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哀れな男――世の中にはお金で買えないものがある

 仕事を終えて家に帰っても妹がいないと言う寂しさに、本当にわたしはあの子に依存していたのだと自覚した。傍目には妹に甘い姉と映っているのだろうけれど、実際にはわたしが妹に甘えていたのだと思う。

 妹は、見知らぬ土地とは言え最愛の男の元にさっさと嫁に行き、新しい生活を送っている。何かあったら連絡するようには言ってあるけれど、あの子の事だ、余程の事でもない限り、わたしに泣きついて来る事などないだろう。小さくて甘えん坊な妹は、実はわたしなんかよりもずっとしっかり者なのだと、他でもないわたしが一番良く知っているのだから。


 妹の様子は、不本意ながら学校医である胡桃沢政高から知らされて来ている。もちろんわたしから頼んだわけではない。

「僕が勝手にしている事ですから」

 彼本人もそう言っているのだし、それに関しては有り難く受ける事にしている。


 妹夫婦の事は、当然の事ながらごくごく一部を除いては学校関係者にさえも公表されてはいないようだった。一緒に住んでいる事が知られた時のためにと「従兄妹同士」と言う嘘の口実まで用意されているらしい。

 学年の途中での転校ではあったのだが、クラスにちゃんと溶け込めているようで、そっちの方でもほっとした。むこうには真奈美と同い年の恭平の従妹がいるので、安心してはいたのだが。

 ただ、どうやら男子生徒からの告白を受ける機会が多いらしく、それを断る姿を時折目にする事があるらしい。保健医である彼がそうしょっちゅう校内をうろついているはずもなく、予想外に頻繁なのであろう事が推測された。ちゃんと断る事ができているのか、変な男に言い寄られて困ってなどいないか、気にし始めればきりがない。


 この心配も、四月からはかなり軽くなるのだと自分自身に言い聞かせながら、わたしははたと我に返る。四月からの生活をどうしたものだろうか。


 今の公立図書館での仕事は、既に三月末までと決まっている。次の仕事も決まっている。しかし最大の問題は、住む場所がないと言う事なのだ。

 胡散臭さ全開保健医の罠臭い話に疑念を感じ、一応わたしなりに不動産屋をあたってはみたのだが、結果は保健医の言葉通り。セキュリティ万全のワンルーム或いは1DKマンションの空きなどこの時期にあるはずがないと、にべもなく言い切られてしまったのだった。最重要であるセキュリティに目を瞑れば或いは1LDKや二部屋以上の物なら何とかなるらしいのだが、伊達に最重要と言っているわけでもない上に、とてもではないがわたしの収入でそんな贅沢ができるはずもない。

 本来ならば勤務先の将星学園に頼み込んで探して貰うべきなのだろうが、理事長が保健医の実の祖父でありわたしと保健医の同居を心待ちにしていると言う状況では、そんな事を頼めるはずもなく。まさに八方塞がりなのである。

 そしてさらに頭の痛い事に、わたしと保健医の同居を心待ちにしている人がもう一人。それは、保健医の母の籐子さんである。目下のところ最大の難関とも言うべき籐子さんに真実を告げる事ができない限り、わたしには保健医と同居するしか道は残されていないのだ。


 母に相談しようかとも思ったのだが、手回しの良い保健医が既に家まで来て挨拶を済ませてしまっている。かと言って親馬鹿子煩悩な父に話そうものなら、転職自体を反対されかねない。そんな事になれば、目も当てられないではないか。

 困った。何が困ったと言って、これまでの人生でここまでの困難にぶつかった事など、幼稚園の時以来だと言い切れるほどに困り果てていた。




 弥生三月。暦の上ではとっくに春である。

 しかし今わたしの目の前には、全く春らしからぬ鬱陶しい人物が立ちはだかっている。

「少し、時間をいただけるかな」

 先日会った時に比べれば幾分当たりが柔らかくなったかもしれない、ロマンスグレーことごま塩頭の宇宙人。またの名を胡桃沢道広と言い、目下のわたしの最大の頭痛の種である保健医胡桃沢政高の、実の父であった。

「何のご用でしょうか」

 一度会ったきりだったが、そのたった一度きりの顔合わせの時に受けた女性として最大の侮辱とも言える言葉は、未だ記憶に新しい。さらには籐子さんと志津子さんの事もあり、わたしの中ではしっかり女の敵に認定済みだ。警戒と言うよりもむしろ毛嫌いしてしまって当然なのだ。


「政高の事で、お願いしたい事がありましてね」

 お願いとか言いながら、ほんの僅かにも謙虚な姿勢が窺えない。どこの世界に胸を張りふんぞり返って相手を見下しながら頼み事をする人間がいるものか。むしろ尊大な印象を受けるその姿に、さらにわたしの機嫌が急激に降下する。

「ここでできないお話でしたら、お聞きできません」

 ここ、と言うのは、わたしの勤務先である図書館前である。

 すぐ目の前の幹線道路は当然の事ながら駐停車禁止であるため、図書館前のロータリーに車を停めて待っていたらしかった。そこだって駐車は禁止なのだが、一応は私有地内。返却だけなどの短時間ならばお目溢しされてしまっているのが実情だ。

 仕事を終えて買い物にでも行こうかと思案していたところをそのお目溢しの弊害に直撃され、呼び止められ今に至っている。


「分かりました。手短に済ませましょう」

 知らない人が見れば、それなりに見目良いオジサマなのだろうが、生憎わたしは面食いではない。それどころか、顔が良い男は嫌いだと公言して憚らない。さらにこのオジサマに関しては、わたしの中で評価は地に落ちてしまっている。そうでなくとも一連の出来事で、この男に対して好意の欠片も抱く事ができないのだ。人間、外見よりも中身が大事なのだ。

