不誠実な男――それはまるで、狐と狸の化かしあい
結局その後は、非常に忌々しい事に、仕事どころではなくなってしまった。幸いにもほとんど使わずに残っていた有給を取る事を上司が了承してくれたのだが、周囲からの視線が痛いと感じるのは気のせいだろうか。
わたしは溜息を吐きながら、職場である図書館の通用口から外に出た。館内の暖かすぎる空調から、一転肌を突き刺すような冷気が体を包む。
表通りには、見慣れた車が待っていた。持ち主の顔を見るまでもないそれは、江原先輩の物で。当然の事ながらその運転席には、先輩がいる。それは良い。それよりも問題なのは、助手席に座っている、胡散臭い眼鏡の優男だ。
いっそこのまま気付かないふりでもしてやろうかと思ったけれど、それでは先輩があまりにも気の毒だ。仕方なく車に近付き、後部席のドアから車に乗り込んだ。
「お待たせしました」
「美人を待つのは苦にならないから、気にするな」
そう言いながらも、いつもの先輩にしては表情がやや固い。それはやはり胡桃沢のひいてはわたしがついている嘘のせいだと分かっているから、良心が痛んで仕方がなかった。
車はやがて、大きな白い建物の前に、滑るように到着した。
正面玄関で下ろされたわたしと保健医は、職員専用の駐車場に車を停めに行った先輩を、ロビーで待つ事になる。
「一体、どう言うつもりなんですか」
暫しの沈黙に耐えかねてわたしが声をかけると、にこりと笑って保健医が小首を傾げた。これが年若い少年少女ならば可愛い仕種なのだろうが、生憎目の前にいる男は、既に薹が立った三十代。むしろ薄ら寒いだけだ。
「一応あなたを助けたつもりだったのですが、お気に召しませんでしたか」
「助けてくれなんて言った覚えはありません。それに貸しにするって言っていたじゃないですか」
「そうですか。では、彼が来たら本当の事を」
「だーっ! それは、ちょっと、待って!」
焦って止めるも、涼しい顔で爽やかな笑顔を浮かべている男に、思わず理不尽な怒りを抱く。
貫き通すほどのものではなかったはずの嘘が、ここまで来てしまえば今さら「嘘でした」ですまなくなっている事は確かなのだ。そして事態をここまでややこしくしてしまったのはこの男のせいなのだが、元はと言えばわたしがついた嘘が発端なのだから、恨むわけにもいかない。
「僕も、あなたにお願いしたい事がありまして。だから貸しと言うよりも、交換条件と言ったところですね」
「交換?」
「ええ。あなたがあの方についている嘘を、他の場所でもつき通していただきたいんです」
つまりは、わたしとこの保健医が恋人同士だと言うとんでもなく馬鹿げた嘘を、今この場限りではなく、ずっとつき通せと言いたいのだろうか。
思わずしげしげと目の前の男の顔を見た。不躾な視線をものともせずに、相変わらずの笑顔を貼り付けているあたり、どこまで胡散臭い奴なんだと言う思いが湧いて来る。この笑顔に、一体どれだけの人間が騙くらかされているのだろうか。
「そんな、露骨に嫌そうな顔をしなくても良いじゃないですか。なにも捕って食おうと言うわけじゃないんですから」
いえいえ。その笑顔の裏には何があるのか分かったものじゃないし、油断していたら頭からぱっくりと食われそうな気がします。
「詳しい話は、また後で」
急に一方的に話を打ち切られ、どうしたのかと思えば、むこうの方から江原先輩が歩いて来る姿が目に入った。
先輩に促され、良く見知った館内を移動する。
ここは江原先輩の勤務先であり、妹の真奈美が大怪我をした時に運び込まれた病院。私立のいわゆる総合病院で、三ヶ月間の入院から始まって、リハビリ・再手術・リハビリとかなり長きに渡ってお世話になっていた。そして江原先輩は、再手術後のリハビリの時から、偶然にも真奈美がお世話になっていた理学療法士。簡単に言うとリハビリの先生だ。
