたしを眩暈が襲った。リオに肩を支えられると、また彼のさわやかな香りに包まれた。リオの力強い手の温もりがひどく懐かしさを呼び起こす。
……そうだった。わたしは彼と分かり合えないのが苦しくて、つらかったのに。どうして素直になれず、同じことを繰り返してしまうのだろう。
「……そうじゃないの。わたし、本当はここに来るのが怖かったの。あの日の記憶が忘れられなくて」
「ならどうして……」
前の人生では決して漏らすことのなかった弱音。素直に口に出すと、思いのほか胸が軽くなる。
「けどあなたが来ると聞いて、もしあなたが断りきれなくて無理をしていたらって、心配になってしまって……」
「心配に?」
話しているうちにどんどん恥ずかしくなってきた。リオは婚約者どころか直接の友人でもない関係だ。いまや赤の他人なのに、どうして今回に限ってこんな無理をしてまで来てしまったのだろう。リオは私の言葉に怪訝な顔をしている。
「――って、やっぱりなし! 今の忘れてちょうだい!」
あまりの恥ずかしさと気まずさに顔を覆い、私は勢いよく俯いた。
そもそも『長年一緒にいた婚約者のリオ』という認識を持ち続けているのが間違いだった。私も彼も『絶対に婚約しない』と決めた、新たな人生を歩んできたのだから。まったく別の生き方を選んだはずなのに、とんだ勘違いだ。
けれど俯くわたしの頬に流れ落ちた髪をすくい上げる感触に、わたしは顔を上げた。そこには優しい眼差しでわたしを見つめるリオがいた。
「同じだよ」
「え?」
「俺も君が来ると聞いて心配だったんだ。場所は違えど、あの光景を思い出すような場所に来るなんて、ありえないと思った。断り切れなくて無理をしているんじゃないかと……」
「同じ、だったの?」
「そういうことだ。で、ちなみにだが君は本当にアークを――」
……信じられない。目を丸くするわたしにリオははにかんでみせた。けれどすぐに真面目な顔をして、何か続けようと再び口を開いた。その時だ。
――ドカン!! パンッ、パンッ、パンッ……!
大きな爆発音と共に、小さな破裂音が何度も響いた。思わず悲鳴を上げそうになるが、アークが話していたことを思い出す。
「……びっくりしたぁ。もしかして、火薬を使った舞台の演出ってこれのこと?」
「待て。様子がおかしい……」
リオは真面目な顔をして外の様子を窺っているようだった。小さな破裂音は断続的に聞こえ続けていたものの、そこに徐々に悲鳴が混ざり始める。そしてついに最も恐れていた言葉が聞こえてきた。
「火事だ! 予備の火薬をはやく外に!」
「おい、誰か観客を誘導しろ! 安全だと落ち着かせるんだ!」
関係者通路に面する医務室の前を、ドカドカと激しい足音と人々の怒声が次々と通りすぎていく。
「火事だ。きっとさっきの演出で事故が起きたんだ」
冷静なリオの声にわたしはハッとした。無意識に体が震えてくる。
「まさか、わたしたちまた……」
思い出すのは前の人生での最期の時。
エントランスホールに吊るされていたシャンデリアの落ちる音と、逃げまどう人々の悲鳴。がれきで塞がれた通路に立ち込める熱い煙。そしてわたしを守るようにきつく抱き寄せるリオの香り。
「い、いやよ。どうしてまたこんな事に……」
わたしの頭の中を最期の時の苦しさが支配していく。あの時わたしは何もできなかった。自分ばかりかリオの未来まで奪ってしまった。悔しい、悲しい……二度とそんな思いはしたくなかったのに。
しかしわたしの手がぐっと強く握られた。顔を上げるとそこには真剣な顔をしたリオがいた。
「逃げるぞ」
「え……?」
リオの瞳に驚いたわたしの顔が映っている。
「逃げて、今度こそ生き延びるんだ」
「生き延びる……」
「ああ、そうだ。俺は君の命を救えなかったことをずっと後悔していた。だから君には今度こそ生き延びて、幸せになってもらう」
まっすぐわたしを見つめるリオの表情は、幼い頃、絶対に婚約しないと決めた時と同じだった。
結果として、わたしたちは無事に劇場の外に逃げ出すことができた。
