理不尽な奴――思いがけず立たされた理不尽な窮地
予定よりも早く目覚めさせられたわたしは、予定よりも早く家を出て、予定よりも早く職場に到着した。
そしてちょっと間が抜けているけれどお人好しの上司を探して捕獲する。
「これ、お願いします」
上司の鼻先に差し出したのは、朝からささっと書いてしまった退職願。父譲りとも言える、思い立ったが吉日を身上としているわたしである。既に決まっている事ならばなおの事、さっさと済ませてしまうに限るのだ。
「え? あれ、庄司さん、辞めるの?」
「はい。もう次も決まっていますので、できれば年度末かもっと早くが良いんですけれど」
ぼんやりとした風貌の上司は、目の前の封筒とわたしの顔を交互に見つめ、やがて溜息を吐いて、封筒を受け取ってくれた。
「庄司さんの事だから、止めても無駄だろうね。時期については、人事と相談しておくから」
「はい。よろしくお願いします」
「何だか、嬉しそうだね」
上司はそう言って、少し複雑そうな笑顔を浮かべた。
予想以上にあっさりと退職が認められ、普通ならば
「わたしは必要とされていなかったのね」
などと考えてブルーになるのかもしれない。しかしわたしは、上司に指摘された通りむしろ嬉しくて仕方がない。ここが職場でさえなければ、スキップしながら鼻歌を歌うところだ。
これで後顧の憂いは断ち切った。あとは転職を待つのみだ。
「なんだか、やけに楽しそうだな。いい事でもあったのか」
うきうきしながら廊下を進む。今日は中央カウンターで返却業務のローテーションに入っている。足取りも軽いわたしに、誰かの声がかけられた。実は声の主に心当たりがあるわたしは、思わず舌打ちしてしまう。
後顧の憂いがここに一つだけあった事を思い出し、とりあえず無難な逃げ道を模索した。
「ありましたよ。超! すてーきな人との出会いが!」
内心はともかく、わざとらしいほど明るく言ってやった。
怪訝そうに細められた目は、全然まったく笑っていなくて、薄ら寒さを感じてしまう。
「それは凄いな。庄司に素敵だと言わせるなんて、よっぽどの男なんだろうな」
「もちろん。年は三十一でちょっと上だけど、眼鏡と白衣が似合う知的な人なんですよ」
その時わたしの頭に浮かんでいたのは、あの胡散臭いほどの笑顔を貼り付けた保健医の姿。メガネと白衣が似合うのも知的なのも嘘ではないが、素敵だとは思っていない。なんて正直に話すわけにもいかないけれど。
「白衣って事は、医者か」
なんだか昨日から、この背に代えられない腹のような問題が、絶え間なく湧いて来ている気がする。
「白衣に眼鏡ってところは、俺と条件が同じだな」
口元を歪ませ、目の前の男は自嘲気味に笑った。
「でも彼の方がずっと、顔も性格も良いですから!」
笑顔で並べる嘘八百。あの男の胡散臭さは、目の前のこの人の比ではない。と言うか、比べる事自体が失礼だ。
「顔良し性格良し、知的で三十一歳独身の医者? そんな物件、そうそういるわけがない。だいいち、お前、顔の良い男は嫌いだろう。そんなすぐにばれるような嘘をつくものじゃないぞ」
さすがに嘘臭いと感じたらしい。しかし性格以外に関しては、実は本当の事なのだが。
顔良し性格良しひょうきんで面白い二十六歳独身の理学療法士なら、今目の前にいるじゃないかと、心の中で突っ込みを入れる。顔が良い男は嫌いだけれど、この人に関してはそれが当て嵌まらない。嫌いとか好きとかそう言う対象ではないのだ。
「まあ、顔はつけ足しだとしても、他は申し分ないし」
「ふうん?」
相手の顔が険しくなる。そんな事を言われても、普通女は好きな男がいる限りは、言い寄られても困るのではないだろうか。わたしの場合は実は嘘なのだけれど、それはそれこれはこれだ。
「あいにく、そんな言葉を頭から信じろと言われても無理なんだがな」
まあ、そうだろうとは思っていた。これくらいで引き下がってくれるのならば、五年間もこんな付き合いは続いていなかっただろう。
