唐突な奴――これがいわゆる先手必勝
目の前で繰り広げられる光景に、わたしは思わず自分の目を疑わずにいられなかった。なぜ。どうして。そんな疑問詞だけが頭の中を駆け巡る。
「あら、やっと起きたのね、穂之香。胡桃沢さん、一時間も前から待っていらしたのよ。起こさなくても良いっておっしゃっていたんだけど」
母の暢気な声に、思わず眩暈を覚えた。この人か。この事態を招いたのは。
どうやら先日と同じく、保健医は朝一番にこちらに着いたらしい。ただしあの時とは違い、今回は自家用車だそうだ。けれどそんな事はどうでも良い。二度と会う事などないだろうと思っていた相手がここにいると言う事が、わたしにとって最大の問題なのだ。
「母さん、おはよう。で、どうしてあなたがここにいるのかしら」
寝起きは悪くないわたしだが、今朝は違った。今一番会いたくない人物が、我が家のリビングのソファに悠々と腰かけていたのだから。
端整な造りの顔を、怒りに任せて拳で殴ってしまったのは、ほんの一週間ほど前の事。その左頬にはまだうっすらと内出血の痕が残り、わたしの右手の拳からようやく取れたばかりの痛みが、一瞬ぶり返したような気がした。
拳で殴ると、殴られた方の打撃は当然の事ながら、殴った方も結構な痛みを伴うのである。いくらぶん殴りたいくらいに憎らしい相手でも、歯や鼻をへし折るのには忍びなく、咄嗟に顎から頬にかけての固い箇所を殴ったのが災いしたらしい。わたしの右の拳もまた真っ青になってしまったのだ。四日間は湿布と包帯を巻いていたのだが、ようやく腫れが治まって来ていたと言うのに。
「一緒に住むからには家の方にもご挨拶を、と思ったんです。善は急げと言いますし、思い立つとじっとしていられなくて。一応メールをお送りしたのですが、アドレスを変えられていて届かなかったものですから」
アドレスの変更などはしていないが、この男のアドレスはフィルタリングに設定して番号は着信拒否に設定してあるのだから、届かなくて当然だ。もちろんそんな事は承知の上での発言なのだろうけれど。
「そのお話は、お断りしたはずですけれど」
「でも穂之香、あちらで住む家が見付かっていないんでしょう?」
「う。そ、それは、そうだけど」
一時間の間に、敵に先手を打たれていたらしい。電話越しの声だけでこの男の胡散臭さを感じ取っていたほど人間洞察に優れた母の事、よもやこの笑顔に騙くらかされたわけではないだろう。と、信じたい。一体どんな口車で母を丸め込んだのか、考えるのもおぞましい。
「二人の関係がどうとか、そう言う細かい事はまあ気にしないけれど。年頃の娘が住む所もないって言う方が、よっぽど心配なのよ?」
いや、むしろ二人の関係を気にしてください、お母さん。てーか普通母親なら、そっちを先に心配するものだと思うのだけれど。
どうやら普通ではなかったらしい母を、憮然として見つめた。この人に何を言っても無駄なのは、子供の頃から骨身にしみて知っている。知ってはいるのだが。
「うー」
「ほらほら。さっさと朝ごはんを食べて。胡桃沢さんと、お出かけなんでしょう」
「お出かけ? 誰と誰が?」
「穂之香と、胡桃沢さん」
「ええ。色々きちんと話し合っておかなければならない事もありますので」
母の言動に気を取られていて存在を忘れかけていた保健医が同意を示した事で、わたしの意思とは関係なく「二人でお出かけ」が既に決定事項なのだと知る。どこまで根回しをしていやがったんだ、この野郎。
「せっかく何時間もかけて早くから来てくださっているのに、ちゃんとお話くらいして来なさい」
そう言えば、電車でも三時間弱の距離だった事を思い出す。先日といい今日といい、顔を合わせた時間を考えれば、かなり早朝それも下手をすると始発の電車であちらを発った事になる。どうやら母は、そこに僅かながらの誠意を感じ取ってしまったようだ。
この男がそこまでする理由が、わたしのついた嘘の恋人役を継続させるためだけとは、とてもではないが思えなかった。一体何を企んでいるのかを知るためにも、話だけは聞いた方が良いのかもしれない。もの凄く不本意ではあるのだけれど。