医務室を出たわたしたちは、すぐに出口を目指した。足がもつれそうになりながらもリオに手を引かれて必死に走ると煙はどんどん濃くなり、火薬の臭いに焦げ臭さが混ざり始めた。同時によみがえる死の恐怖。足がすくみ、呼吸が浅くなる。
「リ、リオ……ッ。わたし、もう――」
「大丈夫だ、ベルリーゼ。俺が連れていってやる」
けれど震えるわたしの体を支えてくれたのは他でもない、かつて共に命を落としたリオだった。
わたしを導く彼の力強さは、かつて迫りくる炎から私を守ろうとしてくれたあの瞬間のリオを思い出させるもので……。
ようやくたどり着いたエントランスホールはもう避難が終わっていたのだろう。人影はなく、煙が開けっ放しになった扉から勢いよく外に流れ出ていた。リオと共に転がるように外に飛び出すと、集まった人々が歓声を上げた。
「た、助かったの……」
「ああ、生きている」
銀色の髪も整った顔も、全て煤で真っ黒になったリオが微笑んだ。きっとわたしの顔も同じくらい黒くなっているはずだ。でも、そんなのどうでもいいくらい、わたしはリオとここにいることが嬉しかった。
「本当に良かった。みんな無事だったみたいだし……」
けれどそこでようやくわたしはアークとミシェットのことを思い出した。あの強引で、自分勝手なアークはいったいどうなったのだろう。
「そういえば二人は?」
「あそこにいる」
誰と言わずに尋ねると、リオはすぐにわかってくれたようだった。彼の視線の先には火事見物の野次馬に交ざって、親し気に身を寄せ合う二人の姿があった。同行したわたしたちの存在などすっかり忘れているようで、お互いをうっとりと見つめ合っている。どこからどう見ても恋人同士にしか見えない。
「え……どういうこと」
「はぁ……。多分そういうことなんだろうよ。今日の観劇もおかしいと思ったんだ」
どうやら遠乗りで出会ったあの時に二人は恋に落ちたらしい。お互いに惹かれてはいけないと思いながらの恋に気持ちが燃え上がったそうだ。後日なぜかアークに「他に好きな人ができた」と謝られたけれど、「わたしたちは別にそういう関係じゃなかったし、お幸せに」と返したら、彼は驚いた顔をしていた。
「よかったじゃない。収まるところに収まるわ」
わたしは内心ホッとしながら答えた。火事に巻き込まれた恐ろしさを慰めあえる相手がいるのはいい事だ。それにアークとの未来を考えるのは、思っていた以上に負担だったらしい。けれど私の反応にリオが予想外に驚いた顔を見せた。
「アークはいいのか」
「ええ。わたし、強引な人苦手なの。あ、さっきのあなたは別よ」
そう答えるとリオの目がさらに丸くなり、わたしだけを見つめて動かなくなった。
「ねえリオ。わたしも思っていたの。あなたには今度こそ幸せに生きてほしい、って」
もう後悔はしたくない。
わたしは彼の手に自分の手をそっと重ねた。
「あなたが生きているだけで、わたし幸せ――」
けれどわたしは最後まで言い切ることができなかった。次の瞬間、わたしの体はリオの胸の中に閉じ込められていた。額、頬、目の横……煤で汚れているにも関わらず、顔中すべてに優しいキスの雨が降ってくる。くすぐったさと胸にこみ上げる幸福感に思わず瞳を閉じると、唇に甘い甘い口づけが落とされた。
「わたしもう婚約はしないわよ」
「ああ、もちろん」
口づけの合間にそっとささやくと、リオは軽く笑いながら答える。
「今すぐ結婚しよう、ベルリーゼ」
未来は変わった。
わたしは返事の代わりに激しいキスを返した。
◆ sideリオ ◆
胸の中のベルリーゼがずしりと重さを増したことで、俺は彼女を守り切れなかったことを察した。全身を炎に包まれてなお、彼女だけは守らねばと保っていた意識が急激に遠のいて行く。
「ベル、リーゼ……」
焼け爛れて腫れた喉は最愛の人の名を最後に役目を終えた。
――君だけは幸せに、ただそれだけを願っていたのに。
次の瞬間、目を開いた俺の前にいたのは驚いた顔でこちらを見ている幼いベルリーゼ――俺が守りたいと願った婚約者だった。
どんな因果か火事に巻き込まれ命を落とした俺たちは、七つの頃まで時間を巻き戻っていたのだ。ベルリーゼは大きな栗色の瞳を何度もまたたかせ、俺に尋ねた。
