#04 一切れのパン
例えば見知らぬ誰かと二人。己が手には一切れのパン。
例えば漂流する小舟において、例えば遭難した雪山で、例えば孤立無援の敗走のさなかで。
手持ちの食糧がただ一切れのパンになったとする。救助の気配など微塵もなく、パンの配分が自己の命すら左右する状態だとして。パンの存在は己しか知らない。そのとき。
パンを分けるという行為はどのような意味を持つだろうか。
きっかり二等分なら平等か?相手が弱者なら全てを渡さないといけないのか?争いの種だと振りかぶって遠くに放るか?
これは良心の在り方の問題だ。
ボクならば、そう。連れの背後。闇に紛れて、手にしたパン両手で覆い、口いっぱいに押し込んだら、息を殺して静かに静かに呑み込む。
良心の在り様に命まで賭ける気はない。そうやって生きてきたんだ。
月のない夜だ。
村の灯が届かぬ森の深いところ、少しだけ広がる空き地から針葉樹の間に広がる夜空を見上げれば、地面に脚を投げ出して座っているというのにそのまま吸い込まれそうな浮遊感がある。
瞬く星、澄んだ夜空の向こうに失くしたものが見える気がした。眼鏡をかけた父が本を読む横顔。何の変哲もない学校での日常。自分の部屋の小さなベッド。母が編んでくれた赤いマフラー。三人で囲む食卓にそそぐ温かな光。
どれも今は星のように遠い。手を伸ばしても届くことのない幻想に同じ。
「独りで星見とはなかなかに風流な餓鬼だな。」
常時、周囲には警戒していたはずだったが、このところ村人もぱったりと姿を見せなくなり、気が緩んでいたのかもしれない。突如背後から聞こえた声にビクリと肩を震わせて幼子は振り返った。
くたびれたケープを肩に巻き、やけに大きい革の荷物袋を背負った若い男が一人立っている。一瞬、村人の通報で近くの砦の警備兵が派遣されてきたかと肝を冷やしたが、男は真夜中の森に立ち入っておきながら武器の一つも身に着けてはいない。
何とも妙な気配を持つ男だった。敵意もない、殺意もない。嫌悪も、恐れもありはしない。わざわざ声をかけておきながら、まるでこちらに関心がないような風情だ。
「まあ、こんな夜だ。ほかにすることもないか」
男は何の気負いもなく幼子の細い背中に並ぶように腰を落とした。
「まあ、邪魔だろうけど、ちょっと同席させてくれや。俺も今日は星でも眺めて癒されたい気分でね。はあ、あああ。なんでこうも女にフラれるってのは打撃が激しんだか。畜生、クソババア!俺は長生きだけど、こういうのには慣れてねえんだぞ」
子供が動揺と警戒の狭間で次の行動を起こせないでいるうちに、男は荷物袋を肩から外して股の間に置くと、そのまま四肢でしがみついて顎を載せた。これが、クマの縫いぐるみを抱いた幼女であったならば、まだしもかわいいと表現できたかもしれない。
「俺といるのが苦痛だとしたって、死んでから言えよって話なんだよ。どうせ、生い先短けえんだ、墓場まで持ってったところで誤差の範囲内だろうが!ここまで引っ張っといて、今更突き放すって、どうゆう神経だよ。あ、やべえ、まじで泣きそう」
(め…めそめそしだした…)
「いいか、お前も男ならな、女の限界点には気を付けろ。それは突如としてやってくるんだからな!」
(な、なんか諭された…)
「あれ、おかしいな。別にお前にグチるつもりなんか微塵もなかったのに。やべ、止まんねえわ。そういや昔、俺の親父が言ってたなー。『男が泣いていいのは、玉ねぎ刻んでる時と女にフラれた時だけだ、馬鹿者!』って。百年単位で忘れてたけど、めちゃめちゃ久しぶりに思い出したわ。けだし、名言だ」
妙な男の妙なグチに強制的に巻き込まれた子供は、かけるべき言葉も見つからず、目を合わすこともできないまま、膝を抱えた。
「ああ、ちょっとスッキリしたわ。聞いてくれてありがとな。ところで、狩小屋に住み着いた旧帝国軍の少年兵ってのはお前さんのことかい?」
瞬間、茂みの向こうに身を隠すべきかと腹に力を入れかけて、やめた。先ほど無防備な背中を晒した時点で戦略的にはもう負けだ。若い男は役人にも商人にもましてや軍属にも見えなかったが、気配を隠して動ける能力は確かだ。子供は腰にした小刀の位置を冷静に確認するに留めた。
「数か月前からこの森で暮らしてるんだって?」
実を言えばこの森には半年前から住み続けていたのだが、数か月前に村人と出くわした辺りから、小屋を追われるのも時間の問題と分かっていた。子供とはいえ、素性の分からない者が近隣に住み着いては、村人も扱いに困るだろう。
住処と狩場と水が確保できる次の場所がどこにあるかは分からないが、正規の兵士に追われる前にここを離れろとでも言いにきたのだろうと理解した。
「そうだ」
男を無視して無言を貫くか逡巡したものの、一呼吸おいて子供は短く返事をした。
