#02
二人で酒瓶を三分の二ほども空けただろうか。男はなんとなしに小さな円卓に向かい合って座る女を見た。グレイに染まった髪を左肩のあたりで緩く結んで部屋着にガウンを羽織った姿ですら、相変わらず品の良さを漂わせており、雨音に消えるように小さく、きれいだなと口の中で呟いた。聞かれたくもなかったが、口に出さずにもいられなかった。改めて思う。女は確かに遠い昔、男が惚れた女だった。
女と出会ったのは互いの見た目が変わらなかった頃だ。美しいとの評判は聞いていたが、口の悪さも大概で、そこが面白いと思った記憶がある。ともに旅をした時期も、王都に居を構えて暮らしたこともあったが、二人並んでも親子にしか見えなくなった頃に一緒に住むのをやめた。それでも年に一度男は女を訪ねたし、女もまた住処を変えることはなかった。
女はこの世界をふらふらと漂う自分にとって、錨のようであった。王命に従い、街から街、国から国へと放浪を続ける旅路で、目をそらしたくなる惨状に出くわし、聞きたくもない醜聞を耳にし、考えたくもない現状に頭を抱えて、それでも生き続けなくてはならぬとき、男はこの村を目指した。必ず自分を受け入れてくれる女の優しさに何度縋ったか知れない。
この村で独り身を通してきた女。それは間違いなく男のせいだったろう。男とさえ出会わなければ今頃、子や孫に囲まれた温かい家で、笑い声の絶えない賑やかな毎日を送っていたに違いない。彼女の子は国一番の美しい若者に成長しただろうし、女は家族のために、たくさんの服を縫ったに違いない。
「…俺はお前から何を奪ったのだろうな」
出会いから今に至るまで、この女と共に老いて死ぬ人生を、そんなささやかで凡庸な人生を男は何度夢見ただろう。
「うん?何か言ったかい?」
若い顔に似合わぬ憂いを帯びた瞳を受け止めて、女は軽く首をかしげた。
「独り言だ、気にするな」
へそを曲げたような男の口振りに肩をすくめて、女は思い出したように別の話題を振った。
「そうだ。お前、覚えてるかい?そこの森に狩小屋があったろう?」
「ああ。脇に小川が流れてる?なんだ?一宿一飯の礼に狩小屋に泊まって害獣の一匹でも狩って来いって話か?村の若いもんの仕事だろうが、んなのは」
なんでもやってやると先刻のたまった同じ口で、男はさも嫌そうに言った。
狩りならば多少の心得があるが、目当ての獣が見つかるまで運が悪ければ数日を要することもある。一日やそこらで済む話ではない。一人でやるには長期戦を覚悟するしかないが、村人を組織するのもなかなかに面倒な話だ。
「お前だって姿形だけは若かろうが。ま、やって欲しいのは獣退治じゃないがね」
この家のすぐ傍には深い森が広がっている。昔は狩猟や栗などの木の実を採集しに村人がよく立ち入ったものだが、村の周辺が開墾され農地が広がると畑作や家畜の飼育が盛んになり、狩小屋の存在も形ばかりものになっていた。
そこに子どもが一人住み着いたという。
先ほどよりさらに雨脚の強まった窓の外に視線を移して、女は低い声で言った。
「多分、あれは帝国の見習い兵の生き残りだ」
軍国主義を掲げた帝国は国境に位置するこの村にとって、永らく脅威の的であった。
約一年前まで続いた大戦で滅亡したとされているが、後がなくなった戦争末期、多くの子供が見習いと称して強制的に徴用された。当初は名目通り、早期の人材養成が目的だったが、成人男性が貴重になる中で通常の戦闘はもちろん、その見た目の弱さを利用して諜報や暗殺に至るまで捨て石のように動員されたと聞く。
特に、戦闘の激化する国境周辺に僅かばかりの食糧とともに送られた幼い彼らは、敗戦とともに国から打ち捨てられ、故郷に戻るすべもないまま大半が飢えて命を落とした。
現在は戦勝国の役人が政を仕切り、都市部から少しずつ活気を取り戻しつつあるが、経済優先の復興は身寄りのない子供たちのもとに未だ救いの手を差し伸しのべてはくれなかった。
守られるべき幼い命は、大人の都合で簡単に利用され、そして捨てられたのだ。