「――今日って、たしか私たちの顔合わせの日だったわよね」
「ああ、そうだ。来る前に父上に聞いた」
「ということは、まだわたしたちは婚約者じゃないってこと?」
「そういうことになる」
「それじゃあ――」
その瞬間、ベルリーゼの顔が輝いた。
こんなふうに期待に顔を輝かせた彼女を見たのはいつ以来だろう。俺は彼女の言わんとしていることを何となく察していた。かつての彼女の表情を見ていれば、彼女が俺にどんな感情を抱いているかは一目瞭然だったから……。
そして俺たちはお互いの婚約者という肩書をつけることなく、他人のままで人生を送ることに決めた。
◇◇◇
ベルリーゼは誰にも等しく優しく、頼まれれば嫌だと言えない女性だった。 柔らかく赤みがかった金色の髪も、くるくるよく変わる表情も、輝きを絶やさない栗色の瞳も――すべてが魅力的で、誰しもがあたたかな太陽のような彼女に心惹かれた。
ただし悪意を持って近づく人間も多く、気づかずに無理をする彼女を諫めたことも一度ではない。だが彼女が想像以上に負けず嫌いだったのは誤算だった。いつしか俺は婚約者に辛辣に当たる男となり、ベルリーゼはそんな俺に反発するという構図ができあがってしまったのだ。
素直に「君が心配なんだ」と言えればよかっただけの話だ。しかし俺は素直になれなかった。
さらに俺の伯爵家の家名に寄ってくる女性もそれなりにいた。彼女たちがベルリーゼに「婚約を解消すれば?」としきり持ち掛けていたのを知っていた。そしてベルリーゼが「家のことがあるから……」とあいまいに笑ってごまかしているのも。
――形だけの婚約者。
――変えられない未来。
ベルリーゼはこんな不仲な相手と一生を共に過ごすことに絶望していたはずだ。
しかし俺たちは不思議な運命のいたずらで人生をやり直せることになった。ベルリーゼが俺というしがらみから解かれ、幸せな人生を送ってほしい――それだけを祈り、俺は彼女に別れを告げた。
とはいえ、家の利益のための婚約話をそう簡単に覆せるものではない。俺は後継者に相応しくないと認めさせるため、わざと奔放な振る舞いを続けた。
一方でベルリーゼも寝込むほど嫌がったらしい。ベルリーゼはそれほど俺との婚約を解消したかったのだろう。これまで無理をさせていたことに胸が痛んだ。しかし俺たちの抵抗の甲斐あって、婚約は無事に白紙に戻ることとなった。
さらに前の人生とは異なり兄が子爵家から妻を娶り、実家の爵位を継いだ。俺は平民となり、近衛騎士団の事務として働くこととなった。
運命は変わった――俺はそこでようやく息がつけたような思いがした。
これでベルリーゼに穏やかな日々がやってくる。彼女が二度と苦しまず、幸せな日々が訪れるように――それだけを願って。
俺はもう誰かと共に生きる人生など考えていなかった。
前の人生でベルリーゼを守りきれなかった悔いは大きく、彼女の幸せを祈りながらひっそりと生きて行くつもりだった。
だが、運命は再び俺たちを出会わせる。
それは母方の遠縁にあたるミシェットと遠乗りに出かけた日のことだった。
少し前から行儀見習いとしてブラーケン伯爵家で預かっていたミシェットは、なぜか俺を気に入っていた。儚くも愛らしい外見、そして無邪気な性格は庇護欲を掻き立てるらしい。気づけば両親も兄夫婦も立場をわきまえず、彼女の味方となっていた。
その日も「お姫様のようにリオと馬に乗ってみたい」と、駄々をこねたミシェットの願いを叶えるよう命じられた俺は渋々遠乗りに出かけることとなった。
だが馬は正直だ。ミシェットの香水の匂いと、ひっきりなしにしゃべり続ける甲高い声に耐えられなくなり、草原の真ん中でとうとう暴れ出してしまう。暴れる馬を必死に落ち着かせようとしていると、俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
「おーい! リオ!」
聞き覚えのある声に振り向いた俺は目を疑った。
「ベル、リーゼ?」
思わず呟いた名は、馬のいななきにかき消された。