「分かったわよ、分かりました」
どうせ母には敵わないのだし、素直に従った方が身のためだと言う判断のもと。諦めの意も込めて、わたしは盛大な溜息と共に、同意の言葉を吐き出した。
せっかくの休日だと言うのに、何が悲しくてこの男と顔を合わせていなければならないと言うのか。わたしは隣でハンドルを握る保健医をちらりと眺め、視線を戻して嘆息した。
前回で移動の不便さを感じたのだろうか、今日の保健医は自家用車だ。電車よりもさらに時間がかかったはずなのだが、眠い素振りは欠片も見せていない。
さすがにわたしと二人きりの時は、あの胡散臭い笑顔は消えている。あんな事があったのだから当然かもしれないが、お陰で少しは気が楽になった。
「静かですね。この間の威勢の良いあなたが、まるで嘘みたいですよ」
別に話したいとは思わないし、話すような事もない。だからただ口を噤んでいただけの事なのに、この言われ様。相変わらずわたしの神経を逆撫でするのが上手いらしい。
「そちらこそ、今日は人を馬鹿にしたような笑顔じゃないんですね」
「あなた相手に作り笑顔は通用しないようですから」
「無理に笑顔を作ると、顔の筋肉が引きつりますものね」
「まあ、そう言う事です」
厭味が通じているのかいないのか、小憎らしいくらいに涼しいげな表情を崩す気配はない。
さてどうしたものか。
「で? どこに向かっているんですか」
車はいつの間にか高速道路に入っている。つまりしっかりとした目的があって動いているのだと推測できた。そしてやはりその推測は、外れてはいなかったようだ。
「会っていただきたい人がいるんです」
「会う、って、わたしが、ですか」
「僕があなたに、交換条件などと言う少しばかり卑怯な手を使ってでもご協力いただきたい理由、とでも言っておきましょうか」
つまり、その人の前で偽者の恋人として振舞えと要求したのだと言う事らしい。らしいのだが。
わたしはそれ以前に、あの言動の数々を「少しばかり」などと言うこれ以上にないほどの謙虚な言葉で片付けてしまおうとする男の態度に、少なからず引っかかりを覚えた。そして一度引っかかったからには、それを有耶無耶にしてしまう事などできない性格なのだ。
外見と一致しないとよく言われるのだが、この性格が災いして、受けた誤解は数知れず。さらにその誤解から派生した人間関係でのもめごとも、同じ数だけ経験して来ている。しかしわたし自身が間違った事をしているわけではないため、ちゃんと理解してくれる人は常にいるもので。たいていはそう言った人達が仲裁に入って、相手を諭して事なきを得る事が多かったのだが。
今回の件に関して言うならば。さらに今のこの状況に関してのみ言うならば。わたしの味方となり得る人物など、この世界のどこを探しても影も形もあるはずがなく、つまりは孤立無援状態であった。
「理由を、話すつもりはないんじゃありませんでした?」
「そう言えば、そんな事を言ったかもしれませんね」
なにをすっとぼけた事をぬかしているんだ、この野郎。思わず両手で拳を握る。はっきりきっぱり言い切ったのはつい先日の事で、それが理由でわたしがぶち切れてしまったと言うのに。
「あれから状況が変わりまして。どうしてもあなたのご協力が必要になったんです」
どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのか、この男は。
感情的になったら負けだと、頭の中で理性が告げる。ふつふつと湧き上がる怒りをとりあえず静めるため、わたしは固く瞼を閉じて、深呼吸を数回繰り返した。
実際の所。先日来、考えないようにしようと必死になればなるほど頭の中を占拠していたこの男への怒りは、時間を経るに従って次第に薄れて来てはいたのだ。感情に任せて殴り倒した事を悔いる事こそなかったが、殴った手に痛みを感じるたびに、憎らしいほどに胡散臭い笑顔がわたしの脳裏に浮かんで来て、何とも言えない複雑な気持ちになった。それもこれも二度と顔を見る事はないだろうと言う前提があってこその感傷のようなもので、実際に顔を合わせてしまった今となっては、やはり怒りが沸いてしまう。そしてそれは、この男の行いのせいに他ならないのだと結論付ける。
