胡散臭い奴――ポーカーフェイスと笑顔の仮面
保健医は胡桃沢政高と名乗り、なぜか名刺まで受け取ってしまった。仕方がないのでわたしも現在の勤務先の名刺を渡したが、なんだか妙な感じが否めない。
それはともかく、とりあえず事務局に案内されたわたしは、なぜだか履歴書を持ったまま職員室に行かされた。恭平と顔を合わせるのはまだ避けたいと思っていたのだが、幸か不幸かそんな暇もなく校長室に招き入れられてしまう事になった。
ソファに腰掛けて、待つ事五分。校長室に現れたのは、学園のトップスリーとも言える面々で、右から校長・理事長・教頭だと紹介された。ちなみに紹介したのは、保健医だ。そしてわたしはその錚々たるメンバーによる面接を、心の準備もないままに受ける事になってしまったのだ。
わたしが現役の公立図書館司書と言う事もあり、呆気ないほど簡単に採用が決まった。わたしとしてはもちろん喜ばしい事なのだが、本当に これで良いのだろうかと一抹の不安を感じないでもない。
そんなわたしに、理事長がにこやかに微笑みかけて来た。
「庄司さんは、高橋先生の婚約者のお姉様なんですね」
「はあ。まあ、そう言う事になります」
「妹さんの真奈美さんの編入は、実は試験を受けていただくまでもなく、既に決定している事なのですよ」
それは一体どう言う事なのだろう。しかしそれならば、まだ編入試験を受けてもいない真奈美の情報が保健医の元に届いていた事も、納得がいく。人脈だ何だと言いながら、つまりは決定事項を伝えられていただけの事ではないか。
「元々教職員の家族に関しては、ある程度受け入れられるシステムを組んでいるのですよ。ただしそれなりの学力を身に着けておいていただけば、の話ですが。真奈美さんが通われている高校からの資料では、入学の際の試験の結果は優秀。現在の学力も、わが校に通っていただくのには何の問題もありません」
そりゃそうだろう。真奈美の勉強は、受験前からずっとこのわたしが見て来たのだから。
自慢ではないが、こう見えても中学時代は常に上位の成績だったし、高校は地元でも有名な進学校に入り、そこでもそれなりの成績を残して来たのだ。あの恭平に勝てたためしがない事だけが未だ悔しい事実ではあるけれど。
高校までの勉強内容に関してならば、そんじょそこらの家庭教師や塾の講師などよりも、よほど的確にポイントを教える事ができると自負している。
「高橋先生から話があって、すぐにご両親が来られましてね。そのお陰で、ずっと反対していたこの教頭を納得させる事ができたのです。でも実は高橋先生から、教員としての採用試験の面接の時に、条件として真奈美さんとの結婚と編入が挙げられていたのですよ」
つまり、採用される側の立場であるにもかかわらず、恭平の方からその条件を突き付けたと言う事なのだ。これを飲んでもらえないのならば、ここに勤めるつもりはないとまで言い切ったらしい。
厚顔無恥も、ここまで来ると呆れるしかない。
「こう言った事はわが校としても初めての事で、こちらも色々考えさせていただきましたよ」
恭平の愚行のせいでわたしが今こんなに恥ずかしい思いをさせられているなんて、不本意この上ない。
さらに理事長の話では、恭平が勤務先に将星学園を選んだのには理由があり、その一つが校内に医師の資格を持った学校医が常勤している事だったのだと言う。それはもちろん、脚に障害が残りさらには体力的に少々不安がある真奈美のためらしいのだが。
どこまでも真奈美中心と言うか真奈美の事しか考えていない恭平らしいと言ってしまえばそれまでだが、まさかここまで馬鹿だとは思いもしなかった。
さらにはどうやらこの学園、教職員と生徒との間での結婚が、比較的多いのだとか。もちろん過去その全ては生徒の卒業後であり、恭平と真奈美のように在学中と言うケースは初めてとの事だった。
「在籍中に結婚となると、どちらかにこの学園を出ていただかなければならないところなのですが、真奈美さんの場合は、編入時には既に婚姻が成立している状態ですからね」
それは詭弁だわ。いい大人が屁理屈をこねているのだとしか思えないではないか。理事長の人当たりの良い笑顔を眺めながらわたしは心の中で盛大に溜息を吐き、徐に痛み出したこめかみを、指で押さえた。