まるで亡霊にでも出会ったかのように大きく見開かれた栗色の瞳。赤みがかった金色の髪が揺れていた。そこにいたのは何年経っても忘れるはずがない最愛の人で――。
「ベルリーゼ、こいつは俺の職場の友人なんだ」
「え、ああ、そうなのね。ベルリーゼ・ネルギです」
引きつった笑顔で初対面のように振舞うベルリーゼ。こみ上げる懐かしさと愛おしさに一瞬言葉が詰まる。
「……リオ・ブラーケンだ」
慌てて初対面を装い挨拶を返すと、ベルリーゼはホッとしたように表情を緩めた。
ベルリーゼが一緒にいたのは近衛騎士のアークだった。爽やかな笑顔が印象的な同い年の彼は何事も真面目に取り組み、騎士としての評価は高い。そして整った顔立ちもあって、彼目的で練習を見学にくる女性もいる程だった。
ただし自分の所属部隊だけに新しい武器を融通するよう指示してきたり、用事があるという後輩を無理に食事に連れて行ったりと少々強引なところがあった。
この時もアークは「このままでは帰れない」と困り顔のミシェットを連れ、二人で引き返していってしまった。戸惑うベルリーゼを置いて……。
どうしてベルリーゼが彼なんかと――と濁った思いが胸をよぎる。しかし同時にあの時、胸の中で力を失った彼女の重みがよみがえる。
――彼女にもっと素直に伝えていれば。
――俺にもっと力があれば。
時間を巻き戻るという機会を与えられてなお、彼女を引き留めることすらしなかった俺が抱いていい思いじゃない。
「知らないことばかりになってしまったな、お互い」
「――っ」
ようやく絞り出した情けない言葉に、俺は上手く微笑むことができなかった。一瞬、泣きそうに唇を歪めたベルリーゼは何を思っていたのだろう。
「アークは確かに強引だがいい男だ。きっと君を楽しませてくれるはずだ」
「そっ……そうね、彼はいい人だわ」
そう、それが最善だ。
ベルリーゼの幸せに俺は必要ない。けれど彼女が幸せそうに微笑む姿を隣で見ていたい。
相反する思いを抱えた俺は、彼女の笑顔が眩しくて目を逸らした。
◇◇◇
「せっかくお姫様気分を味わえると思ったのに、あんなのじゃ台無しじゃない! あーぁ、アーク様の方がよっぽど王子様みたいよ」
数週間後、突然実家に呼び出された俺はキンキンと甲高い声でミシェットから責め立られた。まるで伯爵家の一員のように振舞うミシェットは、指でメイドを呼び寄せると一枚の紙を受け取った。
「リオにもう一度チャンスをあげる。ちゃんとアーク様の前で『ミシェットは俺のものだ』って示してちょうだい。二人から迫られたら困っちゃうけど、ちゃんとリオを選ぶから心配しないでね」
そう言いながら俺の前に差し出したのは、歌劇のチケットだった。
「は?」
「この間のお礼ってことで、明日の歌劇にアーク様たちを誘ったの。私、そういうのはきっちりしたいタイプだし、アーク様も私と一緒に出かけたかったみたいだから」
ところどころに気になる部分はあるが、俺が何より気になったのは「アークたち」という言葉だ。
「アーク『たち』?」
「ええ、あの子も誘ってあげたのよ。アーク様が言うには歌劇が苦手らしいから、面白さを教えてあげればいいんじゃないかって言ったの」
――あの子。ベルリーゼの事だ。
まさかベルリーゼが誘いを受けるとは思えなかった。
前の人生を終えた原因は劇場での火事だ。リオですらその時の恐怖が消え去っておらず、この人生では劇場に一度も足を運んでいない。ベルリーゼも俺と同じように劇場が苦手になっている可能性は高い。断れず、無理をしてしまいがちな彼女のことだ。もし強引なアークの誘いを断り切れず無理をしていたら……。
もし当日ベルリーゼがいなければ、アークとミシェットを残して帰ろうと思っていた。ミシェットがアークを気に入っていることは伝わっていたし、ベルリーゼには申し訳ないがアークが恋人がいながら他の女性と親しくするような男だと、早めに気づけた方が良いと思ったのだ。
しかし予想に反して、ベルリーゼは劇場に来ていた。遠目に見ても真っ青な顔で、やっと立っている状態だというのがわかるのに、隣のアークは上機嫌でしきりに話しかけているだけだった。
