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ろくでもない奴――失礼にもほどがあると言うものだ

 真剣な面持ちの保健医に引きずられて来たのは、いわゆるネットカフェだった。

 小さいながらも、個室に男女が二人きり。とは言え身の危険を感じないのは、相手がこの保健医だからこそなのだけれど、その根拠がどこにあるのかと問われると、はっきりと答えを出す自信がない。これだけ胡散臭さ全開にもかかわらず、どうやら職場である将星学園の生徒達はもちろん教職員達もごく一部を除いては、穏やかそうに見える外見に惑わされていると言うのだから、ある意味たいしたものだと思う。もっともこれは保健医本人の弁なので、信憑性は定かではない。けれど昨日の様子を見ていると、それもあながち嘘ではないのだろうと思えた。


「昨日あれから、知人に頼んで部屋を探させたんですよ」

「部屋?」

「探しておきましょうか、と言ったじゃないですか」

 そう言えば、知人が不動産屋だとか何だとか、そんな事を言われたような気がする。気がするが、頷いたり頼んだりした記憶はない。

 ここに引っ張り込まれる前に劇的な態度の豹変を見せた保健医は、あの胡散臭い笑顔こそなりを潜めたが、いたって穏やかな口調に戻っている。少なくともあれは何だったのだろうかと疑問に感じずにいられない程度には怪しい。

「あなたは乗り気ではなさそうでしたが、他にお心当たりもないんでしょう? 勝手だとは思いましたが、お節介を焼かせていただきました」

 胡散臭いわりには、意外と律儀な性格らしい。でもまあ、拒否するのは後でもできる事だし、とりあえず話だけは聞いておいても損はないかもしれない。


 慣れた手つきでキーボードを叩いている保健医の横顔を、見るとはなしにぼんやり眺めた。やっぱり綺麗な顔立ちをしている。線が細いと言うのか、とにかく端整なのだ。眼鏡を外して化粧をすれば、そんじょそこらの女よりよほど美人になるのではなかろうか。きつめの目つきも、理知的に見せる手助けをしてくれそうだ。

 そこまで考えて、ふと自分の思考が馬鹿らしくなった。この男が化粧をするなんて事はあり得ないだろうし、万一そう言う事があったとしても、わたしには何の関係もない。むしろ顔の良さを再認識してしまい、嫌悪感を煽られるだけだろう。


「これですね」

 保健医が指差したディスプレイには、マンションらしき間取り図がいくつか並んでいた。一見していずれもワンルームあるいは1LDKだと分かる。

「女性だと言う事を告げて、セキュリティー最優先で選ばせたんですが。やはり家賃は七万から八万円台になりますね。他に敷金保証金が三十万から四十万かかります」

「四十八万円、ですか」

 一人暮らしにしては贅沢すぎる金額に、くらくらと眩暈がした。敷金保証金は後でいくらか戻って来るのだろうが、それはあくまでも退去時の話だ。住んでいる限りは、ないものだと思わなければならない。

「ルームシェアも下宿も春に空く予定の場所は、通勤に便利だと思われる範囲内にある物はやはり全て押さえられているようです」

「はあ」

 職は決まったにもかかわらず、住む場所がないなんて。まさか野宿しながらと言うわけにもいかないし、それどころか住所不定では採用を取り消されかねない。これでは八方塞がりだ。


「そこで、提案があるのですが」

 くるりと体ごとこちらを向いたその顔は、至って真面目。至って真剣。

「もしよろしければ、僕が住んでいるマンションに、一緒に住みませんか」

「は?」

 思わず耳を疑った。ちょっとあんた、今何とおっしゃいました。一緒に住む? 誰と誰が?