「まあ、そう言う事情ですし。真奈美さんもお姉さまが近くにいらっしゃる方がなにかと安心でしょう。こちらとしても、突然司書の退職が決まってしまって難儀していましたから、お互いの利害が一致したと言ったところです」
つまりは、どうしてこれだけ簡単にわたしの採用が決まったのか、説明をしてくれていたと言うわけだ。こんな所にまで恭平の影響があるなんて、わたしにとっては不本意この上ない。
けれど真奈美のそばにいられる事と、ここの図書室での働き甲斐を思うと、それも仕方がないかと諦める事にした。とりあえず、嫌な事からは目を逸らしておく事にしよう。
「ただし、くれぐれも高橋先生とあなたの妹さんの関係を周囲に知られる事のないよう、ご協力をお願いしますよ」
神経質そうに目を瞬かせながら早口で言う教頭の様子を見ていると、この人が最後まで反対していたのだと言う話が現実味を帯びた気がした。良くも悪くもどこにでもいるものなのだ、こういう人というのは。
恭平が困るのは全く平気でむしろ歓迎したいところなのだが、真奈美が困るような事態になっては、姉としての面目が立たない。二人の関係については、とりあえず真奈美の卒業までは隠す事を、改めて約束する事にした。
医務室に戻ると同時に、わたしは空いているベッドに勝手に体を投げ出した。短時間とは言え必要以上に緊張していた体を、思い切り伸ばしてみる。
「お疲れのようですね」
掛けられた声に大きなお世話だと言おうとしたが、とりあえず黙っておく事にした。
「疲れましたともさ。あー、こんなに緊張したのって久しぶりー」
おおよそ妙齢の女とは言えないほどの、色気のなさ全開である。この保健医相手に愛想や色気を振り撒いたところで、不快感を覚えこそすれ、わたしに利など欠片もないのだ。
「お疲れのところ恐れ入りますが、そろそろここを閉めたいと思うんです」
そう言えば、終業予定の十七時をとっくに過ぎてしまっている。一月と言う事もあり、窓の外は既に真っ暗だった。
先程の面接の際に、わたしと恭平と真奈美との関係を理解して納得したらしい保健医は、必要のない詮索まではして来ないようだった。わたしとしてもその方が助かるので、あえて話を蒸し返すつもりなどないのだが。
「ああ、はい」
こんなに遅くなったのは、わたしの面接に付き合ったからであり、その事に関しては少なからず申し訳ない気がする。急いで身を起こしたわたしは、居住まいを正した。初対面の男、しかもなんだかやたらと整った顔立ちの男の前でうっかり素を見せてしまった事に軽い後悔を覚えたが、今さら仕方がないかとあきらめる事にした。
「採用決定、おめでとうございます」
机の上の物を手際良く片付け、医務室の鍵を手に持った保健医が、相変わらずの笑顔を貼り付けたまま祝辞をくれる。
「ありがとうございます」
こう言った胡散臭い手合いには、無難に相手をしておくに限る。
「ところで、庄司さん」
「はい」
「無事に仕事は見つかったようですが、お住まいはどうされるんですか」
「え」
「まさか、ご自宅から通われるつもりではないですよね」
そう言われてみるまで、すっかりはっきり失念してしまっていた。自慢ではないが、毎日電車を乗り継いで通勤できるような距離ではない。
それが顔に出ていたらしく、保健医が笑いを噛み殺したように、少しだけ表情を歪めている。
「もしよろしければ、ですが。不動産屋に知人がいるので」
どうしますか。その言葉に、しかしすぐに頷く事はせずに、しばし考え込んだ。今日これから家探しをするのには、さすがに時間がなさすぎる。と言う事は、少なくともあと一度はこの街に来なくてはならない。
週休二日が保証されているとは言え、家庭持ちのベテラン館員に優先して連休を取らせるため、わたしのような若輩者では一日ずつの休みしか当たらない。無理を言えば代わってもらえない事もないのだが、既に今月と来月までのシフトが決定しているこの段階では、非常に言い出し辛いのだ。
さらには年末年始の休みのしわ寄せもあり、暫くはまともな休みは取れそうになかった。
かと言って、この保健医に頼るのは危険だ。はっきりとした根拠はないが、わたしの中の何かがそう告げている。ただでさえこんなに胡散臭い笑顔を、平気で浮かべられるような奴なのだ。迂闊に信じる事はできない。
