読めない奴――それは朝の電話から始まった
枕元に置いていた携帯電話から、着信音が流れ出す。毎朝目覚まし時計代わりにタイマーをかけているのだが、明らかにそれとは違う音。と言う事は、まだ目覚めなくてはならない時間ではないはずだ。
わたしの職場は、自宅からバスで二十分ほどの距離にある、県立図書館。開館時間が午前十時から午後八時の十時間なので、交代制勤務になっている。正館員のわたしは八時間勤務が基本だが、準館員の場合は日によって勤務時間にばらつきがある。
今週は遅出だから、十時に起きれば余裕で間に合うだろう。だからそのつもりで、タイマーを九時四十五分にセットしていたはずだった。
「もー。いったい誰よ」
十コールで自動的に留守番サービスに切り替わるように設定しているにもかかわらず、一度途切れたはずの着信音が、またすぐに鳴り始める。あまりのしつこさに辟易しながら携帯電話を手に取り、着信番号を確認するが、それは全く見覚えのない物だった。
わたしの携帯電話の番号を知っている人間は限られている上に、必ず相手の番号も教えて貰ってアドレス帳に登録している。着信があれば、相手の名前が分かるように。番号非通知の電話は着信拒否にしているのだが、今かかって来ている相手は番号を通知して来ているわけで。
番号を教えたにもかかわらず登録していない相手など、心当たりは一人しかいなかった。
「まさか、ねえ」
じーっと画面を睨みつけてみるが、そんな事をしても、相手の顔が見えるはずがない。そうこうしている間にも、留守番サービスに繋がったと同時に切れた呼び出し音が、またすぐに復活して来る。
「はい」
あまりのしつこさに、仕方なく着信ボタンを押した。
『穂之香さんですね? 胡桃沢ですが』
予想通りの声が、予想通りの名を告げる。時間を確認すると、午前八時半。一時間半も早く起こされた事を知り、思わずむっとした。
「おはようございます」
多分間違いなく、不機嫌さは受話器越しに伝わっている事だろう。それほどあからさまにトーンの低い声で、無感情な口調で挨拶をする。
『もしかして、まだお休みでしたか』
あたり前だ。結局昨夜は門限を大きく超えて、日付が変わるぎりぎりの時間に帰宅した。眠い目をこすりこすり帰宅してみれば、両親のみならず妹までもが起きて待っていた。一応電車に乗る前に電話を入れておいたのだが、それでも顔を見るまでは心配で仕方がなかったらしい。
わたしがうるさがるせいであまり口を出さない父も、さすがに心配と怒りを含んだ目をしていたし、母に至ってはそんな父を宥めつつわたしの心配までしていたため顔色が悪かった。そして妹はほっと溜息を吐き「お帰りなさい」とだけ言って部屋に入った。実はこれが一番、わたしに堪えたものだ。
それもこれもあれもどれも、全てこの電話の相手のせいなのだから、怒りを感じるなと言う方が無理な注文だ。
「危うく午前様になるところでしたから」
電話を切りたい衝動に駆られるが、どうせ切ったところでまたかけ直して来るのが目に見えている。いっそ着信拒否に設定でもしてやろうかとも思ったが、さすがに近々同じ職場で働く事が分かっている相手だけに、不用意に波風を立てないに越した事はない。そう思って、懸命に堪える。
『そんなに遅くなったんですか』
電車の乗り継ぎが上手くいかなければ片道三時間はかかると、昨日何度も説明したはずだ。
「それで、ご用件は」
できる限り冷たさと険を含んだ口調で訊ねてやる。安眠を妨害された恨みは深いのだと、思い知らせてやりたいがゆえに。
『実は、四月からのあなたのお住まいの事について、提案があるのですが』
しかしどうやら相手にとっては、わたしの不機嫌など歯牙にかけるほどの事でもないらしい。相変わらずの涼しげな口調に、わたしの眉間に深い皺が入った。とはいえ感情に任せて相手の話を聞かないほどの無礼さも持ち合わせていないわたしは、律儀にもその内容に反応してしまうのだ。
そういえばその問題が未解決だった事を、今さらながらに思い出す。むしろ最大の問題点と言うべきなのに。
