もしかしたら、生きているのが悪い
朝起きると、その日も窓から外を眺めた。その日も天気が良かった。最近はずっとこんな天気のいい日が続いてる。そんな風に思った。今住んでいるマンションから少し行ったところに川が流れている。住んでいるマンションの六階からはその川が見える。見えた。その川の流れに沿って桜の木が並んでいる。桜並木という奴になるんだろうか。今はもうすっかり葉桜になっている。
ただ、
その桜並木を眺めるたび、私は心の底から落ち着くような、心休まるような気持ちになる。なれる。
妻が、この部屋から、その川の流れと桜並木が見えるから、ここがいいと言った。それで決めた。この部屋から桜を眺めていると妻の事を思い出す。その妻の事を思い出す。
妻が死んだ時の事を思い出す。私が妻の事を殺した。
その日の午後になってから、家に警察が来た。確か、高瀬とかいう名前の人だったと思う。警察が家に来たのはおそらく半年ぶり位の事だと思う。
「わざわざ階段で六階まで、申し訳ないです」
私がドアを開けてそのような事を言うと、いやいや、おかげで健康になりましたよ。と、彼は笑って言った。
警察には、妻がいなくなったと伝えていた。突然に居なくなってしまったと。
それだから最初は捜査みたいな事もしていたらしく、何度か家に、マンションの六階まで警察が、だから彼の事を覚えている。覚えていた。
彼は、今日とは違うスーツ姿で、それで二人で来たんだったと思う。半年ぶりだからさすがに記憶はおぼろげだけども。まあ、仕方ないとは思う。警察だってこの事ばかりに構ってはいられないだろうから。何せ、
「もう半年になりますが、奥様の行方は杳としてわかっておりません。申し訳ありません」
ダイニングのテーブルに座るなり、高瀬という警察の人はそう言って頭を下げた。
飲み物の準備をしようと思っていた手が、体が止まった。それから少しの間彼の下がった頭を眺めていた。
「私が殺したんです」
そう言っていいような気がした。
「いえ、こんな世界になって警察の方も大変でしょうから」
「……本当に申し訳ありません……」
箱から缶コーヒーを二本だして、一本を彼の側に置いた。
窓の外を眺めながら自分もテーブルに、彼の向かいの椅子に座った。死んだ妻がよく座っていた椅子。窓の外は相変わらずいい天気だった。
「ところで、以前はお二人で来られていたと思うんですが……確か……」
「北上さんですか?」
ああ、
「ああ、そうですかね」
確かそんな名前だったと思う。北上、ああ、そうだったと思う。見た感じその北上というのがこの高瀬というのよりも目上だったような気がした。どう言うんだろう。先輩?だったように見えたが、
「あの人は死んじゃいました」
高瀬はそう言って目を伏せた。
「ああ……」
こんな世界だから?
「どうしてですか?」
こんな世界だからでしょう?
「こんな世界になってしまったからです」
高瀬はそう言って、窓の外を眺めた。
半年前の事だ、何の前触れもなく世界の至る所に巨大な怪物が現れた。そしてその怪物群は、都市、街、町、村、人のいる至る所の破壊を始め、人間の事も殺戮し始めた。
理由はわからない。
原因もわからない。
交渉も対話も出来ない。
ただ、とにかく人のいる所、人間の事を殺し始めた。
人間も対抗手段は様々用いたが、結局のところ、アメリカ軍でも倒すことは出来なかったし、核攻撃さえもなんの効果も結果ももたらさなかった。
とにかく怪物、怪物群は忽然と人々の前に姿を現して、人々の営み、暮らし、歴史、文化をその大きな掌で吹き飛ばして、大胆に破壊していった。
それに対して、その営みからははじき出された人間の殺戮に関しては、真逆、とても丁寧で、執拗だった。
蟻の巣を前にしゃがみこんで一匹一匹人差し指を用いて捻り潰していく子供のように。一人として逃がさないとでも言うように。
ある人はその怪物の群れを巨神兵と言った。
ある人はゴジラだと言った。
ある人はウルトラマンとかパシフィックリムとか言った。
ある人はどこかの国の兵器の暴走などと言った。