「この辺りの家賃の相場って、どのくらいなんですか」
「そうですねえ。六帖ワンルーム管理費込みで六万円。若い女性ですからセキュリティが整った所がいいでしょうから、それだと七万円くらいでしょうか。1LDKでセキュリティつきとなると、八万円はかたいですね」
一ヶ月八万円。その金額に、思わず眩暈がした。
あの親ばか子煩悩で超がつくくらい心配性な両親に一人暮らしを納得させるには、セキュリティ完備が必須条件になる。オートロックはもちろん、監視カメラもピッキング対策も万全でなければならないだろう。
今日交わしたばかりの契約内容では、月々の手取りは約二十万円。家賃が八万円として、水道光熱費さらには食費に貯蓄にきわめつけは両親への送金。諸々考え合わせると、とてもではないがこの街での一人暮らしなど、不可能な事に思えて来た。
「あとは、ルームシェアとか下宿と言う手もあるにはありますが、この辺りはほとんど学生で埋まっていますからねえ」
医務室の照明を落とし、施錠しながら、保健医が他人事のように言う。むっとしたものの、実際他人事なのだから仕方がないと思い直した。
将星学園があるこの街には、他にも高校や短大や大学や果ては周囲の街に跨って化学系の企業の研究機関なんて物まであったりする。いわゆる学研都市に近い感があるのだが、教育施設だけが集まっているわけではなく、住宅街もあれば大型ショッピングセンターもある、なんとも賑やかで活気のある街なのだ。
学園の周囲は主に住宅街だが、医療機関も商業施設もそれなりに整っている。さらには都市部への所要時間が一時間前後と、ベッドタウンには最適なこの街であれば、学生はもちろん子供を持つ親にとっても、優良地区に当てはまると言うわけだ。
そんな街では、ワンルームは当然の事ながら1LDKなどほとんど塞がっていて当然で。それならば春の入れ替わりを狙おうかと思ったのだが、保健医が
「多分無駄ですよ。ほとんどは大学の学生課で抑えられていますし、気が早い人だと、受験前から借りていたりしますから」
と見事に希望を握り潰してくれやがったのだ。
とりあえず今の段階では、キャンセル待ちしかないと言う事か。しかしそんな事であの両親を説得できる自信など、微塵も持ち合わせていない。
「ところで、帰りの電車は大丈夫なんですか」
思わず頭を抱えそうになるわたしに、さらに追い討ちを掛けるように、保健医が笑顔を浮かべて問いかけた。
慌ててバッグから携帯電話を取り出し、時間を確認して呆然とする。午後七時十三分。我が家の門限は特別な事情がない限り、二十四にもなって未だ午後十時だ。片道三時間、それも乗換えが上手く行っての話だから、実際にはもっと時間がかかる可能性もある。
とりあえず家に電話を入れるとしても、理由をどうするべきか。職場の付き合いと言うのが一番便利な口実なのだが、生憎今日は休日で、だからこそここに来ているのだ。
下校時間に合わせてここに着き、生徒達から恭平の評判を聞く。さらには恭平と真奈美の新居予定のマンションの場所も確認してから帰っても、充分門限に間に合うはずだった。その予定が大きく崩れたのは、この保健医に身柄を拘束されたからに他ならない。そのお陰で司書として採用されるに至ったのだが、それはあくまでも結果である。
焦りと怒りで混乱する頭を抱え、わたしはその場に蹲った。
「どうしました。気分でも悪くなりましたか」
どう見ても怪しいマッドサイエンティストだった保健医は、白衣を脱いで少しはまともに見えるようになっていた。
わたしのすぐ脇に膝をついて声を掛けて来た男は、腐っても鯛。その目に浮かんでいたからかうような光が一転して真面目な物に変わり、こう見えても一応は医者なのだと変な所で感心する。
もっとも、来月からは真奈美の事も含めて世話にならざるを得ないのだから、この程度の事は当然かもしれないが。
「思わぬ窮地に陥って、足元が崩れそうになっているんです」
「は?」
ほんの一瞬だが、鉄壁かと思われた保健医のポーカーフェイスが崩れた。
「軽く門限を越えそうなので、どうしたものかと思案中なんです」