別に先輩の職場を見学に来たわけでもなければ、思い出に浸りに来たわけでもない。口から出任せの単なる口実かと思われた保健医の「仕事」が、実は本当の事だったのだ。そしてさらにはその内容が、編入予定で体にやや支障を抱えている真奈美の状態の詳しい説明を担当医から受けるためだと言うのだから、わたしにとっても他人事では済まされない。
胡桃沢が事情を話すと、今日は午後からのシフトに入っていると言う先輩が、案内役を買って出たと言うわけなのだ。わたしとしてはできるだけこの二人を接触させたくないのだが、そうもいかないらしい。それならば目の届く場所で見ている方がましだと判断した事も、二人に同行する理由の一つになった。
「先週から、今日ここに来る約束はしていたんです。だからこれは、ほんの偶然ですよ」
どうにも胡散臭い男だけれど、その言葉は信用できる気がした。
真奈美の主治医は、今では整形外科の部長で多忙を極めている。さらにはこの病院の院長の子息で、将来的には病院長に就こうと言う立場にあり、急を要する事でもない限り、アポイントメントなしに訊ねても会える確率は低いのだ。
そんな大それた医師がなぜ妹の主治医になったのかは、至って簡単な理由。ここに運び込まれた時に手が空いていた整形外科医が、他にいなかっただけの事だ。その後若い医師に引き継いで交代すると言うのもよくある事なのだが、当時十歳になったばかりだった妹を不憫に思ったのか、それとも別の思惟があったのか、とにかくこの六年間、ずっと主治医でい続けてくれている。もっとも、その弊害がないわけでもないのだが、それは妹には関係がない事なので、まあ良しとするしかない。
何度か入った事がある整形外科部長室の中央に、大きな事務机が置かれている。事務机といっても、一般企業の社長が使うような立派な造りの物だ。椅子もまた単なる事務椅子ではなく、背凭れもクッションも立派で実に座り心地のよさそうな椅子である。
病院経営ってのは儲かるものなんだなと思わずにはいられない成金趣味だが、案外この業界ではこれが普通なのだろうか。
「いらっしゃい。お待ちしていましたよ」
部屋の主がご立派な椅子から立ち上がり、にこやかな笑みで出迎えてくれた。年の頃は父と同じ四十代後半。白髪交じりのロマンスグレーで少々お腹がせり出てはいるけれど、切れ長の目元も涼しげな、なかなかの男前である。
主治医が何かを探している間、勧められた三人掛けのソファに胡桃沢と二人で腰を下ろして待つ事にした。
「ご多忙のところ、無理なお願いをして申し訳ありません」
「いやいや。これも仕事ですから、お気遣いは無用ですよ」
保健医と主治医。どちらも実に人当たりの良い笑顔を浮かべてはいるが、わたしの目には狐と狸の化かし合いに見えて仕方がない。どちらが狐でどちらが狸かは、推して知るべしである。
「ああ、あったあった。昨日カルテのコピーを用意していたので、これも一緒にお渡ししておきます」
こちらに向かって来る主治医の手には、レントゲン写真と思しき袋やら書類用の茶封筒やらクリアファイルやらがあり、それがどうやら全て保健医に手渡される予定の資料らしかった。特に六年間分のカルテは、入院期間が長かったせいもあり、かなり嵩張っているように見える。
医者の守秘義務とか病院間の軋轢とか、そう言うものは問題にならないのだろうか。素朴な疑問が脳裏を過ぎったが、近年は医療の連携がどうとか言っている事だし、この際気にしない事にする。
「これで必要なものは全て揃っていると思うのですが、足りないものがありましたら、ご連絡ください」
