9 遅い自己紹介
「それでは行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ」
「滅多にないことだとは思うが、私がいない間に訪問者が来ても対応しなくていい」
「なぜ、ですか?」
「街中であんな目に合ってまだ懲りていないのか?」
「……了解しました」
「夕刻までには戻る」
いくつかの言葉を交わし、外回りへと向かうアルス様を見送ってから、私は玄関ホールの方へと振り返る。
アルス様も私もあまり口数の多い方ではないが、それでも一人よりは二人というのは確実で。
しんと静まり返ったお屋敷は、先ほどまでよりずっと広く感じられた。
(なんて、浸ってる場合じゃなくて)
気を取り直して私はすぐに控え室へと向かうと、必要な清掃用具を一式取り出して臨戦態勢に入る。
ここまで全てが埃かぶっていると、段取りなどを考えなくてすむのでむしろありがたいかもしれない。
片っ端から窓を開け、次から次に掃除用具を振るう。
執務室から始まり、台所や控室などを含む日常的に使う部屋から優先的に。
一階の掃除を終えるころには、昼下がりも半ばに近づいていた。
(このまま二階の掃除へ移ってもいいけれど……)
アルス様は夕刻には戻る、と仰っていた。
今日は初日ということもあるし、様子見の意味でも玄関へすぐに向かえる場所にいたい。
(と、なれば)
私は草刈り用具一式を担いで、そのまま庭の方へと繰り出す。
剪定の心得などはないが、伸び放題の雑草を取り除くくらいならばできるだろう。
カマを振るい、草を刈り取り、一か所へ集める。
単純ながらも成果が目に見えるので、楽しくなってきて作業はどんどん進んでいった。
しかし、それがよくなかったのかもしれない。
(今日であらかた済ませてしまおうか)
なんて、調子に乗り始めたタイミングで、
「……何をしてる?」
アルス様の声が、背後で聞こえた。
その声にはっとして空を見ると、空の色はすでに夕刻と言って差支えのないものとなっている。
なんということだ、作業に夢中で時間を忘れてしまうとは。
準備はすでに済ませてあるとはいえ、夕食の用意はできてない。
そして何より、この土まみれの姿は主人を迎えるのに相応しいとは到底言えず。
穴があったら入りたい気持ちだ。
「す、すぐに夕食の支度をしてまいりますね」
とりあえずもっともらしい理由をつけて逃げ出そうとしてみるも、
「待て」
短い一声にそれすらも叶わない。
『今度は土いじりとは、私といるのはそんなに苦痛か?』
ため息交じりの言葉に、心底あきれたような表情。
当時は全然気にならなかったはずなのに、今になって思い起こされるのはなぜだろう。
「なぜそんな表情をする。私はただ、名前を聞こうと思っていただけだ」
「名前、ですか?」
あまりにも意外すぎる質問。
「あぁ、聞いてなかっただろう」
確かに聞かれていなかったので、私もあえて伝えることはしていなかった。
「今もなんと呼びかけたものか分からず、呼び止めてしまった」
「そう、でしたか」
咎められていたわけではないと分かりほっとする反面、こんな風に気を使っていただいて申し訳ない気持ちも湧いてくる。
無表情で感情が分かりづらいといつも言われていたものだが、そんなに表情に出てしまっていたのか。
というか、アルス様の前評判はどこへいってしまったのだろう。
なんていう諸々は、今はいったん置いておいて。
「私の名前はスターチス、と申します」
「ふむ、では改めて。スターチス」
「なんでしょうか、アルス様」
「そこまで腹は減っていないから、食事の用意はゆっくりでいいぞ」
「あ……」
先ほどの発言と行動。
あれはどちらかといえば逃げるための口実の側面が強かったのだが、アルス様の目にはそう見えて当然か。
「……了解しました」
わざわざそれを自分から明かす必要もないので、とりあえずそのまま乗っかっておくことにした。