#05
ぐるりと城壁に囲まれた都市は、王都エルバという。エルバを中心に繁栄する経済圏は城壁の外にも市場が立ち並び、大きな商家やブドウ棚などの農地も広がっていた。
この地域を掘れば簡単に出てくる黒い岩盤の地層から切り出された石造りの都市で、石畳を敷き詰めた道路の両側には、同じ石と煉瓦を組み合わせた4階建てほどの中層の建物が連なって、最奥の王城の門まで続いていていた。
城壁の外の門番に男は手を挙げるだけで通行を許され、王城の門まで堂々と騎乗のまま達した。子供は男の背にしがみついて、居心地の悪さをかみ殺した。不安なときは腰の小刀に手を伸ばすと安心したものだが、男と一緒に森を後にした日に失くしてしまっていた。
「お前のそれ、ちょっと見せてくんない」
ちょうど小刀の柄の形になるように作った右手を差し出されて、しぶしぶ子供は腰から鞘ごと抜いて渡した。刃の具合でも確かめるのかと思ったのもつかの間、男は大きく振りかぶって力いっぱいそれを投げ捨てた。数秒遅れて、森の茂みのどこか遠くに着地した音が聞こえる。
「な、なにす…」
「お前にはもう必要ない。探すな」
静かに怒りを貯めたような声音で、短く男が言った。冷たい眼をしていた。
刃こぼれも多かったが、まだ使えたのに、と反論したかったが、自分を連れていく以上、武器を取り上げるのも至って妥当な判断だ。しかし、染みついた習慣はなかなか消えず、子供の左手は今はない小刀の柄を探して、腰を探った。
男は城門の番兵の前で馬を降り、手を伸ばして子供を下ろした。括り付けてあった荷物袋を肩に担ぐと、手綱を取って番兵に声をかける。
「よう、お疲れさん。馬を頼むわ」
「け、賢者様ではござりませぬか。お久しぶりでございます。すぐに案内の者を」
男を見つけた見張り台の兵が別の声をあげ、バタバタと伝令が走っていく。
「開門ー!開門ー!」
「すぐに宰相殿にお知らせせよ!」
慌ただしく門が開けられ、目の前には石畳の広場と広場の周りに配置された数棟の建造物、その奥に白亜の城が見えた。
子供はすぐ傍に立つ男の下衣をつまんで、引き寄せる。
「賢者、様?」
「言うな。柄じゃないのは分かってる。この国ではそんな扱いになってんだよ、俺。あんまり近寄りたくないんだけど、この中に雇い主ってか、悪友ってかが住んでるもんでな、痛しかゆしってヤツだ」
王宮を目の前にして、「住む」と表現できるのはただ一人ではないかと思い当たったが、口に出すことは憚られた。
国境近くからの村から王都までの旅路で、男も子供も自分の身の上について多くを語ることはなかった。子供は未だ男の生業も名前すら知らなかったが、何らかの地位にいることは馬一頭とっても間違いのない気はしていた。しかし、辺境の森からついてきた男は、予想した以上に只者ではないらしい。
「たまに顔出してやらんと拗ねるしな。まあ、あいつは気軽に王宮を出れる立場でもないし、俺が会いに来るしかない」
馬を預けた男は、案内を待たずして足を進めた。広場には兵士や文官らしき人が行き交っていたが、男を見かけると誰もが足を止めて一礼する。男は気さくに手をあげたり、うなずいたりして応じているようだったが、どう見ても年上の彼らに対して、男が自分から頭をさげることはしなかった。
子供はますます居心地が悪い思いで男の背中に身を隠していたが、男は手を伸ばして子供の手首をつかむと、自分の隣に引っ張った。
「おいで。大丈夫だ」
男は子供の手を引いたまま、城に足を踏み入れた。
迷いのない足取りでいくつも扉の続く回廊や中庭を抜け、王宮の最深部に至る。
「お久しぶりにございます。門番よりの報告で、陛下は既にお待ちでございます。どうぞ、こちらへ」
王の私室につながる扉の前で、鋭い眼光をした初老の男が待ち構えていた。この国の宰相であり、有力貴族に名を連ねるシンガイ老である。老は男が連れた子供の身なりに厳しい視線を送りつつも、自ら扉を開け、二人をいざなった。
部屋はごく私的な応接室のようだった。中央に大理石の天板のついた猫脚の円卓と椅子があり、その一つに長衣を纏った妙齢の女が腰かけていた。
「悪いな、シンガイ。お前も執務の途中だったろう。もういいよ。下がって構わない」
「は。それでは失礼いたします。後で下女に何か軽い物を持ってこさせましょう」
「ああ、頼む」
老が出て行ったのを見送って、男は勧められてもいないのに女の正面の席を陣取ると子供を隣に座らせた。
「久しぶりだな。お前が子育てに目覚めたとは聞いていたが、何の気の迷いだえ?」
「別に。かわいいだろうがよ」
男は手を伸ばすと子供の頭をかき回すように撫でた。
「そうだねえ。お前よりは十分、愛す可き存在だねえ。いつの間に宗旨替えしたのだ?足枷を持たない主義かと思っていたが」
「お前と同じにか?女に頼まれたんだよ。断れねえだろ」
「今でも気があるのか?美しい女だったそうだな」
「うるせえ。ただのクソババアだよ」
苦し紛れの一言に女王は声を立てて笑った。
「お前も可愛い男だよ」
賢者と言われて長い月日が経ち、世の中の全てを冷めた目で見続けるように見えるこの男は、たまに見た目通りの若い反応をすることがある。女王がこの男を気に入っている理由でもあった。
こちらをなんとも言えぬ表情で見る幼子を見つめて言った。
「お前もそう思うだろう。だからこの男について来たのだろう?わかるよ。」
王宮に足を踏み入れてから、緊張で声もでなくなっている子供に女王は優しく微笑んだ。
「この男をよろしく頼むよ。長く私のお気に入りでねえ。大切な友人なのだよ。まったく男ってのは、何年生きても子供のままで可愛い限りさ」
過去の思い出に囚われて、昔の女を思い続ける男の有様に目を細めた。不器用で一途な心根も嫌いではなかった。