ミブリテブリ
祖父母が住んでいた集落の周辺では、昔から『ミブリテブリ』が出るという話が伝わっていたらしい。
ミブリテブリ。
話を聞くとそれはどうも、妖怪というか怪異というか、そういった得体の知れない化け物の類のようである。
祖父母曰く。
ミブリテブリは決まった姿がなく、人に化ける。
そのため人の前に姿を現す時には、一見すると人にしか見えない姿で出てくる。
そして、その姿で人の前に現れると、笑顔で手を大きく三度振ってくる。
ミブリテブリが手を振った後で手を振り返してしまうと、何処かに連れていかれてしまうという。
だが、ミブリテブリは手を振る際に、必ずあわせて自身の体を異様なほど大きく左右に揺らしてしまうという特徴がある。
また、三回手を振り終えると手を下ろし、こちらが手を振り返すのをまるで催促するかのように、その場で体だけ左右に振り続けるのだとか。
その特徴から、遠目で見ても一目瞭然にミブリテブリであることがわかるため、出会ったという話は聞いたことがあるが、誰かが連れていかれたという話は聞いたことがない。
そのまま反応をせず放置しておけば勝手に去っていくため、そこまで恐れるべき存在ではない。
とのことだ。
まあ、山あいの集落などに良く伝わっているような、河童が出るとか天狗が出るとかと似たような、ありがちな妖怪伝説の類である。
であるが、私は子供の時分に、それと思わしきモノに、そうとしか思えないモノに実際に遭遇したことがあるのだ。
その時の話をしたい。
◆
その時私は小学3年生くらいだったと思う。
両親は共働きであり、それもあってか、毎年夏休みのうち5日間ほどを、両親抜きで祖父母の家に泊まることが通例となっていた。
祖父母の家は私が両親と住む家がある市街から、車で1時間ほど走ったあたりにある山あいの集落にあった。
祖父母はそこで農業を営んで暮らしていた。
そんな場所で、祖父母と私の3人での5日間は、子供の頃の私にとっては、毎年結構な楽しみだった。
祖父母は優しかったし、生き物が好きであった当時の私にとって、そこは都会と違い刺激的な環境だったのだ。
毎日飽きもせず山――山と言ってもそんなに深いところでなく、祖父母の畑や田んぼの周りだったり、その周辺の里山の道沿いなどではあったが、そのあたりを飛び回って、虫を捕ったり、トカゲやイモリなどを観察していた。
そのような日々の中でのことだ。
その日は祖父母は少し離れたところにある畑の様子を見に行くということで、朝から軽トラで出かけていた。
私は独りであったが、祖父母が畑に出たりして不在なことは割とあったし、自身もこの後外で遊ぶつもりであったので、特に寂しさは感じていなかった。
午前中早々に祖父母の家を後にし、近くにある祖父母の田んぼの方へ、その日は確かドジョウか何かを捕まえに行った。
祖父母の家周辺は、私にとっては勝手知ったる場所である。
子供の足で歩いても10分ほどで着く田んぼまで、畑や林、藪などで挟まれた坂道を登っていた。
そして、田んぼの周りでひとしきり遊び、そろそろお昼に近くなったので帰ろうと来た道を戻り始めて、すぐの事である。
道の真ん中に誰か立っていた。
顔が見えるほどの距離ではなかったが、見たところ、灰色の作業着のようなものを着た男性に見えた。
道の幅は大人が二人並んで歩くのがやっとというくらいで、その真ん中に立っているので、まるで通せんぼをしている様であった。
最初はあんなところに突っ立って何しているんだろう、と思っていた。
その後気付いた。
なんか、こっちを見ているぞ、と。
そうすると、なんだか少し気味が悪くなってきたが、すぐにもっとぞっとすることになった。
その人物が大きく手を振ってきたのだ。
それも、体を思い切り左右に揺らしながら。
大きく、三回弧を描くように、その人物は手を振った。
そうして手を下ろしたが、下ろした後も体は大きく左右に揺らし続けている。
異様である。
おかしい人かもしれない。
そこまで思ったときに、以前祖父母から聞いたことのある『ミブリテブリ』の話を思い出した。
祖父母が教えてくれた妖怪の話。
人に化けて、人の振りをして、手と体を振ってくるという得体の知れないモノ。
手を振り返した者を連れ去るという化け物。
その時は面白半分に、よくあるような怖い話の一つとして聞くばかりであったが。
この状況――ひょっとすると、コレが。
その時話していたモノではないのか――。
その作業着を着た何かは、ずっと大きく体を左右に揺らし続けている。
私は驚きと恐怖のあまり固まってしまい、ソレを眺めるばかりであった。
時間にして数分も経っていなかったであろう、しばらくその状態が続いた後。
唐突に。
ぴたりと。
体を揺らしていたソレは、動きを止めた。
そしていきなり道を外れ、脇の林の中に消えて行ったのである。
その移動の仕方も異様であった。
歩いたりするのではなく。
動きを止めたまま。
すーっと、滑るように。
まるで左右にスライドしていくかのように、一切動作を見せないままに移動していくのだ。
ソレが姿を消して後も、しばらく私は呆然とそこに立っていたが、また戻ってきて道を塞がれたら困ることに思い至って、慌てて駆けだした。
ソレが消えて行った林の脇を通り過ぎるのはかなり怖かった。
けれどそれ以上に、此処に居続ける方が怖かったのだ。
一刻も早く祖父母の家に帰りたかった。
全力疾走で、余計なことは考えず、一目散に駆けて行った。
祖父母の家を目の前にして、ようやく一息吐いた。
息が上がりきって苦しいほどだったので、息を整えながら家に向けてゆっくり歩く。
すると、家の前に祖父の姿が在った。
祖父の顔が見えるくらいに近づいて行ってから、ようやく帰って来たことでの安心感が湧いた。
「じいちゃん」
声を掛けた。
祖父はこちらに笑顔を向ける。
さっきまでの恐怖から逃れるように祖父に駆け寄ろうとした。
その時にふと思った。
そういえば、軽トラは?