ある人はコロナで滅びなかった人類を今度こそ滅ぼそうとしているんだろうと言った。
ある人は世界の終わりだといった。
そして多くの人間は、その意見に頷いた。同意した。
私だってそうだろうなと思った。
妻はどう思っただろう?妻だってそう思ったと思う。
これはもうダメなんだろうなと、世界はどうかわからないけど、人は、人間はもう終わったんだろうなと、それを高慢にも傲慢にも世界の終わりだというのなら、そうなんだろうなと。
これは世界の終わりなんだろうなと。
だから、
「だから自分も警察を辞めてしまいました」
警察の人間のような顔をして家にやってきた、家に上がってきた男は、そう言った。
テーブルをはさんで向かいに座っている男はそう言った。
「え?」
「自分、私、警察辞めちゃったんですよ」
「え、そんな……」
じゃあ、
「どうしてですか?」
警察じゃない人間がテーブルをはさんだ向かいに居る。
座っている。こちらを見ている。こんな世界になっているのに。
「北上さんとは、一区画違いだったんです」
「何ですか?」
我々はその日非難している人達の交通整理に駆り出されていたんです。それはもうたくさんの人の。みんな不安そうな顔をして、みんなピリピリしていました。こっちも同じです。誰かがずっと拡声器を使って叫んでいました。
『皆さん落ち着いて非難してください。慌てずに。慌てないで、大丈夫です』
でも、そこにあの怪物が現れました。まあ隣の区画、北上さんのいる区画でしたけどもね。でもまああれだけ巨大ですから、あれだけ巨大な怪物ですから。
そして怪物はまたいつものように、街、建物を容赦なくどんどんと破壊して、それからまたこれもいつものように、殺戮を始めました。一人一人丁寧にあの巨大な手でもって押しつぶすようにして。丁寧に。
で、それで自分はまあ、なんとか結果的にこうして生き残りましたけども、先輩は、あ、北上さんは死んでしまって……。
「だからね、もう警察を辞めてしまったんです。それなりに大変だったんですけどね。学校も大変だったし、寮生活も大変でした。研修も大変だったし、警察官としての日々も大変だった。警察官から刑事というものになっても勿論大変でしたけど、思えばずーっと大変だったんですけども、でもまあ、とにかくもうやめたんですよ」
「そうでしたか……」
その先輩の死が、最後がよほど、あなたにとって、
「違います。そんなんじゃないんです。そんなんじゃないんですよ」
その時、警察だった男は、今日ここに来て初めて、
いや、玄関を開けた時も、この男は少しだけ笑った。冗談を言いながら少しだけ笑った。少しだけ、警察のような顔で。
でも、今は、これは、違う、あの時とは違う。これは、
男は、警察だった男は目を細めて、口を開いて歯を見せて、顔をゆがめて、笑った。本当に、本当に面白そうに、男は笑った。
「その時思ったんですよね。こんな世界になってまで、こんなになってまで、こんなになってまで世界の平和とか、市民の安全とか、そんなのもうどうでもいいなって」
「国家の安全とか、国家の継続とか、世界の平和とか、市民の見本とか、責任とか、正義感とか、国民の税金とか、そんなのもう、どうだっていいなって」
だって、世界が終わるんですもん。
人間がもう終わるなら、高慢にも傲慢にもそれを世界の終わりというのなら。
「世界が終わるなら、もうどうだっていいなって」
「ああ……」
「あ、すいません。何か?」
「……いえ、いえいえ」
自分も同じことを思った。そう思った。考えた。同じことだ。同じことを考えたんだ。自分も同じことを考えたんです。そう言いたかった。それが、その言葉が喉まで、喉元まで出かかった。私もです。僕もです。俺もです。自分もです。同じです。自分も同じことを思った。考えた。
それで、
「それで、その時なんですよ。あなたの事を思いだいました」
「……」
「私と、自分と北上さんが半年前に来た時の事覚えていますか?まあ、あなたは覚えていますよね。奥様がいなくなったって警察に連絡をいただいて、あの時はまだ電話がつながっていましたよね」