「そちらの状況が変わったかどうかは、わたしには関係のない事だと思いますけれど?」
「もちろんあなたには関わりのない、僕の個人的な事情です」
「だったら、それなりの誠意を見せていただけるのかしら」
「どんな誠意を求めていらっしゃるんすか」
どうやらわたしの受け答えは、男の予想の範疇に入っているらしい。淀みも迷いもなくすらすらと返される言葉に、大きく息を吐く。
「今から会う相手がどう言う人なのか。あなたがわたしに何を求めているのか。最低限それくらいは聞かせてもらえないと。協力するかどうかは、その内容で判断させていただきます」
「それはそうですね。では、何からお話しましょうか」
くすり、と、保健医が微かに笑った。車に乗り込んでから作り笑いをやめた男の、もしかすると初めて見せた素の笑顔なのかもしれない。なぜかそう感じた。
思えばこれですっかり毒気を抜かれてしまったのだが、わたしがその事に気付いたのは、ずっと後の事だった。
一時間半ほど走ってから車は高速道路を下り、わたしにとっては見知らぬ街を走っていた。隣でハンドルを握る保健医はもちろん道を把握しているらしく、搭載しているカーナビに行き先を登録すらしていないようだった。
都会でもなく田舎でもない、どちらかと言うとわたしが住んでいる町に似た雰囲気がある、そんな町並みを見るとはなしに眺める。
途中少しだけ寄り道をしてから町を抜け、さらに郊外へと車が進む。町から離れるほどに、周囲には積雪が見られるようになり、思いの他標高が高い場所なのかもしれないなと感じた。
目的地は聞かされているものの、この目で見た事がないわたしは、頭の中で想像する事しかできない。知らない所に連れて行かれる子供のような心境だ。それが遊園地や食事と言った楽しげな場所ならば子供も喜ぶのだろうが、あいにくそうでない事は既に分かっていた。
「ここですよ」
でんと構える立派な門は、客人を迎えるために開かれていた。その前に停めた車から下り立つと同時に、どこから湧き出たのか、数人の人影がわらわらと近付いて来る。
ここはいわゆる料理旅館で、歴史があり、それなりに格式も高いそうだ。庶民のわたしは名前を聞いてもぴんと来なかったのだが、お金持ちや上流階級の間では名の通った旅館らしい。
「ようこそいらっしゃいませ」
少し年配で落ち着いた和服姿の女性が、温かみのある微笑を浮かべて迎えてくれる。言わずと知れた営業スマイルだが、胡散臭さが感じられないだけでも、向けられて嫌な気はしない。
「胡桃沢です」
「お待ち申し上げておりました。ご案内いたしますので、どうぞこちらに」
物腰優雅で、同性のわたしでも見惚れてしまうほど立ち居振る舞いが美しい。恐らくここのおかみだと思われるので、それも当然かもしれないが。
「お連れ様は、先にお着きになっていらっしゃいます」
先導して歩きながら、おかみがにこやかに話しかけて来る。保健医は当然ながらここが初めてではないようで、おかみを相手に親しげな雰囲気を漂わせていた。もちろんあの胡散臭い微笑み付きで。
わたしはと言えば、移動中に見える庭の見事さに眼を奪われながらも、こんな所に泊まるとしたら一泊いくらくらいかかるのだろうかと、実に庶民的な事を考えていた。実際庶民なのだから、仕方がないと言うものだ。
「こちらです」
案内された先は、旅館の建物から離れた敷地内に点在する、数寄屋造りの個室だった。小さいながらも独立した建物で、どうやらトイレはもちろん小さな露店風呂まで付いているようだ。
おかみの手によって静かに開かれた襖のむこう側。つまり室内にいた人達の視線が、一気に集まる。わたしのような庶民ではなく、こう言う場所に相応しい人達の、けれどそのご身分に相応しくないと思われる、人を物色するような不躾な視線が神経に障った。
「お待たせしてすみません」
わたしの前に立つ保健医の声が、微妙に硬くなったような気がした。
そしてわたしだけに向けられていた例の不躾な視線は、そのまま保健医に向けられる事となる。