「戦闘そのものは、この付近じゃ起こらなかったからね。たぶんオルテクスのあたりから流れてきたんだろうさ」
オルテクスはここから二つ山脈を越えた辺りに位置する渓谷の名である。この国を含む三カ国の国境が交差する国防の要所の一つだ。この国沿いを流れる大河とその支流によって各国の国境が分かたれ、三国の砦が互いに睨みを効かせていた。
「あの子も本当は家に帰るつもりだったのだろうよ。川を渡って、必死に歩いて、不幸にも辿り着いたのが、ここだったんだ」
ふた月ほど前、女は野草を採りに入った森で偶然その子供を見かけた。目当ての植物の群生地につながる獣道が、たまたま兎を追ってきた子供の進路と重なった。互いに驚いて息を飲んだのもつかの間、子供はすぐに獲物を追うのをやめて茂みの向こうへと姿を消した。
同じように出くわした村人が何人かいて、しばらくすると子供の存在は村中の知るところとなった。
「十かそこらにしか見えなかったが、身のこなしが尋常ではない感じでね。どこぞで仕込まれた動きだった。例の人狼部隊。あれに見習い兵が混じっていたら、ちょうどあんな風体の子供に仕上がる気がしたよ」
帝国の暗殺集団、人狼。先の戦争において、残虐の限りを尽くしたとされる最悪の部隊の名だった。一晩あれば3つの村が壊滅すると噂され、標的とされた村では生後間もない赤子から畜生に至るまで全ての命が狩りつくされたという。数々の恐ろしい逸話が飛び交っていたが、それがあながち、ただの流言でないことを男は知っていた。
「人狼か。久しぶりに嫌な名を聞いたものだ。まさかあいつらの中に餓鬼までいたとは。何にせよ、放ってはおけないだろう。警備兵にでも見つかれば捕まって投獄されるぞ。子供に無体な真似はしないとは思うが、だとしても、村の誰かの子供として養ってやれないのか?子供一人くらい養える余裕はあるだろう?村長は何やってんだ?」
「あいつだって、最初は村の家々に声をかけて、引き取り手を探していたものさ。でも、わかるだろう?誰だって殺しの技を持ってる子供を、手元に置きたくはない」
隣国同士の戦争でこの国が戦火に焼かれることはなかったが、国境に位置する村には戦時中、盗賊に身を落とした帝国の脱走兵やら難民やらがやってきて、飢饉に備えた村の食糧庫を何度となく襲われた過去がある。近くの砦から警備兵も配備されていたが、村人の中には夜盗との攻防の末に命を落とした者もあった。一年をかけて育てた作物を奪われ、何の咎なく肉親の命が取られれば、その後に残る憎しみの深さは想像に難くない。
村人は帝国から来た子供に憐憫の目を向けながらも、受け入れることを拒絶した。おそらくは、森の狩小屋から追い出さないでいることこそが、彼らにとって最大の譲歩なのだろう。
「俺に村から出ていけとでも説得させる気か?お前が言うならやらんでもないが、後味の悪い結果になりそうだな」
村の事情を察して、嫌々ながらも引き受けようと思ったところで、女はそれに首を振った。
「いいや。出ていけとまでは誰も思っちゃいないさ。あの戦争を生きのびてここまで逃れたんだ。ここにいたいなら、いればいい」
「村には迷惑をかけない範囲内でか?おーおー。複雑なこって」
話が害獣退治よりも面倒くさい方向になってきたのを察知して、男は酒を手酌で注ぎたすと一気にあおった。
「なあ、お前」
「あん?」
「旅の道連れに連れて行ったらどうだい?」
男は女以外の誰かを連れて旅に出るつもりはなかった。今までずっとそうしてきたのだから、十分わかっているだろうに。けれど、女の声音は思いのほか真剣で、そこに若干の違和感を覚えたのは確かだ。
「一宿一飯にしちゃ高すぎる対価だ。村の厄介事を体良く俺に押し付けるな」
「押し付けるわけじゃないさ。裏庭の草刈りは押し付けたいと思っているがな」
「いやはや、驚いたわ。俺に旨味がさっぱりねえ」
「村長に貸しが作れる」