「それで私達が来ました。私は、自分は、その時はまだ警察に属していた私は、あなたの話を聞いて、聞いた時、思ったんです」
『こんな世界になったからだろうなって』
だって見てくださいよ。
そう言って警察だった男は窓の外を差した。窓の外から見える川沿いの桜並木よりももっと向こう。山の向こうを見ると、いつの間にか黒煙が上がっている。
おそらく今その辺りにあの巨大な怪物がいるのだろう。
テレビがまだ放送されていた頃、あるテレビ番組で彼の怪物群の事を『連峰』と表現、言い表していた。どうして連峰というのか、理由は知らない。何の番組かも覚えてない。ただ、それなのにどうしてか、今もそれは覚えている。
「こんな世界になってる。今。世界。人間の世界の終わりになってる。なってるじゃないですか。なってるんです。あんなでかいのが、怪物が歩き回ってる世界。怪物が歩き回って街を壊して、人は押しつぶして。あなたみたいな人はごまんといる。そもそもそんなのこんな世界になる前からいましたよ。毎日100億人位いましたよ。妻がいなくなった。夫がいなくなった。子供がいなくなった。父がいなくなった。母がいなくなった。犬がいなくなった。猫がいなくなった。鳥がいなくなった。蛇がいなくなったって。そんなの。もう本当に沢山いたんです。で、だから、」
その時、世界が揺れた。大きく揺れた。
窓の外を見ると山の向こうに一際巨大な黒煙の雲が、キノコ雲のようなものが上がっていた。山稜、山肌の多くがえぐり取られたようになって、代わりにそこに怪物の体の一部が見えた。
「あそこにはシェルターがあったそうですよ」
警察だった男が同じように窓の外を見ながら言った。
「シェルター?」
「沢山の人をあの怪物から守るためのシェルターです。山の中掘り返して作ったんです。この辺りに住んでる人も大体はあのシェルターに避難していたんじゃないですか?」
「そうですか……」
「それがああやって壊されるっていう事は、まあ……いよいよなんですかね。いよいよなんでしょうね。終わりなんじゃないですかね?終わりなんですよね」
まるで鼻歌でも謡う様。歌っている様な、そんな話し方。
「えっと、どこまで話しましたっけ……ああ、だから、だからです。だから私は、自分は、あなたの奥様にしても、まあ、あの怪物のせいだろうなと、思ったんです」
「以前の世界だったらどうなのかわかりません。でも今は、この世界、今のこの世界ではね。あんなに明確に原因になるものがあるんですから」
山の向こうにあったシェルターの破壊による揺れ、地震、それ以降間隔を置いて、余震のような揺れが続いている。それに伴って大きな音も聞こえる。あの巨大な怪物がこちらに近づいてきているのかもしれない。
「でも、ここから帰る時です。北上さんがね、ふと、ふとだったかな、とにかく言ったんですよ」
あれの奥さんの千雅さんはいなくなったんじゃない。
小林が、夫が、あれがどうにかしたんだろう。殺したんだろう。
「私と北上さんはですね。半年前のあの頃、結構そういう人達の対応っていうかな、回って話を聞くみたいな事をしてたんですよね」
「その中で、北上さんがそういう風に、だから、あなたが殺したんだろうって、そういうことを言ったのは、小林さん。あなたのこの件だけなんですよ」
まあ、その後、あれの、怪物のせいで、いや、おかげかな。あれのおかげで、そんな場合でもなくなってしまってね。そのうち、北上さんも死んじゃいまして。私も、自分もこうして警察辞めちゃいましたし。
「動機は?」
それだけ、その言葉だけが何故か口から出た。自分でも意図しない。意図してなかったのに出た。
「それをね、北上さんも言ってました」
男は朗らかに笑っていた。
「動機が無いんですよね。あなたが奥さんを殺す。その動機が無いんです。署に戻ってから、北上さんに言われてあなた達の事を、あなた達の事だけは少し、少しですよ。調べたんです。北上さんは、いや警察か、警察って言うのは動機を重要視しますからね」