いつも使っていないときは家の前に停めている軽トラ。
朝、祖父母が乗っていったはずの軽トラが、家の前はおろかどこにも見えない。
祖父はどうやって帰って来たのだろう?
私はぴたりと足を止めた。
祖父まで数メートルの距離。
祖父は依然笑顔を浮かべたままこちらを見ている。
帰って来た孫に向けて、「おかえり」とも言わない――さっきから一言も発しない祖父。
ミブリテブリについての、祖父の話が頭を過ぎる。
ミブリテブリは決まった姿がなく、人に化けて姿を現すという――。
祖父は、大きく手を上げると、振り始めた。
三回、その手が弧を描く。
体を大きく左右に振りながら。
顔は満面の笑みを貼りつかせている。
祖父じゃない。
コレは祖父じゃない。
おかしいモノだ。
人ではないモノだ――。
大きく後ずさる。
目はソレから離せない。
祖父の姿をしたモノは手を三回振り終えると、ゆっくりとその手を下ろした。
依然、体は振り続けている。
こちらに向ける満面の笑顔。
左右に揺れるその笑顔。
笑顔ではあったが、それは貼りつけただけのような、異様なものであった。
まるでこちらが手を振り返すのを強要するような圧があった。
私はまたも恐怖で固まってしまい、ソレを眺めるばかりである。
しばらくその状態が続くと、ソレはまたもや唐突に、ぴたりと動きを止めた。
同時に、貼りつくような笑顔もやめた。
一切の表情が感じられないほどの真顔をこちらに向けてくる。
そうして、また、あのスライドするような、動作を見せない滑るような動きで、家の裏に消えて行ったのである。
どのくらい経っただろうか。
「どうした? そんなところに突っ立って」
そのまま動けずに立ち尽くしていた私は、その背後からの声で我に返った。
振り向けば軽トラと、そこから降りてくる祖父母の姿が在った。
今度は軽トラがある。
祖父もしゃべっている。
本物だ。
安堵が押し寄せる。
その場で膝が崩れるのを感じた――。
◆
そこからの記憶は途切れ途切れだが、後で祖父母に聞いたところ、私は座り込んで大泣きしてしまったらしい。
いきなり泣き出した孫の姿に祖父母は大いに慌てたそうである。
祖母に抱きしめられながら泣き続ける孫から、祖父は辛抱強く事態を聞き出した。
直ぐに祖父は自身の子である私の父に連絡を取り、迎えに来るように伝え、その日のうちに祖父母の家から孫を離れさせた。
なんでも、ミブリテブリは特に相手が子供の場合、執着して何度も出てくる場合があるのだという。
ミブリテブリはあまり遠くまでは移動できないらしいので、市街まで行けば追ってこられないらしい。
また、ミブリテブリは頭がそこまで良くないので、しばらく遭遇しなければ執着していた相手のことを忘れてしまう。
なので、祖父母の家から離れ、市街の私の家に戻ってしばらく過ごせば一安心、ということらしかった。
実際、そのとおりだった。
その後は何も起きなかったのだ。
流石にその年は祖父母の家を訪れることはなかったが、翌年以降はまた今まで通り祖父母の家に遊びに行った。
しかし、そのミブリテブリらしきモノと出会うことは二度となかったのである。
今ではまるで夢か何かではなかったかと思う時もあるが――。
大人になった今でも、あの時の不気味さ、恐怖は鮮明に覚えている。
この体験以降、人から手を振られる行為そのものが、何となく苦手になってしまった。
人との待ち合わせなどで相手から手を振られると、思わずびくっとしてしまうし、体を振ってないか確認してしまうのだ。
本当に待ち合わせ相手なんだろうか、というように。
◆
なお、ここからは余談であるが。
ミブリテブリが一体何なのかについては良くわからない。
大人になってから周囲にミブリテブリの話を耳にしたことがあるか聞いたが、知っている人はいなかった。
インターネットで検索をかけても(検索の仕方が悪いのかもしれないが)それらしいものは出てこなかった。
祖父母が言うにはその集落の年寄りは半数位は知っている話らしいので、その土地の言い伝えとか伝説みたいなものを調べれば詳しい話があるのかもしれないが、中々そこまでは確認できていない。