「ああ、なるほど」
ようやく得心がいったとばかりに頷きながら、すぐに元のにこやかな笑顔に戻る。
至近距離で見ると、眼鏡の奥にある目の色が薄い事に気付いた。わたしの目は純日本人の濃褐色なのだが、この男の目はどちらかと言うとグレーに近い色なのだ。顔の造作には興味はないが、その珍しい色に視線が釘付けになる。
「僕の顔に、何かついていますか」
「顔って言うか、目の色。薄いんですねー。あ、もしかしてその髪も地毛?」
そう言った途端、保健医の目つきが険しくなった。笑顔の名残を口元にだけ残しているが、目には完全に違う感情が浮かんでいる。
「確かに珍しい色かもしれませんが、それがどうかしましたか」
おお。なんだか禍々しいオーラまで背負っていらっしゃる。もしやコンプレックスなのだろうか。
「いやあ、綺麗な色で羨ましいなーと思って」
うん、せっかく綺麗ないのに、もったいない。いけ好かない相手でも、そこは素直に認める。
「え」
今度はびっくりしたように、ほんの僅かだけれど目が見開かれた。実はわたしは、感情の機微が面に現れにくい人の表情の変化を読むのが得意なのだ。
「わたしなんか、目も髪も真っ黒で、重い感じでしょ」
「カラーコンタクトでもブリーチでも、しようと思えばできるでしょう」
あ。もう元の胡散臭い顔に戻っている。
「親から貰った物を、わざと変えるような事はしたくないじゃないですか。だからピアスもしていないのに」
「それはイヤリングですか」
「んーちょっと違います。マグネットピアスって言って、磁石で耳朶を挟んでいるだけ」
ほら、と片側の耳から外した物を手に載せ、保健医に目の前に差し出した。
「磁気だから、肩こりにもいいかなーなんて思っていたんです。でも実はこれ、案外磁気が強くて、耳朶が痛くなっちゃったりもするんですけれどね。だからかえって首筋がこって、逆効果だったり」
しげしげとわたしの掌を眺めていた保健医が、ぷっと小さく吹き出した。ちょっと何だか失礼ではないか、こら。
「案外面白い人なんですね」
「あー、良く言われます。見かけと中身のギャップが激しいって。外見だけで勝手にイメージを作られて、それと違ったからって文句言をわれても、こっちは迷惑だってのにねえ」
「ああ、それは分かりますよ。僕も良く言われますから」
「あはは。そんな感じですよね。あなた、表裏が激しそうだし」
勢いをつけて立ち上がり、コートのポケットに手の中の物を落とした。
そして、予想外の物が視界に入り、思わず茫然と見つめてしまう。
「なにを、面白い顔をしているんですか」
膝を付いたままわたしを見上げている保健医の言葉に、けれどわたしはすぐには応えずに、バッグに手を突っ込んだ。目当ての物を探り出し、徐に彼の目の前に突き出す。
「お互い様でしょ」
ファンデーションのコンパクトについている、小さな鏡。そこに映し出されている己の顔を見た保健医の表情が、ほんの僅かだが引きつっている。
なんだ。作り笑顔を貼り付けているのはポーカーフェイスのためで、実はこんなに表情が豊かな人なんじゃない。何とはなしに感じていた胡散臭さが少しだけ緩和された気がして、わたしはほっと息を吐いた。
「これは、僕の顔ですか」
「わたしの顔に見えます?」
「いえ。見えません、ね」
「でしょう?」
小首を傾げて見せると、保健医は軽く目を閉じて大きな息を吐いた。
ゆっくりと腰を上げ、首を軽く左右に回す。コリコリと小気味いい音が首の関節あたりから聞こえ、思わず笑ってしまった。
本当はこんな風に和んでいる場合じゃないのは、分かっている。何しろ門限までに帰宅できない事が確実なのだ。先ほどから何度も、父の怒った顔と母の心配そうな顔が、脳裏に浮かんでは消えている。言い訳も考えなくてはならないし、それよりも何よりも、突然決まった転職と一人暮らしの話をどう説明したものかと、これからたっぷりと悩まなければならないのだ。
けれど、まあ、それは帰りの電車の中で考えれば良い事で。何しろ三時間もかかるのだから、その間に何かいい案が浮かぶかもしれないではないか。
根が楽天的なわたしは、この時点で完全に家探しの事を失念していた。そしてその事に気付いたのは、間抜けにも翌日の朝の事だった。