「でも、無いんですよね。これといった動機が。調べた限り、まあ、ちょっとですけど、あなた方夫婦はこんな世界になっても、最後まで手を取り合って助け合って生きていく。そんな夫婦の様でした。勝手な印象ですが。勝手な印象かも知れませんけども。それでもそういう風に見えました。私、自分にはね」
「それじゃあ」
余震が続いている。音もさっきより大きくなっている。
「それなのに、それなのにです。警察を辞めたら、こんなのもうやってらんねー。って警察を辞めたら思ったんです。警察だった時の事を思い出して、北上さんの事を思い出して、そしたらあなたの事を思い出したんですね。それで、その時、ふと、ふとね、思ったんですよ」
思ったんです。もしかしたらこれは警察を辞めてなかったら思わなかった事かもしれません。考えも及ばなかったかもしれません。こんな世界にならなかったら思わなかった。多分。思わなかったと思います。色々な鎖が外れた途端、ふとね、思ったんです。
どうせ世界が終わるなら、一度人を殺してみたい。
妻は、千雅はその日の夜、怪物出現のニュースを見た時からもう避難をしようと、始めようとしていた。
「避難って何かあてはあるのか?」
「大丈夫、ちょっとだけど知ってる」
今思えば、あれはシェルターの事だったんだろうか。
だから自分も一緒になって荷物を持って、
「エレベーターはダメ、途中で止まったら大変だから」
階段で地下にある駐車場に降りている時だ。
その時、ふと、
ふと、こんな事しても、もうどうせ世界は終わるんだろうな。
そう思った。
今こうして二人で一生懸命、避難、避難の準備をしているけど、それから妻が知ってるという、安全だという場所に向かうんだろうけど、そこで二人で支え合って、いや、みなで、みんなで支え合って生きていくのだろうけど、
でも、
もう、世界はもう、終わるんだろうな。
何をしてももう、
もう世界は終わるんだろうな。
そう思った。
そう思うと、
そう思ったら、
そう思った途端に、
何度目かの階段の踊り場で、妻の背を突いた。荷を抱えた妻の、千雅の体はなすすべなく階段を落ちて、頭から血を流して死んだ。
私は、死んだ妻の体を防災シートに包んで車に積み込み、そのほかのモノも全部車に積み込んで、階段に残った血を雑巾で拭いて、目立つところはアルコールをかけて拭いて、
それから、
その時また世界が大きく揺れた。いよいよ怪物がこっちに近づいているんだろか。外から聞こえる音もさらに大きくなってる。
「私が、妻を、千雅を殺しました」
「奥様の事はどこに?」
警察だった男は穏やかだった。私も穏やかだった。何故か。世界が終わるのに。窓から見える空は相変わらずいい天気だ。何故か。世界が終わるのに。
「この部屋から桜の木が見えるんです。川の向こう、桜並木がある。そこに埋めました。桜の木の下に」
私がそれを言い終わる前に、警察だった男は立ち上がって窓の外を見ていた。
それから、
「あーあ……」
と言った。
私も立ち上がって窓の外を見ると、そこには巨大な怪物がいて、今まさに、今、今まさに、そこに流れる川と桜並木のある場所を破壊している所だった。その巨大な両手を使って蹂躙している所だった。
「あーあ」
あれじゃあ、もう、何が何だかわかりませんね。
自分がそう言った途端、小林さんは走って部屋を出ていきました。その背中を見た後、ぼーっと窓の外を眺めていると、マンションの下から小林さんのと思われる車が飛び出してきました。
車はそのまま猛スピードで巨大な怪物に向かっていきました。
「あんなに音出してすぐにばれるなあ」
案の定すぐに気が付いた怪物がその大きな手で小林さんの車を掴み上げてしまいました。そしてそのまま叩きつけるように地面に投げ落としました。それから巨大な怪物はその巨大な足で車の落ちた場所を踏み抜きました。何度も何度も踏みつぶしました。そこだけ地面が大きく陥没してしまうほどに。
あの怪物は本当に執拗なんだなあと思いました。
しかし、小林さん急にどうしたんだろう?何か気になる事でもあったのか?何か心残りでも?妻に対しての想いとか?罪悪感とか?まさか。嘘だろ。もう世界が終わるのに?