目の前の男こと江原慎二は、わたしの中学時代の先輩だ。江原先輩は陸上部わたしは空手部と、直接の先輩後輩ではなかったのだが、当時恭平が陸上部にいたためそれなりに言葉を交わした事もあったりした。
あくまでも、その程度の関係だったのだ。五年前江原先輩が、わたしの妹の真奈美が入院していた病院に理学療法士として就職して来るまでは。
どこでどう間違えたのかは、未だ謎ではある。いっそこの人が、外見の良さを鼻にかけている嫌味な男なら、迷う事なくすっぱりきっぱり切り捨てられたのに。なまじ老いにも若きにも男性からも女性からも好かれるような人だから、対処に困るのだ。
「とりあえず、その男に会ってみない事にはなあ。お前の口からでまかせかもしれないし?」
「会うのは無理ですよ」
「なんで」
「だって、電車で片道三時間もかかるし」
「そんなに遠くにいる男と、どうやって知り合ったって言うんだ?」
いい加減、気持ちが落ち着かなくなって来る。ここは図書館なのだ。静かに読書に勤しむための場所なのだ。司書を天職と考えているわたしにとっての、いわば聖地なのだ。
「恭平の勤務先」
「恭平って、高橋か? まなちゃんの『おにいちゃん』だろう? あいつの勤務先?」
「ちょっと野暮用でむこうに行ったとき、偶然知り合ったんです」
決して嘘ではない。むしろ本当の事しか言っていない。かと言って、まさか警察に突き出されかけたのがきっかけなのだとは言えないが。
「遠距離恋愛ってガラじゃないと思うけど?」
「もうすぐ遠距離じゃなくなりますから」
「どう言う意味だ」
訝しげに眉根を寄せる相手に、努めて爽やかな笑顔を向ける。
「わたし、春にはむこうに行くんです。職場には今日、退職願を出しました」
「その、男のため、か?」
そんな事、あるはずがない。けれどそれを言ってしまうわけにはいかない。ぜひともこのまま勘違いをしていてもらわなければ。
「ええ。だから、江原先輩。今まであり」
ありがとうございました。そう続けようとしたのに、阻止されてしまった。目の前にいる男、江原慎二に。いきなり引き寄せられ、どうやら抱き込まれてしまっているらしい。人目がある場所で何て事をするんだ、この人は。
「行かせない、って言ったら?」
「は?」
思わず耳を疑った。
努力して磨き上げた外見から誤解を受けやすいのだが、わたしは男の腕の中なんてものには免疫がほとんどない。全くないとは言わないが、慣れるほどの回数は経験していない。その事は、恐らくこの人も知っている。
そして当然の事ながら、今のこの状況はとんでもなくわたしの心を掻き乱す。はずなのだが。
確かに鼓動は早くなっているし、頬もほんのり赤くなっているだろうとは思う。けれどどうにも今ひとつ、緊張感も危機感も沸いて来ないのだ。むしろ安心してしまう。そしてそれは他でもない、相手が江原慎二だと言う事が最大で唯一の理由。
くすり、と思わず漏れた笑いに、不機嫌そうな溜息が聞こえる。
「お前ね。俺に失礼だとか思わないのか?」
「ああ、うん。ごめんなさい。でもやっぱり、先輩は先輩だから」
それ以上にもそれ以下にもなれない。それはずっと前から分かっていた事なのだ。
くすくすと、湧き出て来る笑いを止める事ができなくて。抱きしめられているはずの腕の力も、いつの間にか緩んでいて。それでもいきなり離れようとかそう言う気にもなれなくて。背中を撫でられる優しい手の動きの心地良さに、わたしはここがどこなのかも忘れて、ついうっとりとしてしまっていた。
「一体これはどう言う状況なんでしょうねえ」
朝から電話越しに耳にした、覚えのある声が聞こえて来るまでは。
嫌な印象しか抱いていないわたしの頭に、まさかと言う言葉が浮かんだ。
「なんであなたが、ここにいるのよ」