祖父母に改めて詳しく聞こうにも、今となっては二人とも鬼籍に入ってしまっているためにできないのだ。
二人が存命だった頃に、もっと詳しく聞いておけばよかったと後悔している。
ただ、私にとってはかなりの恐怖体験で、あまり思い出したくもなかったため、それについて詳しく聞こうと思う機会がその後はなかったのだ。
それでもあの体験の後に、いくつか祖父母が教えてくれたことがある。
まず、ミブリテブリはあまり遠くまで移動できない、という点について。
なんでも、ミブリテブリは川を越えることが出来ないらしい。
橋などがあっても渡れないとか。
祖父母の家がある集落は二つの川が一つに合流する中間あたりにあり、丁度その二つの川に挟まれるような立地に存在していた。
自分の家があった市街に行くためには必ずどこかで橋を渡る必要があるため、市街まで行けば大丈夫ということだったそうだ。
他にも山の尾根など、ミブリテブリにはいくつか移動できない場所があるため、あまり遠くまで行けないということなのだとか。
次に、ミブリテブリが手を振る前にこちらから手を振った場合について。
ミブリテブリが手を振ってきた後に振り返すと何処かに連れ去られるとされているが、ミブリテブリが手を振る前にこちらから先に手を振ると、ミブリテブリは何もせず去っていくらしい。
ミブリテブリはあくまでも「手を振り返した者」しか連れ去れないのだとか。
祖母が教えてくれた話がある。
祖母が中学生の頃、近くに住んでいた同級生の語った話らしいが。
その子が学校から帰ってくると、家の前に小学生の妹が出ている。
こちらを見ているので手を振ったが、ふと何故あんな場所に突っ立っているのか疑問に思った。
すると、妹は家の傍の土手の下に滑るように移動して消えて行った。
慌ててその子は近くに行って見るがそこには何もなく。
そうしていると、家の中から当の妹が出てきて何をしているのかと聞いてきた。
妹は今まで家に居て、外になどは出ていないという――。
その子は最初に家の前に出ていたのは妹に化けたミブリテブリで、先にこちらから手を振ってしまったので何も出来ずに去っていったのだ、と信じていたらしい。
実際のところは不明だが、家の前で家族の振りをして立っているというところが、自分の体験したこととも似ていて、ちょっと不気味である。
また、ミブリテブリはしゃべれないということについて。
あくまでも人に化けるのは姿だけで、声真似はおろかそもそも一切発声しないのだとか。
なので、たとえ知人に化けられたところで、手と体を振るばかりで声を掛けても一切返事をしないため、直ぐにそれと分かってしまうのだという。
あとは、ミブリテブリは動物が苦手らしいということについて。
どうも動物、というか四つ足の獣が嫌いらしい。
犬や猫を飼っている家や畜産を営んでいる家の人間の前には姿を現さないのだとか。
祖父母の知っている限り、家に動物がいる人でミブリテブリに出会ったという人はいないとのことだ。
確かに私はペットは何も飼っていなかったし、あの時滞在していた祖父母の家も同様に動物は飼っていなかった。
先の話に出た祖母の同級生の家は犬を飼っていたらしいが、あの話の少し前に老衰で亡くなっていて、その時は家に動物は居なかったのだとか。
最後に、ミブリテブリの名前について。
ここまで『ミブリテブリ』と片仮名表記だったのは、結局漢字でどう書くのかが分からなかったからだ。
というのも、祖父と祖母の間で漢字でどう書くかということについて話が異なるのだ。
祖父が言うには漢字で書くと『三振手振』ということらしい。
対して、祖母が言うには、『身振手振』であるらしい。
結局どちらが正しいのかはわからずじまいであったため、この話では『ミブリテブリ』と片仮名表記で統一させてもらった。
ミブリテブリについて私が祖父母から教わったことはこのくらいである。
結局何なのかはよくわからないし、他の土地にもソレやソレに似たものが存在するのかどうかも知らない。
ただもし、山などで。
見た目は人なのに、体を左右に揺らしながら手を振ってくるモノに出会ったら。
手を振り返す前に、この話を思い出してほしい。