「住まい、ですか」
『ええ。そちらからでは探すのも大変だろうと思いまして、もしよろしければ僕が探してみましょうか、と言う提案なのですが』
確かに、休みのたびに片道三時間かけて家を探しに行くほど、時間にもお金にも余裕はない。春から一人暮らしをするともなれば、余計な出費は極力避けたいところなのだ。ネットが普及している昨今、検索すればそれなりの数がヒットするのだろうけれど、やはりこの目で物件を見て選びたいと思うのは至極当然の事で。
そんな状況でのこの申し出は、とても美味しいと言える。だがそれを提言している人物に問題がありすぎて、素直にそうですかと言うわけにもいかない。人を食ったような昨日の胡散臭い笑顔を脳裏に思い浮かべると、頭の片隅で危険信号がチカチカ点滅している気がした。
『もちろん無理にとは言いませんが。他にあてがおありでしたら、余計なお世話だと思いますし』
逡巡するわたしに、至って冷静な声で追い討ちをかけて来る。穏やかなはずのその口調が、なぜだか脅迫感を伴ってわたしにのし掛かって来ている気がした。
「えー、あー、じゃあ、とりあえずお願いしてもいいですか」
他にあてなどあるはずもなく、かといって恭平に頼むのはわたしの矜持が許さない。やむなくわたしは、保健医の申し出を受ける事にした。背に腹は代えられないのだ。
『分かりました。いい物件が見つかったら、連絡させていただきます』
連絡用にと、PCのメールアドレスを後で携帯からメールで送ると言う七面倒臭い約束をして、とりあえず電話を切った。
ベッドに仰向けに寝転んで天井を見上げ、胸のつかえを取り去るかのように大きく息を吐き出す。すっかり目が覚めてしまい、今さら寝直す気にもなれない。忌々しさに舌打ちをしながら、わたしは体を起こした。
この時間だと父はいないだろうし、妹は学校に行ってしまっているだろう。とりあえず母にだけ、転職の事を話しておこう。そう思い立ち、クローゼットに足を向けた。
階下には、予想通り母がいた。既に洗濯物も干し終えたらしく、のんびりと新聞の折込チラシをチェックしていた。
遅出のはずのわたしが顔を出した事に目を丸くし、転職の事を知ってさらにびっくりしている。わが母ながら可愛い人だなーと感心するのは、こんな時だ。
転職先が真奈美の編入先の学校だと話したら
「ああ、そう言う事」
と笑顔で納得している。
「住むあてはあるの? 恭平君にでも頼んでみる?」
「一応、知り合いに頼んであるんだけど。って、転職に反対はしないわけ?」
「あら。だってもう決まっちゃったんでしょう? 今さらやめますなんて言ったら、先方に失礼じゃないの」
母は高校在学中に知り合った父と短大卒業後すぐに結婚した人だから、就職を経験した事がない。けれど一般的な社会常識は祖父母からきちんと叩き込まれていて、さらにはそれがわたしと妹にも引き継がれている。
「穂之香が自分で決めた事なんだから、反対はしないわ。もちろん心配はするけれど」
「あー、うん。それに関しては、ごめんなさい」
母の心配性は、今に始まった事ではない。かと言って鳥を籠に入れるような過保護でもなく、きちんと理由を話せば、余程の事じゃない限りは反対はしないのだ。反対はしないが、それは決して心配をしないと言う事ではない。つまりはそれなりに心配をかける事になる。だからこそ、その心配を少しでも軽くするために、日頃から母にはどんな些細な事も話すように心がけているのだ。
「問題はお父さんよ。穂之香、説得する自信があるの?」
「ない」
即答したら、母がまたしても「やっぱりね」と言って笑った。
「わたしも協力してあげる」
「ほんと? お母さんの協力なら、百人力だわ」
そう。わたしと妹に弱い父は、実は母に一番弱いのだ。と言っても尻に敷かれているわけではない。日頃大黒柱として家族を支える父を母がきちんと立て、専業主婦として家庭と子供を守っている人だ。そんな母を父がとてもとても大切にしているのだから、つまりはどうやら惚れた弱味と言うものらしい。
