表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
沈まぬ蛍  作者: サク
7/15

#06

「名は何という?子供」

 女王の問いかけに、男がハッとなる。

「あ。それ、俺も聞きてえ」

「お前、今まで聞きもしないできのたかえ?」

 大人二人の注目を浴びて、子供はますます逃げたい気分になった。

 王宮のどこもかしこも豪奢な装飾が施され、もし自分が少しでも触れてしまったら、簡単に壊れてしまいそうで歩くのも覚束なかったというのに、連れてこられた先が王の私室なんてあんまりだ。

 女王自身は床に届くほどの滑らかな藍色の生地で作られた長衣に身を包み、長い髪を頭の後ろで優雅にまとめた姿ではあったものの、宝飾品の一つも身に着けてはおらず、宝石のついた指輪をいくつも指にはめたシンガイ老と比べても質素な装いだった。

 宰相を含め、部屋づきの近衛兵や女中に至るまで、あくまでも私的な面会であることを強調するための配慮でもあった。

「ゼオン」

 絞りだした声に、女王は頷いた。

「そうか、ゼオン。私はヒノエという。本当の名はもっと長くて覚えづらいからね、これで十分だ。この男はシグレという。秋口に降る雨の名だ。風流で素敵だろう。名が体を表さない良い例だな」

「なんでお前が俺の自己紹介まで」

「どうせ、教えてないのだろう?少しは他人に興味を持てと前から言っているだろう。お前は自分に興味がないから、他人にも関心が持てないんだ」

 ヒノエは立ち上がるとゼオンを誘って部屋のバルコニーに連れ出した。眼下には王宮の後ろに広がる海が見えた。昼の太陽を受けて、水面はきらきらと輝いている。

「きれいだろう」

「…はじめてみた」

 話には聞いていたが、途方もなく遠くになるほどに深くなる青色は、夜が明け始めたときの空のようでもあった。

「あの海を船で渡って、いろんなものが運ばれてくる。魚も貝もたくさん捕れる。海はいいと思うだろう?でも、嵐の時は大変だ。高潮が起きると波があの城壁を越えてやってくる。エルバは石造りの町で、水路を張り巡らせて排水に重きを置いた都市構造だが、どんなに備えたところで何年かに一度は酷い事態に遭遇する」

 王都エルバは貿易港としての側面もあり、人も物資も毎日のように行き交い経済を支えていた。その都市機能が失われると、混乱は大規模にならざるを得ず、収拾には時間を要した。

「戦争などなくともね」

 女王が言外に何を言いたかったのか、ゼオンには理解できなかった。ただ、戦争、といった時の苦い響きが、自分の身の上を既に知っている気がした。旅の途中でシグレが手紙でもしたためたのかもしれないし、あの村の村長から報告が上がったのかもしれなかった。

「お前の話はいつも説教臭い。耳半分で聞いとけよ」

「おだまり」

 大理石の冷たい円卓に頬杖をついて、女王へ向けた言葉とも思えぬセリフを吐く男を一蹴して、ヒノエは続ける。

「人はみな、暗雲のもと大海をゆく。ただひたすらに甘露を待つものなり」

「耳半分だぞー、ゼオン」

「黙れと言ったぞ」

 この国では賢者と呼ばれ、それなりの扱いを受けているらしい男をじろりと睨みつけて、一方、子供の肩に置いた手は優しく背中に回された。

「お前が見たもの、為したこと。私も想像に難くない。だが、覚えておくといい。何もお前だけが不条理に不幸に陥れられたわけではない。戦火を免れたとはいえ、この国の民が不満なく生きているわけでもない。何を基準に生きるか、お前は判断を間違えてはいけないよ」

 素直に「うん」と頷いておけばいいと分かっていながら、ゼオンは身動きもできずにただ輝く波を目で追った。潮風が子供の前髪をふわりと煽る。ヒノエはふっと息を吐くと、バルコニーに子供を残して円卓に戻った。

 しばらくして、茶と菓子を載せた盆を持って下女が入ってきた。女王を前にして、だらしのない姿勢でくつろぐ男を見て見ぬ振りをして、張り付けた笑顔を崩さず給仕していく。

 円卓にそっと置かれた茶器からは花の香が昇る。茶に花弁を混ぜ込んで淹れたものらしい。

「うん、うまい」

 微笑んだ男に下女は一礼して出て行った。

「正直に言や、酒が出てくるかと少しばかり期待した」

「子供の前で呑むものじゃないだろう。呑みたきゃ、独りでおいで。つぶしてやるよ」

 うまい、と言ったその口で酒をせびる男にヒノエは肩をすくめる。

 男は茶器を片手にバルコニーの柵にしがみついた子供の背中を見た。海を初めて見たのなら、その広大な眺望に心を奪われるのも当然だろう。

「俺はしばらく王都で暮らすことにするかな。できたらあいつに戸籍を用意してくれないか」

「お前が私に頼み事とはめずらしい。わかったよ。離宮をそのままにしてある。使え」

 城壁の外にある離宮は先王の御代に下賜されたものだ。王家の所有物にしては狭隘だが、造りのしっかりした趣のある屋敷で、別れた女と二人で暮らした住処でもあった。独りで住むには広すぎると、ずいぶん前に返上したはずだった。

「やめておく。あれは、お前に返したんだ。お前も売るなり、ほかの臣下に下すなりすればいいものを。維持費だって馬鹿にならんだろ」

「そうかい?じゃあ、今度そうしようか」

「そうしろ。はやいとこ」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