「アイツに恩って何の得があんだよ。味を占めてさらなる厄介事を押し付けられるだけだ。こないだも『王都に行くついでだ』とか言って、橋の架け替えの嘆願書を届けさせたんだぜ、俺に」
「いい人選じゃないか」
「年寄りってのは押しなべて人遣いが荒いもんなのか?不条理にもほどがあるな」
「お前もいい歳なのだから、子育てでもしてみたらどうだいって話だよ。お前は意外とそういうのが似合いそうな気がするよ。それに、相手が殺人鬼だったとして、お前なら寝首を搔かれて死ぬ心配もないだろ?適任だよ」
「嫌だね。そういうお前が引き取れ。暇な年寄りにぴったりだ」
「正直、私もそう思う。でもね、あの子が大人になるまで何年かかると思う?こっちの方が先にくたばっちまう」
不意に男の中で、この話題は鬼門だと警鐘が鳴った気がした。何か悪い方向に話が進みつつあって、もはや元には戻れない予感がする。
「せっかく引き取っても親代わりがすぐに死んじまったら、子供がかわいそうだろ」
「お前はそう簡単に死んだりしない!」
不安に駆られて語気を荒げたその時、女は悲しげに微笑んだ。
優しい声音で、ゆっくりと、言った。
「もう、夢を見るのはおよしよ」
恐れていた最後通告だった。
「私はもうすぐ逝くよ。本当はよくわかっているだろう?」
絶望的な別れの宣告。男は動揺で目を泳がせた。
「なあ、ちょっと待てよ。それは、今言うべきことなのか?俺らは今、いい酒を呑んで、たわいもない話をしてただけだよな?なんでそんな話になんだよ?頼むから、ちょっと待ってくれ」
人は彼ほど長くは生きられない。男にもわかっていることだ。
もしかしたら、女は既に死期を悟っているのかもしれない。酒を禁じた医者は、女に余命の宣告をしていたのかもしれない。女は次の春には墓石の下にあるのかもしれない。
けれど、その時が来るまでは、もしかしたら永遠にと期待することさえ許されないのか。
「これはアレか?俺が孤独になる前に、お前が俺の道連れを用意してくれるって話なのか?そんな斡旋業者みたいなこと、誰が頼んだよ。悪趣味すぎんだろ、これは!」
叫んだ瞬間、脳裏をよぎったのは女との思い出だった。どれも断片で、とりとめがなく、そして極めて美しかった。
腕を組んで歩いた森の小道。艶やかな黒い髪を揺らして振り返る顔。指先でスカートを持ち上げ、白く滑らかな脚をさらして川辺に佇む姿。口づけをせがんで首に回される細い腕。裏庭の長椅子で陽だまりの中、幸せそうに眠る横顔。
「お前とともに生きられる女だったらよかったな」
「だから、なんでそれを今言うんだよ!」
お前も結局、俺を捨てるのかと。
そう口にしてしまいそうな自分が心底無様で情けなかった。そう言って女にすがれば、今度もまた、彼女はこの我が儘を受け入れてくれるだろうか。
(でも、もう。これがお前の答えなんだな?)
不意に込み上げてきたものを目の縁にため、睨むようにこちらを見る男に苦笑いして、女は立ち上がると男の頬に手を伸ばした。両手で包み込んで顔を寄せると、額と額を合わせ、祈るように言った。聞き分けのない子に諭すようでもあった。
「私はね、お前にだけは死に目を晒したくはない」
女には自分の死に様を想像したとき、物言わぬ死体にしがみついて、置いていくなと泣く男の姿が見える。寝台の脇に跪いて、腐食し始めた女の手を握り続ける男が見える。一緒に死んでやるのだと死ねもしないのに胸に刃を立てる男が見える。感情もなく死んだように生きる男が見える。
女にとって、それはとても甘美な想像であった。
だが、現実にしたいとは微塵も思わない。
そろそろ、男を自分という枷から自由にしてやらなければならない。そのきっかけは、こちらから提供してやらなければならない。自分からは離れられない、そういう種類の男だ。
本当に手のかかる仕方のない男。
「すまない。許しておくれ」
「先回りして謝るのはずるいだろ。クソババア」
男は女の腰を引き寄せて、とうとうその胸にすがった。恥も外聞も長すぎる人生のどこかで失くしてしまったらしい。
女の細い指先はそんな男の髪を優しく撫で続けた。