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沈まぬ蛍  作者: サク
2/15

#01

二日前。


 降りしきる雨が窓硝子に打ち付けて、その向こうで風がひゅうひゅうと鳴く音がする。雨期に入ったこの季節には一晩中、村はずれのこの小さな家に響き続ける。

 真冬の、何もかにもが雪に吸収されてしまいそうな無音の夜と比べれば、賑やか過ぎる雨音も嫌いではない。子守歌代わりとでも思えばいいと寝台に体を滑り込ませ眠りに就こうする間際、扉に渡した横木の閂を壊さんばかりに玄関が激しく叩かれた。

 70を超えた老女の一人住まいに深夜でなくとも訪れる客は数少ない。こんな時間ともなれば、あの男しかおるまいと、かろうじて火を落とさずにいたカンテラを手に女は立ち上がった。

 案の定、玄関付近には扉を叩く音に加えて、早く開けろ、ババア!などと叫ぶ若い男の声が聞こえてくる。余りの口の悪さに女はやれやれと毒づいて、カンテラを壁にかけた。

閂を外してやると、くたびれたケープを肩に巻き革の荷物袋を背負った男が、濡れそぼった髪をかき上げながら入ってくる。床には男のブーツを中心にして見る間に水溜まりが広がっていった。

「いや、助かったわ。お前が起きててくれて。頼む、泊めてくれ」

 他人様の安眠を暴言とともに妨害しておいて、男は悪びれもせず若い顔に笑顔をのせた。

 その姿を見やって、やれやれと女は目を伏せる。

「まったくお前と言うやつは」

 溜息とともに居間に入るよう顎で促すと、壁際の戸棚から乾いた布を何枚か取り出し、投げつけるように放ってやった。

「きれいに拭いてから座んな。茶でいいかい?」

「いーや。酒がいいな。お茶なんかじゃ温ったまんねえよ」

 言いながら男は濡れた衣服を脱ぎ捨てて、一度全裸になると、おざなりに布で体を拭き始める。お前は人生の何処で恥じらいを捨ててきた?と言わんばかりの女の視線を無視して、革の大きな荷物袋から着替え一式を取り出して下穿きとシャツを身に着けた。多少湿っぽい気はしたが、我慢できないほどでもない。

「ヒトの眠りを邪魔しておいて、酒までせびろうってのかい?こちとら、医者から止められてんだよ」

「いやいや、ないわけないでしょ。お前ん家だぜ?早く出せよ、呑み明かそうや」

 若い姿態に目を細めて、女は深く息を吐いた。先ほど布を取り出した戸棚の一番下の観音扉を開けて、奥から酒瓶を選び取る。その実、いつか来る男のためにと切らしたことのない銘柄だった。

「いいの揃えてるよなあ、相変わらず」

 一年のうちには、この地域にだって過ごしやすい季節も来るというのに、訪ねるに必然的な理由を設けては、こんな嵐の夜ばかりにやってくる。

 仕方がない。年寄の家なんぞ、理由がなければ訪れる気にもならないに違いない。美しいと近隣の村々で評判になったこともある若い頃と違って、老いぼれて見る影もなくなった今の顔など、見て楽しいものでもなかろう。

 それでもなお、何かしらの理由を付けては訪れるこの男を憎からず思う心を悟られぬよう、精一杯の粗野な動作で円卓にグラスを置いた。もはや恋だの愛だのと情欲を伴った強い感情はない。男の存在は彼女にとって箪笥にしまい込んだ少女時代のワンピースのように捨てきれない大切な思い出そのものと言えた。

「年寄りの寿命をこれ以上縮める気じゃなかろうね?」

「お前の寿命の短さを俺のせいにすんな。お前も好きだろうが」

「少し待ってな、つまみの一つも用意してやる」

「あ、俺。アレがいいな。プルーンか何かのドライフルーツを薄く切った豚肉で巻いたヤツ。前に作ってくれたろ?」

 いきなり何年前の話を持ち出すのかと思ったが、もう女は何も言わず、下火になっていた暖炉に新しい薪を追加してやると台所へ向かった。しばらくして、つまみを乗せた皿を片手に戻ってくると、暖炉の前には男が身に着けていたものがブーツから順に並べられ、男もまたその列の一部に連なって小さくしゃがんで火に手を伸ばしている。

 一体いくつになったか知らないが、未だ少年のような仕草をする男の姿に思わず笑みがこぼれた。

「お前、夜分にやってきて酒と料理までねだったんだ。雨が止んだらこき使ってやるから覚悟しなよ」

「おーおー、任せろや。老体に鞭打ってでも、屋根の修理だろうが庭の草刈りだろうがなんでもしてやるさ」

 暖炉の前に陣取って、揺れる炎に目を向けたまま男は言った。

「…老体ねえ。そういえば、お前、馬はどうした?歩いて来たわけじゃなかろう?」

「村長の納屋につないできた。勝手に入ったから、日が昇ったら謝りにいくさ。まあ、雨が強くなってからは馬を引いてきたし、隣町からほぼ徒歩って言っても過言ではないな」

「王家から下賜された馬だろう?大事に扱ってやりなよ」

「馬よか人間様の心配してほしいんだが、俺は」

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