男は返事が返ってきたのが予想外だったようで、なにやら面白そうにニヤリと笑った。子供が腰にした得物には感づかれている気がした。
「村人に言われて来たのか?」
「まあ、そうだな。でも、追い出しに来たわけじゃない。面倒を見る気もないが、ここにいたけりゃ居ていいとさ。あいつも優しいんだか、冷たいんだか、どっちかにしろって話だよな」
男は、幼子と同じように脚を投げ出して空を見上げた。率直に言った。
「お前はなぜここにいる?」
「!」
反射的に子供は幼い顔に無慈悲な色をたたえて男を睨んだ。
どうしてかなんて、こちらが聞きたかった。子供などという全く不自由で無力な存在にこの状況の理由を問うというのか。今までの生活のどこに選択権があったというのだ。
(ただやれることをやって生きてきただけだ)
戦争末期のある日、学校に兵隊がやってきて授業をとめた。全校生を校庭に並ばせ、背の高い子供から十人を選んで、そのまま基地に連れ帰った。他の学校からも多くの子供が集められていて、訓練が始まった。国のために戦えと言われ、そうする以外の道はなかった。待てど暮らせど親も教師も迎えに来てはくれなかった。
戦争に負けて、所属させられた隊が崩壊した。国境のオルテクスでは敗残兵を狩る大規模な掃討作戦が始まり、大人たちはてんでバラバラに遁走した。
ただ自分は、次第に追い詰められていく大人たちを囮にして、あいつらの逃げる方向とは逆に進んだだけだ。
いつの間にか国境を越え、故郷とは全く別の方向に来ていたが、幸いなことにこの国は比較的温暖で山や森には食べきれないほどの木の実や植物があった。たまには小動物も捕れた。少しずつ移動を重ねて、この森の小屋に辿り着いた。
子供の荒んだ目を見て、男は自分の失言に気づいた。
「いや。えっと。悪い。聞き方を間違えたな。そうじゃなくてだな」
頭の後ろをかきながら、何やら言いづらそうに口にする。
「お前、ここにいたいか?なら、村長にとりなしてやる。もう少しマシな寝床を用意させることもできるだろう。もしか、お前、俺と来るか?俺はお前ほど生活能力は高くはないが、多少のコネがあって食うには困らん。女にもフラれたばっかで、孤独だしな」
自分に選択権をくれる大人は久しぶりのことで、子供はとっさに反応できなかった。
答えに迷う様子をどう捉えたのか、ならば食い物で懐柔するかと、男はガサゴソと荷物袋をあさって一切れのパンを取り出した。男はそれをわずかに千切ると毒味でもするように口に入れ、残りの大半をこちらに差し出す。
パンを分けるという行為の意味を知ってか知らずか、当前のように差し出されたパンに子供は目を見張った。断面が白い。故郷ではあまり目にすることのない小麦のパンだ。
「やるよ、ほら」
反射的に受け取ってしまったパンを手に、動きを止めた幼子を男は不思議そうに見やる。
「何、お前。ジャムがないとパン食えない人?ったく、しゃあねえなあ」
再度荷物袋をかき回し、小瓶を取り出して放る。パンを持っていない方の手で辛うじて受け取ると、金色の蜜が星明りに透けて見えた。
「ジャムじゃねえが、代替になんだろ?」
子供にはとりあえず甘い物でも預けとけ、とばかりに放ったそれはババアの台所からくすねてきたものだった。子供の手の中にすっぽりと納まる小瓶には金色の蜂蜜が満たされている。
子供はますます固まってしまった。
「ったく、もう。貸してみ」
いったん子供から小瓶を取り上げると固く閉まった蓋を「ぬぬぬ」と顔をゆがめて開けてやり、小さな手に戻す。やはり、こちらも毒味をしてやった方がいいのかと無造作に指を突っ込んで、男は甘ったるい蜜を舐めて見せた。
「毒なんか入ってるわけねえだろ。俺、そんな悪党には見えない外見だと自負してんだけどな」
「そういうことじゃない」
「あ、そう。じゃ、喰えよ。お前、ちょっと痩せすぎだぞ。あー。いや、なんだ。一応言っとくけど、太らして食おうとかも思ってないからな!」
大人げない男の言動に毒気を抜かれてか、子供は小瓶を傾けて蜜を垂らすとパンを頬張った。じっとりとした甘さが口いっぱいに広がる。
久しぶりの味覚が、子供の郷愁をあおった。やばい、と思った瞬間にはすでに涙はあふれていた。一度流れ出すと止めようにも止まらなかった。
男が差し出してきたパンはひたすらに甘く、ただ旨かった。
不意に大きな手が伸びてきて、子供は男の胸に引き寄せられる。
「…うっ…く…」
くたびれた衣服の下で、男の鼓動がわずかに聞こえた。久しぶりに聞く息遣いがやけに懐かしく離れがたかった。一体いつ振りだったろうか。生きた人間の傍にいるのは。
しばらくして、降参したように男が呟くのが聞こえた。
「反則だわ、こりゃ。小さいってだけで、なんでこんなに可愛いのかね」
パン、分けるヤツ書きましたが、当方「一口食べてみる?」と差し出された皿からどんだけ取っていいかで冷や汗かきそうになる小心者です。