「築二年の分譲マンションなのですが、4LDKの広さがありますし、部屋も二つばかり余っています。家賃は無料でも良いのですが、それではあなたも気が引けるでしょうし、月に六万円いただきます。その代わりと言っては何ですが、食費・光熱費その他諸経費は僕持ちと言う事でいかがでしょう」

 胡散臭い笑顔はなりを潜め、真面目な表情で告げられている言葉の内容は、とてもではないが到底本気だとは思えない内容。いかがでしょうと言われても、即断などできるはずもない。

 条件は確かに魅力的だ。敷金保証金なしの六万円ぽっきりなんて、この街を探したって見つからない。しかも食費その他諸々一切支払わなくても良いだなんて。

 そんな都合の良い話があるわけがない。世の中、ただより高い物はないのだ。この場合家賃はただではないけれど、食費その他必要経費が全てただなのだから。


「ふざけないでください。そんな美味しい話を鵜呑みにするほど、わたしは馬鹿じゃありません」

「ふざけてなどいませんよ」

「なおさらたちが悪いです。一体何を企んでいるんですか」

「ああ、ご心配なく。あなたの体が目的だとか、そう言う事ではありませんから。もっとも、近いものがあるかもしれませんが」

「なっ」

 なにをいけしゃあしゃあとほざいているのだ、この野郎。若い男女が一つ屋根の下に住むなど、たとえ百歩譲ってその気がないのだとしても、世間から見ればそう言う関係にしか見えないではないか。

 こちとらこう見えても妙齢の独身女性。変な噂など立てられては、嫁の貰い手がなくなるではないか。結婚願望はそれほど強くないつもりだが、やはり人並みに結婚くらいはしたいと思うのが乙女心と言うものだ。その乙女心を踏み躙るつもりか、この男は。

「交換条件だと言ったでしょう。僕の恋人になっていただきたいのですよ」

 なんですとーっ!

 勢い良く立ち上がったせいで、わたしが座っていたガス式の回転椅子が、後ろにひっくり返った。乙女心を踏み躙った上に、唾を吐きかけられたようなものだ。例えは汚いけれど、それくらい人を馬鹿にしている。

「恋人なんて、なれと言われてなるもんじゃないでしょうっ!」

 そんな事で、よくもわたしの体が目的ではないと言い切る事ができるものだ、この男は。

 固く握りしめた拳が、怒りのために小刻みに震える。

「勘違いしないでください。あなたが周囲についている嘘と同じですから」

「え」

「江原さん達についたあなたの嘘を手伝った交換条件です。他の場所でもその嘘をつき通してくださいと言ったでしょう」

 確かに言った。言ったがしかしわたしはそれを了解した覚えはこれっぽっちもない。

「お気の毒ですが、あなたに拒否権はありません。こちらからは既に誠意をお見せしていますし、何よりもあなたに協力させていただきました。どうしてもお嫌だと言われるのなら、こちらにも考えがあります」

 上着の内ポケットからちらりと携帯電話を覗かせ、保健医は凄みのある笑顔を浮かべた。あの胡散臭いまでに爽やかで穏やかな笑顔ではない。あくまでもわたしを屈服させるための腹黒さ満開の悪魔の微笑みだ。

 つまり、わたしが断れば今すぐに電話をかけると言うのだろう。その相手は間違いなく江原先輩と真奈美の主治医だ。江原先輩はまだしも、主治医はまずい。かなりまずい。狸のようにせり出した主治医の腹を脳裏に思い浮かべたわたしの背中を、奇妙な汗が流れて行く。

「恋人と言っても、ふりだけです。あなたの純潔の保証はしますよ。一緒に住んでいる間は絶対にあなたに手を出さないと約束します。衣食住の問題が一気に解決できるのですし、悪い話ではないと思いますが」

「な、んで。そこまでして嘘の恋人を仕立て上げる必要が、どこにあるんですか」

「個人的な問題です。あなたに話すつもりはありません」

 そのひと言に、わたしの中で何かが音を立ててぶち切れた。何かなんて言いながら、その正体は分かっている。堪忍袋の緒と言うやつだ。目の前が怒りで真っ赤に染まる。

 どんな手を使ったんだかそんな経緯はどうでもいいけれど、とにかくこちらの事情は気持ち悪いくらいに把握している。にもかかわらず自分の手の内は一切見せようとはしない。それでどの面下げて交換条件だなどどほざくのか、目の前にいるこの野郎は。

