#14
就寝の間際になって、不寝番の近衛兵が気まずそうに寝室の扉を叩いた。
「陛下、お休みでございましょうか。あの、今こちらに…」
王を訪ねるには余りにも非常識な時間帯に客を通してよいものかと、扉越しに是非を問うものだったが、兵士が最後まで伝えるまでもなく、部屋の中からくぐもった声がした。
「いいよ、あの男だろう?」
「左様でございますが…」
「流石にここではまずかろうから、そうだな。書斎に通しておくれ。あと、悪いが、誰かに何か酒を持って来させてもらえるか?安酒で構わない」
「かしこまりました。それでは書斎へお連れいたします」
こんな時間に何を考えている、と叱責されるとでも思ったのだろう。近衛兵は安堵したように返事をして立ち去った。
部屋の隅に置かれた赤みがかった飴色の艶やかなマホガニーの机に向かい、書き物をしていたヒノエは、立ち上がって椅子の背もたれに掛けたガウンを手に取った。
着替えるべきかとも思ったが、この時間ではあれこれうるさい側近たちもすでに下城してしまっている。あの男ならば、自分が寝間着姿どころか下着姿であっても何も気にはしないだろう。逆にどんなに美しく着飾ったとしても反応の一つも示さないに違いない。そんな男に気を遣ったところで空しいだけだ。
だが、少し考えて、机に伏せておいていた螺鈿細工の手鏡を自分に向けて、小指に僅かにとった紅を差す。ほんのり色付いた唇を見て悪くない色だと思った。
女王は一つ息を吐いて手鏡を置くと、ガウンを身に纏った。
書斎は寝室の隣にあった。警備上の理由から続き部屋にはなっておらず、一度廊下に出なければならない。寝室を出ると、控えの間には不寝番の二人のうち一人だけが残っていた。
日の出まで絶やすことのないカンテラを手に取って、短い距離ではあるが女王を書斎まで導く。
「手間をかけさせたな。すまない」
女王は書斎前に控えていたもう一人と合わせて詫びを言うと、自ら扉を開いて中に入っていった。近衛兵の二人は静かに一礼して見送ると、カンテラを扉近くの金具にかけて、壁に背を向けて直立の姿勢を取った。
「言われた通り、独りで来た」
書斎の長椅子に我が物顔で陣取った男は、寝間着にガウンの女王に何の気負いもなく手を上げて挨拶した。
「気楽なものだな、まったく。酒をせびりに来るのもいいが、少しは時間の概念を思い出しておくれでないかい」
長椅子の前の卓にはすでに酒の用意がしてあった。安酒でいいと言いおいたはずだが、微かに漂う葡萄酒の香はなかなか上物の部類に思われた。随分気の利いた手配に、ヒノエは小さく笑った。男の向かいに座って、足を組む。
「昼間はお前も忙しかろうと思って、俺なりに気を回した結果なんだがな」
「気を回す方向を間違えてはいないかえ。これでは逢引きと思われても仕方ない」
「逢引き?俺とお前がか?」
きょとんと目を丸くして、男は言った。まったく、これだから一人の女に一途すぎる男は手に負えない。
「私が夫に先立たれて再婚をしないのは、お前がいるからだという噂があるのだよ。知らなかったろう?」
手酌で硝子の杯に酒を満たして呑み込む瞬間、男は気管に入り込んだ酒で思い切りむせ込んだ。
「頼むから、酒などこぼして部屋を汚さないでおくれよ。これ以上、侍従に迷惑をかけたくはないからね」
夫は幼い頃からよく知る国内の侯爵家の次男だった。国外に夫を求めるべきとの意見も根強かったが、その反対を押しての婚姻だった。彼との間には娘が一人あったが、二歳にも満たぬまま幼くして病で死んでしまった。夫の死はそれから間もなくのことで、表向きには不運な事故とされている。その実、夫の実家である侯爵家への権力集中を嫌ったどこかの派閥の仕業だったろう。
遠駆けに出かけた際の落馬が原因だと聞かされたが、どこまでが真実かヒノエには判断がつかなかった。
それから国内外を問わず縁談はいくつもあったが、歳を理由に全てを断った。嫡子には無難なところで弟の長男を指名しておいたが、夫の実家である侯爵家の一派からは未だに反発を喰らっている。
「いや、悪かった。なんか、えと。申し訳ない…。せめて次からは気を付ける」
若い燕が夜這いに来たと見えなくもない現状に鑑み、男は素直に非礼を詫びたが、余り簡単に謝られるのも何やら面白くないものである。
「別にいいよ。賢者の肩書のあるお前ならば、当て馬としてちょうどよかろう。それに、酒を呑むのなら昼間では風情がない」
空の杯を手にした女王に、男は酒を注いでやった。
「そこは、同感」