江原慎二の腕の中。顔を上げて振り向いた先には、予想通りの男が予想に反した表情で立っていた。例の何を考えているのか分からない笑顔ではなく、少し不機嫌そうな、困ったような顔。少しと言うよりも明らかにと言った方が正確だろうと思われるその表情に、なぜだか困惑してしまう。
「遠路はるばる会いに来た恋人に対して、お言葉ですね」
「こっ?」
誰が誰の恋人だって? わたしは思わず叫びそうになったが、寸での所で堪えた。江原先輩にそれらしき事を匂わせるような言い方をした以上、頭から否定するわけにはいかない事に気付いたのだ。
「庄司、まさかさっきの」
「顔良し性格良し知的で三十一歳独身の医者です。医者と言っても学校医ですけれどね」
ふざけた物言いだが、どうやら先程の江原先輩の言葉をそのまま真似たのだと言う事に気付き、愕然とする。一体どこから聞いていたのだろう、この男は。
「仕事でこちらに来る用ができたので、せっかくだから穂之香さんの顔を見たいと思って、仕事場に押しかけてしまいましたが」
一旦そこで言葉を区切った胡桃沢は、ゆっくりとした足取りでわたし達に近付いてきた。そして呆然としているわたしの腕を掴み、力いっぱい引き寄せられる。
同じように呆然としていた江原先輩の腕の中から容易く引っ張り出され、今度は胡桃沢の腕の中へ。これは一体どう言う状況なのだろう。
「人の物に手を出してはいけないと、子供の時に教わりませんでしたか?」
心なしか怒りを含んでいるかのように聞こえる声音は、わたしではなく江原先輩に向けられたもので。
人の物? 何が? 誰が? 誰の物だって?
「貸しにしておきますから」
思わず叫びそうになったわたしの耳元で、胡桃沢がわたしにしか聞こえない微かな声で囁いた言葉に、開いた口を閉じて唇を噛み締めた。いつからいたのかは知らないが、つまりはわたしと江原先輩との会話を全て聞いていたのだろう。そしてわたしの虚言に、付き合ってくれるつもりらしい。
そこまでは、いい。だがこの男に借りを作ってまでつき通さなくてはならないほどの嘘ではないのだ。何よりも、こんな事で借りを作って、それを笠に着て無理難題を吹っかけられたりでもしたら面倒だ。
それに今ならまだ冗談で済ませられる。そう思ったのに。
「穂之香さんの転職先で学校医をしている、胡桃沢政高です」
などと勝手に自己紹介を始めやがった。しかしその言葉には嘘がない。ゆえに抗議の声を上げるタイミングを逃してしまった。
「庄司。本当にこれがお前の言う『素敵な人』なのか?」
「え。いや、実は」
「ええ。春からむこうで一緒に暮らす事になっているんです」
江原先輩の言葉を訂正しようとしたわたしの言葉を遮って、胡桃沢がとんでもない事を口走った。そのあまりのとんでもなさに、わたしは返す言葉を失くす。
「え? 一緒に? って事は、同棲? ってーか、ありえないだろう、それは」
「おや、どうしてですか」
「あんたが、男前だから」
わたしの思考が停止している間にも、男達は勝手に会話を進めている。
いや待て。ちょっと待て。いいから待て。
「こいつ、顔の良い男に興味持たないって言うか、むしろ男前は嫌いだから」
「そう言うあなたも、男前の部類に入ると思いますけれど?」
「俺は良いんだよ」
「あなただけは特別、と言う事ですか」
「まあ、そうだな」
いや、だからわたしを無視して勝手に話をするな。
相変わらず胡桃沢に抱きかかえられ、背筋にぞわぞわと毛虫か何かが這うような気色の悪い悪寒を感じる。恐らく全身の肌が粟立っているのではないだろうか。
「穂之香さん?」
「庄司?」
二人が二人して突然わたしを見た。自然、顔が引きつる。
そして突然気付いた。どうしてわたしがこんな目に遭わなければならないのだ。江原先輩はともかく、なぜ胡桃沢なんかに問い詰められなければならないのかと。
「取り込み中すまないけれどね。庄司さん、時間だから早く持ち場に行きなさい」
そしてわたしを理不尽な窮地から救ってくれたのは、のん気な上司の、さらにのん気な声だった。