「あ、いたわ。アークさまぁ~!」
ミシェットが声を上げた。その時、ベルリーゼの体がぐらりと傾いた。だが俺の体はわずかに早く飛び出していた。
「――ベルリーゼ!」
間一髪、間に合った俺の腕の中にベルリーゼが倒れ込む。ベルリーゼの顔は血色を失い、真っ白になっている。かつての重みを思い出し、体が無意識に震えだす。しかし彼女が息をしていることを確認すれば幾分震えはましになった。
「な、なんだよ大げさだな。ほら、起きろよベルリーゼ」
突然のことにアークは驚きつつも、強引にベルリーゼを引き起こそうと手を伸ばした。――が、彼の手がベルリーゼに触れることはなかった。
パンっ、と乾いた音が響き、周囲の視線が一気に集まった。
「触るな……!」
俺の声に空気が固まるのがわかる。手を払われたアークは信じられないとでもいうように、目を見開いて固まっていた。
「貴様、なぜベルリーゼを連れて来た」
「は? 何の事だ。こいつが俺と一緒に来たがったんだぜ」
責められていると思ったのだろう。アークは途端に不機嫌な顔になる。一方でミシェットは周囲の雰囲気を敏感に感じ取っていた。アークの腕に自らの腕を絡ませると、涙目になって見せた。
「リオ、やだ。私、こんな風に言われたら怖くなっちゃうわ……」
「ほら、ミシェット嬢が怖がるじゃないか。早く起こせよ」
「俺たちから離れろ……」
静かな俺の声に、びくっとアークとミシェットが体を揺らした。二人の動きが止まったのを見て、俺はベルリーゼを横抱きに抱き上げた。
「……彼女は俺が医務室に連れて行く。二人は先に入っていてくれ」
◇◇◇
倒れたベルリーゼが目を覚まし、しばらくして俺たちは再び火事に巻き込まれた。動揺するベルリーゼの揺れる瞳を見つめる。
「逃げるぞ」
「え……?」
鳴り響く火薬の破裂音の中、俺はベルリーゼに伝えた。
「逃げて、今度こそ生き延びるんだ」
そう、俺は何よりもそれを望んでいた。
「俺は君の命を救えなかったことをずっと後悔していた。だから君には今度こそ生き延びて、幸せになってもらう」
他の誰かではなく、俺自身の手でベルリーゼを守り、共に生きる幸せな未来を――。
医務室を出た俺たちはすぐに出口を目指した。どんどん濃くなり煙と焦げ臭さに全身を包む激しい炎の記憶、そして胸の中に閉じ込めた死の恐怖がよみがえる。足がすくみそうになるが、必死にベルリーゼを庇い、走る。
前の人生ではたどり着けなかった未来。ベルリーゼと二人で外に転がり出ると、集まった人々が歓声を上げた。
煤で汚れた顔でベルリーゼは幸せそうに笑った。彼女の大きな瞳の中には、同じように煤で汚れた俺が映っている。
「ねえリオ。わたしも思っていたの。あなたには今度こそ幸せに生きてほしい、って」
ベルリーゼが俺の手に自分の手をそっと重ねた。
あの日、失った温もり。気づくのが遅かったけれど、もう絶対に手放さない。
「あなたが生きているだけで、わたし幸せ――」
ベルリーゼの言葉を最後まで待たず、俺は彼女を強く引き寄せた。彼女の全てが愛おしく、あちこちに唇を落とす。くすぐったさに身をよじる彼女の唇を最後に奪うと、ベルリーゼがいたずらそうに呟いた。
「わたしもう婚約はしないわよ」
「ああ、もちろん」
あまりに愛おしくて、俺は笑いをこらえきれなかった。
「今すぐ結婚しよう、ベルリーゼ」
軽く笑いながらそう告げると、負けず嫌いの最愛の人は返事の代わりに激しいキスで答えてくれた。
◇◇◇
「じゃあ行くか」
「え、どこに?」
煤まみれの俺は、同じく全身汚れたままのベルリーゼを立ち上がらせると、当然のように告げた。しかしベルリーゼは不思議な顔で首を傾げている。俺はその頬におもむろにキスをすると、赤く染まったベルリーゼの耳元で「教会に」と囁いた。
「このまま? 真っ黒なのに!」
幸せそうにころころと笑うベルリーゼと俺は、手を繋ぎ、教会への道を歩きだした。
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