しかし実はこの母、理路整然と語らせたら、公務員の父でさえも、反論の余地を与えないと言う一面も持っている。その母の後押しがあるのだから、最大の難関と言える父を陥落したも同然なのだ。
「親が子供にしてあげられる事なんて、たかがしれているのよ」
そう言い切る母の笑顔が、なぜだかとても眩しく大きく見えた。そしてそんな母の笑顔を見ていて和んだせいか、わたしの口も自然と緩んで来る。
「あ、そうそう。ドレスの寸法、直してみたのよ」
いきなり何の事かと思ったら、ほどなくして真っ白なドレスが出て来た。母が父との挙式で着た物だが、妹に合わせてサイズ直しに出していた物が届いたらしい。
全体が艶やかなサテン地。胸の上部から襟元まではレースがあしらわれていて、手首までのパフスリーブも手伝って露出が極力抑えられている。スカートはいわゆるお姫様スタイルで、実際に着る時にはかなり膨らみが出る事だろう。
妹には膝丈かもう少し短めの物が似合いそうだと思ったけれど、中学から短大までカトリック系の学校に通っていた母にとっては、教会式で足を出すなど考えられない事らしい。そして何よりも、小さい頃から真奈美がこのドレスを気に入っていて、結婚する時にはこれを着たいと言っていたのだ。
「穂之香の結婚式にも、できればこれを着てね?」
飲みかけていたコーヒーを吹き出しそうになった。危うく純白のドレスにシミを作ってしまうところだ。
「お母さん、何を言い出すのよ」
「だって、穂之香ももう二十四でしょ? いつお嫁に行ってもおかしくない年じゃない」
母は二十一歳になる前に結婚したのだし、妹の真奈美に至っては、十六歳の誕生日に結婚する予定になっている。それを基準にされると確かにわたしはとっくに適齢期なのだろうが、今は三十で独身の女性は全然珍しくもない。
「わたしはいいの」
「またそんな事言って。まなと順番が逆になっちゃったからすねてるの?」
「すねてませんっ! 第一、相手もいないのに結婚なんかできないわよ」
まったくこの人は。
「あらあ。じゃあ、今朝電話をくれた人は、彼氏じゃなかったのね」
「は? 今朝?」
「そうよ。八時半頃だったかしら。穂之香さんはいらっしゃいますか、って男の人から」
八時半とう言う符号に、嫌な想像が頭を過ぎった。
「名前、言ってた?」
「えーと、確か、クルミ、なんとかって」
「胡桃沢?」
「そうそう、その人! なんだやっぱり知ってる人なんじゃない」
あの野郎。どうやら携帯にかける前に家の電話にかけて来ていたらしい。と言う事はわたしが寝ているのを承知でかけて来たわけだ。
なにが
「お休みでしたか」
だ、あの詐欺師。
「声を聞く限りでは、とてもいい人っぽかったわよ? ちょっと胡散臭いくらいに真面目そうで」
ああ、そうだ。母の人を見る目は、確かなのだ。電話越しにほんの少し話しただけであの胡散臭さを嗅ぎ取るなんて。さすがだ、母。
「どこでお知り合いになったの?」
「え。えーっと、昨日会ったばかりなんだけど。今度の勤務先の人なのよ」
「あら。穂之香さんって言う呼び方が自然だったから、もっと以前からのお付き合いかと思ったのに」
「いや、だから付き合っていないから」
一気に脱力感に襲われた。何が悲しくて、あんな奴と付き合わなければならないんだか。
確かに顔は、標準よりもかなりいい方だと思う。でもあの不気味なくらいににこやかな笑顔とか、馬鹿丁寧な口のきき方だとか、やたらと優雅な物腰だとか、とにかく全てが胡散臭い事この上ないのだ。
もっとも、電話越しではその容姿も胡散臭さも、母に伝えきれているはずもないのだけれど。
「穂之香もわたしに似て、人を見る目はあるものね。胡桃沢さんがどんな人なのか、今から楽しみだわ」
「だから、無関係だって」
夢見る母は、なかなかこちらに戻って来てくれそうにない。
おのれ、胡桃沢。今度会ったらただですむと思うな。わたしは心の中で、しっかりと拳を握り固めた。