ラストバッター
思い立って、制服に袖を通す。
休校以来、実に半年振りの制服には、クローゼットの消臭剤の匂いが染みついていて、どこか余所行きの服のような、そんなこそばゆい錯覚を抱かせる。
「おや、お出かけかい?」
「うん、学校」
問いかける祖母に返して、踵を革靴に押し込む。
「気をつけるんだよ」
なぜ今さら学校に出かけるのか、問いただすことさえせずに、祖母は優しく見送る。
「うん、気をつける」
言いながら、振り返る。
この二年、祖母の笑顔にどれほど救われたことだろう。幼い頃に両親を亡くしたあたしにとって、祖母は年老いた母のようなものだった。
「いってらっしゃい」
いつもと変わらぬ、あたたかい言葉。
「いってきます」
だからだろうか。不思議と、これが最後の別れだ、という気はしなかった。
世界が終わると報じられたのは、二年前のことだった。
巨大な彗星が降ってくる。その事実が、アマチュア天文家の観測でも明らかになる頃には、もはや情報統制は不可能になっていた。
人類は団結して、彗星の軌道修正に挑んだ。だが、今なお続くその努力は、人々の絶望を払拭するには至らなかった。
彗星接近の報から二年。
当初は暴徒と化した人々も、さすがに暴れ疲れたものか、今や気が抜けたように大人しくなっており──滅びを目前に控えて、気だるい絶望が世界を満たしていた。
通学路には、田舎町であることを差し引いても、ほとんど人は見当たらなかった。時折見かけるのは老人ばかりで、こう言っては失礼にあたるのかもしれないが、どこか世界が萎びてしまったような印象さえ受ける。
「こんにちは」
会釈して、老爺とすれ違う。
何度も見かけたことのある、皺だらけの顔。手にした引き綱の先には、これもまた年老いた犬が繋がれていて。十年一日といった様子の散歩には、一種の貫禄すらただよっていて──老人も犬も、まるで祖母のように、ためらうことなく今を生きている。
もう九月も終わろうかというのに、猛暑は衰える気配をみせない。異常気象というやつだろうか。季節とともに取り残された蝉は、世界が終わることなど知ったことではないといった様子で、自らの生を謳歌している。彼らの無神経な生命力が疎ましくもあり──どこか羨ましくもあった。
久しぶりの登校だというのに、久しぶりだ、という実感はわかなかった。むしろ、校門を通り抜ける瞬間には、夏休み明けの登校日のような憂鬱さえ感じられて、それが何だかむずがゆかった。
学校には、昼間であるにも関わらず、人の気配がなかった。
それもそうだろう。最後の時を迎えるのに、誰が好き好んで学校を選ぶものか、と我ながら──いや、彼ながら、と言うべきか──その選択を不満に思う。
学校にいる。
彼から、そうメールが届いたのは、昼食後のことだった。昼食後だったから、腹ごなしに散歩がてら出かけただけなのだ、と今さらながらに照れ隠しを用意しながら、グラウンドに向かう。どうせ、あいつはそこにいるに違いないのだ。
「や!」
意識して、快活に声をかける。
「おう」
グラウンドの隅。たった一人で黙々とバットを振る姿は、不思議と孤独には見えなかった。
「何やってんの?」
「素振り」
いつもと変わらず、返答は素っ気ない。実直なスイングが、不器用に風を切る。
「何で?」
問い返しながら、見守るように木陰に腰を下ろす。
何で、今さら。甲子園なんて──もう「来年」なんて訪れないというのに。
あたしの疑問に答えるように、彼は空を見あげる。目前に迫った彗星。すべての元凶を見すえて、タイミングをあわせるようにバットを振る。
「あんた──」
迫りくる終末を打ち返す。逆転サヨナラ満塁ホームラン。
「馬鹿だったんだね」
「知らなかった?」
素振りを止めて、意外そうな顔で振り返る。
「知ってた」
笑った。
終末に臨んだ九回裏、逆転は絶望的だというのに。
実に久しぶりに、あたしは心から笑った。