8 台所にて
レイド様の屋敷を追い出されて三日目の朝。
私はアルス様のお屋敷で台所に立っていた。
保存食のパンにチーズを被せ、ブラックペッパーをまぶした上で焼く。
山積みの保存食を見たときに真っ先に思い浮かんだのがこのレシピだった。
(バリエーションを持たせるために、もう少し食材の種類が欲しいところだけど)
料理の焼き加減に気を配りながら、パンとチーズだらけの食糧庫の方へも目をやる。
「……なんだか旨そうな匂いがするな」
準備も終わりそろそろ執務室へと運ぼうかと思っていたちょうどそのタイミングで、先回りしてアルス様が現れた。
「申し訳ございません、すぐにお持ちいたしますので」
「気にするな。ただの気まぐれだ」
急いで皿を運ぼうとする私を手で制し、その手をそのまま伸ばしてパンを口へと運ぶアルス様。
寝起きのせいか普段よりも鋭くなった表情からは、いつにも増して感情が読み取り辛い。
「……このパンは、食料庫にあったものを?」
「はい、勝手に使って申し訳……もご」
言葉の途中で突然、口の中に香ばしい旨味が広がる。
味見を忘れていたが、この味ならば問題なかったか。
ではなくて。
「すぐに謝るな。何も悪いことなどしていないときは特にな」
「……それがご命令で、あるのなら」
私が小さく齧ったパンの残りを改めて口へ放り込んでから、アルス様が再び口を開く。
「やりようでこんなに美味しくなるのだな、あのパンも」
「これまでずっと、そのまま食べてらっしゃったのですか」
「腹に入れば同じだと思っていたからな」
あっけらかんと言い放つアルス様だが、あの無味で固いパンをずっと食べ続けられる人などそうはいない。
食事に頓着のない人なのだろうとは思っていたが、これは想像以上かもしれない。
「この調子でよろしく頼む」
「はい、畏まりました」
結局立ったまま食事を済ませ、足早に去っていくアルス様の背へ深々と頭を下げる。
『料理はシェフの仕事だ。お前はそんなことしなくていい』
別の場所で初めて台所に立った時に言われたことが、ふと頭の中で思い起こされて。
(アルス様はやはり、変わっていらっしゃる)
食料の備蓄は十分だというのに、次の買い出しが今から楽しみになってしまうのだった。