 平等な事などなにもない。完全にこちらが不利なこの状況で、それでもわたしが肯諾すると本気で思っているのだろうか。馬鹿にするのも甚だしい。

「そちらがそう言うつもりなら、この話はなかった事にしてください」

 怒りが頂点に達すると、逆に頭が冷えて冷静になるものなのだと、久しぶりに実感した。実に六年ぶりの事だ。

「わたしがついた嘘の事ですけれど、暴露したければどこでもいくらでもどうぞ。人生にかかわるような重大な嘘でもありませんし、その事で多少信用が落ちる事があっても、痛くも痒くもありませんから」

 そしてにっこりと。満面の笑みを浮かべる。

「とにかく。あなたと一緒に住むつもりはありませんし、恋人役なんて真っ平ごめんのこんこんちきだよ一昨日来やがれこん畜生です。あなたなら、頼めば喜んで恋人役を引き受けてくれる人はいくらでも見つかるでしょうから、どうぞ他をあたってください」


 まだ言ってやりたい事は山ほどあったはずなのだが、とりあえず一息にそれだけ吐き出すと、少しだけ胸のむかつきが治まった。

 笑顔が消えた無表情な男の、無駄にきれいに整った顔を見ていても、嬉しくも何ともない。世間一般の女性なら、ここでうっかり見惚れたりしてしまうのかもしれないが、生憎わたしはきれいな男にもかっこいい男にも興味はないのだ。

「もしも将星学園へのわたしの転職を握り潰すつもりなら、どうぞご自由に。あなたならそのくらいの事はしそうですものね。でもそうなると二度とお会いする事もなくなるでしょうから、いっそせいせいしますわ。では、ごきげんよう」

 椅子に座ったまま無言でわたしを見上げたままの男に背を向け、わたしは颯爽とその場を後にした。




 まったく、むかつくったらありゃしない。顔のいい男にはろくな奴がいないと分かっていたけれど、その中でも最悪な奴に引っかかってしまった自分の身を呪うしかない。

 ヒールが磨り減る事も気にせず、とにかく表通りを闊歩する。

 うっかり有給なんて取ってしまったばかりに、丸々半日暇になってしまった。それは可愛い妹がらみの事だから仕方がないにしても、その大元の理由があのいけ好かない唐変木だと言う事が腹立たしいのだ。

 さらには四月からはどうやら無職になってしまうと言う予想が、情けなさに追い討ちをかけている。母にどう説明したものだろうか。とにかくむこうに行くだけ行ってから職を探すと言う方法もあるにはあるが、それ以前に住む場所がないのだから二進も三進も行かないではないか。

 ここが公道でなければ、間違いなく頭を抱えてしゃがみこんでいるところだ。実際に足は、先程からぴたりと歩みを止めている。

「さて、どうしたものかしらねえ」

 怒りはひとまず収まったものの、途方に暮れて空を見上げた。どんよりと重い雲が垂れこめた冬空に、心の中まで北風が吹き込んで来るような気がした。


 あまりに情けなくて、泣きたくなって来た。

「とりあえず、僕との交換条件について、もう一度交渉してみませんか」

 あり得ない声に振り向くと、予想通りそこには、今一番見たくない顔がある。

「どの面下げて交渉だなんて言えるのかしら」

「この面です」

「顔に自信がおありなんですね。でも生憎ですけれど、わたしは顔のいい男に、まったく興味はありませんから」

「そのようですね。だから改めてお願いしたいと思ったんです」

 握った拳に力が入りすぎ、小刻みに震えている。人目さえなければこの男の顔を、力任せに張り倒していたかもしれない。

「あら。わたしはあなたのお眼鏡にかなった、って事なのかしら」

「言葉を選ばなければ、そう言う事になりますね」

 にこにこと笑顔を浮かべる保健医に、わたしも負けないくらいの笑顔を返す。

「端的にお返事させていただきますわね。ふ、ざ、け、ん、な!」

 腹の底から叫ぶ。人目も何もあったものではない。

「人を馬鹿にするのもたいがいにしなさいよっ!」

 気が付いた時には、渾身の力を込め、目の前の端整な顔を殴りつけていた。平手ではなく、強く固く握りしめた拳で。

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