#08
何かに気づいた様子のゼオンに笑って、続ける。
「遠慮せずに自分の家だと思っていいよ。上の部屋からの眺めは素敵なんだ。きっと気に入る。納戸に息子が小さかった頃の服が置いてあるから、なんでも好きなものを着るといい」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。その代わりと言っちゃなんだけど、あの人をよろしく頼む。キミが傍にいてくれるのなら安心だ。ああ見えて、手に負えない寂しがり屋なんでね」
女王も提督も口をそろえて、この男をよろしく、と言うのを不思議に思いつつも、ゼオンは肩を揺らして「うん」と頷いた。
「馬鹿弟子。お前、子供に何を吹き込んでんだ?」
「師匠が手に負えないのは周知の事実でしょうが。おやおや、自覚なかったんですか?」
「…可愛くない。可愛くないぞ、お前!」
五十がらみ、白髪の混じるようになった大柄の提督に対し、指を突きつけて堂々となぞの非難をしておいて、男は足早に部屋を出ていった。床の敷物がなければ、荒い足音が階下にも響き渡ったに違いない。しかし、敷き詰められた柔らかで厚い毛氈は、荒ぶる男の足音を静かに吸収した。
「ちょっとやりすぎたかな。あの人は本当に昔から何も変わらないから、からかうと楽しくてね。大丈夫、先に上に行っただけだよ。そうだ、あの人に食事は七時だと伝えておいてくれる?遅刻は厳禁だからね」
ようやく立ち上がったテイユウは、応接用の低い卓を挟んで設置された二人掛けの長椅子2つを回り込んで、机の向こうに戻っていく。先ほど見ていたらしい書類に再度目を向けて、考え込むように顎に片手をあてた。背後の窓から、橙に染まった夕日が徐々に差し込んで、テイユウの輪郭線を際立たせる。
シグレを追って出ていこうとして、扉の前で子供は足を止めた。
「あの、聞いてもいいですか。弟子ってどういう…」
テイユウの表情は確認できないが、声音には少しのためらいが含まれている。
「あの人が近郊の離宮に住んでいた頃、魔法を教えてもらっていたんだ。オレには才能がなくて発現しなかったけど、他にもいろんなことを教えてくれたよ。気候のことや、この世界の歴史、星の運びに花の名前。聞けばなんでも教えてくれた。キミもいろんなことを聞くといいよ」
「魔法?」
あの男と同じように自分もからかわれているのだろうと確信して、納得のいかない声を上げると提督は困ったように微笑んだ。
「そう、魔法だよ。呪文を唱えて不思議を起こす、あの魔法。今でも思うことがあるよ。オレがちゃんと弟子として、あの人の後を継いでやれたらとね」
真意を聞こうとしたとき、開いたままの扉がコツコツと叩かれた。海務局の職員が気まずそうな顔をして入ってくる。
「提督、急ぎご相談したい案件がございまして。よろしいでしょうか」
「ああ、構わない」
続きが気にはなったが、提督の職務の邪魔はできない。ゼオンは一礼のもと退室した。
海務局の建物は、提督の私邸でもある。もともと1階から3階部分が役所として使われ、最上階の4階に提督一家が暮らしていたが、膝を悪くした妻のために新しく中庭の一角に別邸を設けたため、数年前からたまに客室として使われるのみとなっていた。
3階まで敷き詰められていた赤い毛氈はなく、花や草木が連続する図案の絨毯に変更されていて、それだけで随分印象が変わって見えた。
台所やそのほかの水回りも備えられ、複数の寝室のほか、書斎や応接室もある。二人には広すぎる間取りだ。
ゼオンは階段に近い部屋からとりあえず順に中を確認していったが、どこもかしこも紫檀やら黒檀の調度が揃えられ、壁には細々と彫刻が掘られた額縁に入った趣の異なる油絵が掛けられている。少し前まで小屋暮らしの自分が、この重厚な空気感に慣れるのは骨が折れそうな気がした。
他の部屋に比べれば、少しだけ小さめの角部屋にシグレはいた。
開け放った窓に腰かけて足を宙に投げ出して海を見ている。
「あぶないよ。そんなとこに座ったら」
「あいつらの説教癖が移ったんじゃないか?いいから、おいで。今に日が沈む」
窓に近づいて、男の横、窓枠に手を伸ばすと、壮絶なほどに赤い光景が広がっていた。
四方を山に囲まれた故郷では、陽はいつも高い山の向こうに沈み、あっという間に夜がやって来る。夕焼けとは山際より上の空が橙や紫に染まることだと思っていたし、自分の目の高さやその下に至るまで、一面が真っ赤に染まる光景は想像したこともなかった。
「海に陽が落ちると、水から光があふれるからこんなに赤くなるのかな?」
「太陽が離れて遠くなるから赤いんだ」
「意味がわからない」
「まあ、そうだろうな」
見上げると、男は夕日に頬を染めて笑っていた。若い顔がますます若返って、少年のようにも見える。
「お前、この部屋使えよ。こっからの景色が一番いい」
「うん」
海に沈む夕日が迫りくる闇に追われて点になるまで、しばらく二人は魅入られたように海を見つめた。
「ねえ、ボクを弟子にするの?だから連れてきたの?」
ぽつりと呟くように聞く子供の声に、男は手を伸ばして頭をかき回すように撫でた。
「だから、あぶないって」
「あの馬鹿から何か聞いたか?お前は俺の弟子になる必要なんてない。好きなことをして生きろ。望むがまま、したいことだけすればいい。お前はこれまで結構がんばって生きてきたんだ。しばらく好きなことだけして生きたところで、神様も文句は言わんさ」
シグレが身軽に窓枠を蹴って、部屋の中に戻ってくる。
「夕飯、何時からだって?」
「七時」
「あと30分は余裕があるか。お前、ちょっと体洗って着替えてたら?なんだ、その、あれだ。よその家の晩餐に呼ばれたんだしな。服は適当なの出して寝台に並べておいてやる」
男は女王に作らせるという戸籍通りに父親らしいことをしてみせるつもりなのか、そんなことを言った。
「わかった。そうする」
シグレは自分が屋台で手に入れたものでなく、納戸から引っ張り出したテイユウの息子の服を用意した。その方が面白そうだと思っただけだったが、着せてみると思いのほか馴染んで、どこぞの令息に見えなくもなかった。何度となく子供を差して「可愛い」と口にしてきたが、髪に櫛を通して恰好を整えてやると顔の造りの整ったきれいな子供であった。
子供好きの提督夫妻は、案の定、目じりを下げてゼオンを歓迎し、食卓の中心に置くと「あれが旨い」「これが旨い」「口元に汚れが」と終始、世話を焼き続けた。
子供なりに気を張っていたのだろう。食事が終わり、大人たちが雑談を始める頃には、平机に置かれた皿と皿の間に器用に顔を伏せて、寝息を立て始めてしまった。
夫人が羊毛の多用布で背もたれごと体をすっぽりと覆ってしまうと、毛布に埋もれる様がやはり可愛く見えて、大人たちは互いに顔を見合わせて笑った。