主治医の手から全てのものを受け取った保健医が、その表情を崩さずにざっと中身に目を通した。
「ありがとうございます」
そのままでは持ち帰るのも大変だろう、と、主治医が内線で指示を出すと、ほどなく事務職員の一人が、大きな紙袋を持って来てくれた。まさに至れり尽くせりだ。
「真奈美ちゃんが遠くの街に行ってしまうと、寂しくなりなますねえ」
「そうですね。先生には、本当にお世話になりました」
ぺこりと頭を下げる。この人には、本当にお世話になったのだ。
「新しい主治医は、政高君になるんですか」
「いえ。わたしは一介の雇われ保健医ですし、元々専門は外科ですから。主治医は、父の方で手配してもらう事になっています」
「おや、それは残念ですね。しかしまあ、胡桃沢先生にお任せしておけば安心でしょうが」
どうやらやり取りを聞いている限りでは、この二人、今日が初対面ではないらしい。さらには胡桃沢の父らしき人物も話題に挙がっているのだが、どうもわたしは場違いなのではないかと感じ始めていた。
「父から、ぜひまた一緒に食事でも、と伝言を頼まれています」
「そう言えば、去年の学会でお会いして以来ですね。近日中にこちらからご連絡させていただきますと、お伝えいただけますか」
「承りました」
学会と言う事は、保健医の父親も医師なのだろうか。もしそうだとしても、わたしには関係のない事だけれど。
それからも二人は、世間話的な事や時折医学用語も交えての会話を楽しんでいた。あくまでも表面上は楽しんでいた、のだろうと思う。しょせん狐と狸の事、お互いの本音など僅かにも窺わせるような事はなかったけれど。
その間わたしは人の話に割り込むなどと言う下品な事はしないまでも、耳に入って来る音から意識を逸らせるため、昨日電車の中で読んでいた本の内容を思い出して、頭の中で反芻していた。
「それでは、長居してはお邪魔になりますので、そろそろ失礼させていただきます」
ようやく胡桃沢が腰を上げた時、外科部長室に入って既に一時間近くの時間が経過していた。お互いに腹の内を見せないで良くそれだけ話ができたものだと、感心するやら呆れるやら。そんな考えはおくびにも出さず、わたしも保健医に従ってソファから腰を上げた。用件が済んだのなら、さっさと帰るに限る。
そう思ったのに。
「穂之香さん。この後、少しお時間をいただけませんか」
しっかりちゃっかりお声がかかり、顔が引きつったのが自分でも分かった。
隣では、保健医が僅かに驚いた表情を浮かべている。これもまた意識して作られたものだとしたら、本物の狐狸だ。
「え、あの」
「久しぶりにお会いできたのですし、一緒に昼食でもいかがですか」
やっぱりそう来たか。そうは思っても、それを顔に出さないのがオトナと言うものだ。
「すみません。せっかくですけれど、この後予定がありますので」
「では、今夜。夕食はいかがですか」
「いえ、夜も予定が」
行きがかり上有給を取ってしまったため、本当はこの後も夜も予定などありはしない。しないのだが、お誘いを断るには嘘も必要なのだ。
引きつったままの顔で、それでも何とか笑顔を作る。心の中では、掴んだ腕を離せこの野郎とかあんたは好みじゃないんだよとか年を考えろよこのオヤジとか色々文句が飛び交っているのだが、それでも何とか耐えていた。
「穂之香さんは、この後わたしと新居を探しに行く事になっているんです」
そして落ちた、保健医の爆弾発言。目の前の主治医の動きが、わたしと同じように止まった。
「新居、ですか」
「ええ。春から一緒に住む事になっているんです」
ちょっと待て。この男は、今、何を言いやがった?
無理をすれば爽やかに見えない事もない笑顔を見せながらわたしの腕を掴んでいる主治医の手をやんわりと払い除け、とんでもない事を言ってくれた張本人は。憎らしいほどの落ち着きぶりで、わたしと主治医の間に体を割り込ませていた。 主治医の切れ長の目が、いつもの流し目ではなく、今まで見た事もないくらいに大きく見開かれている。絵に描いたような驚きの表情だが、残念ながらわたしにはそれを鑑賞して笑う余裕などどこにもない。
「穂之香さん、それは、本当ですか」
引きつり笑顔の主治医に声を掛けられ、わたしはようやく我に返った。
「え、いえ、その」
思いがけず今日何度目かの窮地に立たされたわたしは、問いかけにもしどろもどろ。どうしたもんだよどうしてくれるんだよどうしろって言うんだよこの野郎。と、心の中で保健医を罵倒する事しかできない。できないのだが。
元はと言えばわたしが先輩についた嘘がそもそもの発端だと言う事は、誰に言われなくても自覚している。それと言うのも数年前からこの主治医に言い寄られていたのを知って色々庇ってくれている先輩に、もう心配は要らないのだと思ってもらうためだった。まさかそこに当の保健医が絡んで来るなどとは思いもよらず、ましてや第三者であるはずの保健医が嘘の上塗りをするような言動を取るなんて、わたしの予想の範疇をとっくに超えてしまっているのだ。
念のため言っておくが、主治医はこれでもれっきとした独身だ。過去に結婚していた時期もあったらしいが、当時の奥方とは円満離婚をしたらしい。だからわたしに言い寄ろうが恋人を作ろうがそれは自由だし、恋愛に年齢は関係ないと言うわたしの持論も健在だ。それでも時折わたしの耳にも届いていたのだが、院内の見目良い看護師をつまみ食いしていると言う噂がまことしやかに囁かれていた。
そんな極めて個人的な事情を昨日今日会ったばかりのこの保健医が知っているとはまさか思えず、ではなぜここまで完璧にわたしの嘘をフォローできるのだろうかと考えても、答えが出るはずもない。さらには何を思っての言動なのかも全く見当が付かず、素直にこのノリのまま嘘をつき通していいものかどうか逡巡する。確かさっき、交換条件がどうのこうのと言っていたような気がする。と言う事は、今この場面こそが、保健医の言う「他の場所」なのかもしれない。
目の前の現役色男と昔の色男の顔を、交互に見た。どうしてわたしがこんな事で頭を悩ませなければならないのだろう。そう考えたら、以前にも増して顔のいい男が嫌いになりそうな気がした。
「穂之香さん?」
考えに沈んでいた意識が、主治医の声で現実に引き戻される。あまりに返事を引っ張りすぎて、不審感を抱かれてはまずい。
「ほんとう、です」
言いながら、引きつる頬の筋肉を必死に動かす。笑顔だ。笑顔を作るのだ。
「そう言うわけですので」
なにがどう「そう言うわけ」なのかと思いもしたが、保健医のその言葉に主治医が言葉をなくして動きを止めている。その隙に保健医が、掴んだままのわたしの手を引いて整形外科部長室であるその部屋を後にした。
何となく気になって後ろを見たが追って来る気配はなく、ほっと安堵の息を吐いた。
しっかりちゃっかりレントゲン写真やらカルテの写しやらが入った紙袋をもう片方の手に持っている保健医は、そのままずんずんとまるで勝手を知っているかのように、病棟内を移動する。呆気に取られているわたしに構う事なくエレベーターに乗り、あれよあれよと言う間に、さきほど入って来た正面玄関に到着してしまった。
一月の外の冷気に触れ、体が竦む。それに気付いた保健医が足を止め、わたしは未だ掴まれたままになっていたその腕を振り払った。
それまでにこやかさを装っていた保健医の表情が消え、眼鏡越しの目がすっと細められる。一気に周囲の気温が三度くらい下がったような気がして、わたしは思わず片手でもう片方の自分の腕を抱きしめた。
「ちょっと、付き合っていただけますか」
温かみが感じられないその口調に、まるで凍りついたかのように、身動きができなくなってしまっていた。