 そんな相手のために一日の仕事を終えて疲れているところを待ち伏せされたわたしが、場所を移動してまで話を聞いて差し上げる謂れなどあるはずもない。


「政高と、別れていただきたい」

 そしてあまりにも予想通りのその言葉に、もはや呆れる気さえ起きなかった。

 当事者全員を前にして、平気で愛人にすれば良いなどとぬかしてくださった素敵なオジサマは、わたしのような一般庶民では可愛い息子の嫁には相応しくないと判断し、それを遠路はるばる直々に通達に来やがったわけである。

 あの保健医とは恋人役を演じる約束はしたものの、もとより結婚する気などさらさらない。とは言えここまで徹底的に不合格のレッテルを貼られたのでは、わたしの両親やひいては祖父母に対しても失礼と言うものだろう。


「お断りいたします」

 自慢するわけではないが、わたしはどちらかと言えば美人の部類に入ると思う。さらにはそれを自覚してからは、お金をかけず派手にならずにいかに自己を美しく見せられるかを探求し続けている。

 そんな中で身に着けた妖艶とも言える微笑を、存分に毒を含めてこれでも食らえとばかりにごま塩親父に向けた。


「何が目的だね。金か?」

 あまりにもありきたりな単細胞っぷりに、反吐が出そうになる。どこまでふざけた事をぬかしてくださるのか、この素敵に不敵な親父様は。

「お金など、欲しいとは思いません」

 そう言ったわたしの言葉をあっさりと聞き流したごま塩親父は、ひと目で一流ブランドの物だと分かる上等な仕立ての上着の内ポケットから、何やら紙の束を取り出した。

 こういうシーンはドラマなんかでよく見る気がする。まさか自分がその立場になるとは思ってもみなかったけれど。


「ここに一千万の小切手がある」

 なんとも気障ったらしく尚且それなりに格好良く、束の中から一枚の紙切れを抜き取り、人差し指と中指で器用に挟んで差し出して来る。恐らくテレビなどを見て密かに練習でもしているのだろう。それとも日頃からこういう事が良くあるのかもしれないが、それはそれで人間性を疑うと言うものだ。

 手切れ金の相場が、幾らくらいなのかは知らない。テレビなんてしょせん作り話であり、参考にさえならないのだ。それでも平均的なサラリーマンの年収が税込み五百~六百万円なのだから、この一千万円と言う金額が決して安い物ではない事くらいは、わたしにでも十分理解できる。あくまでも理解だけなら、だ。


「受け取れません」

「足りないと言うのかね。いくらなら受け取るつもりだ」

 嘲るような視線を向けられても、不思議と怒りは沸いて来ない。代わりに感じるのは、目の前にいる男への哀れみだ。

 仮にも息子の恋人であるわたしの心に、値を付けようと言うその愚かさ。金さえあれば人の心さえ買い取る事ができるのだと、本気でそう思っている事が分かるその態度。どこをどう見ても、性根から腐っているとしか思えない。どこをどう間違えてこんな風になってしまったのかなど、ほんの僅かにでも興味などないが。


「たとえそれが一億でも十億でも、わたしは受け取りません」

 ごま塩親父の頬が引きつった。どうせ貧乏人の小娘の心など、金を積めば何とでもなるのだと。そう高を括っていたのであろう男の顔が、屈辱で歪んで行く。

「人の心はお金じゃ買えません。それを誰よりも知っているのは、あなたなんじゃありませんか」

「なん、だと」

「奥様である籐子さん。愛人の立場にある志津子さん。お二人の心がお金で買えるのならば、あなたはとっくの昔にそうできているはずでしょう。たった一人の女性をも幸せにできないあなたに、二人の女性を不幸せにしているあなたに、わたしの心を売る事などできません」

 ごま塩親父の顔から、一瞬表情が消えた。そしてすぐに湧き上がって来る怒りの表情は、まるで般若のように醜悪だ。

「小娘が偉そうな口をききおって!」

 振り上げられた手のひらを避ける事は容易い。けれどそうはせず、わたしはあえて甘んじてそれを受けた。


 周囲に響き渡る、甲高い音。遠巻きに見ていた通行人達が、何事かとこちらを注視する。

 痛みにではなく、口の中に広がる苦い鉄の味に顔を顰める。ちゃんと歯を食いしばったのに、口の中が切れてしまったようだ。

「お、お前などに、何が分かる!」

「何も分かりません。分かりたくもありません」

 勝手に妻以外の女性に手を出した挙句妊娠までさせ、それでも愛している別れたくはないのだと、自らが裏切り傷つけた妻に縋ったこの男の、何を理解しろと言うのだろう。

「なんだと!」

 再び振り上げられた手は、けれど振り下ろされる事はなかった。

「いいかげんになさいませ、あなた」

 穏やかで静かな声が、男の動きを止めたのだ。


 まさか。なぜここに。そんな表情で、恐る恐る背後を振り返ったごま塩親父は、そこに最愛の妻の姿を認めて、愕然としている。

「籐子さん」

「血が出ていますわ、穂之香さん」

 バッグの中から取り出したハンカチで、わたしの口元から伝っている血を拭ってくれる。そのたおやかな姿を、男と同じように呆然と見つめた。

「人の心はお金では買えない。そんなあたり前の事が分からないなんて、ねえ」

 静かに、静かにそう言った籐子さんの頬を、一筋の涙が伝った。

「と、籐子さん?」

「痛かったでしょう、穂之香さん。見ていたのにこの人を止めなかった、わたくしのせいですわね。本当にごめんなさい」

 籐子さんは、流れ落ちる涙を拭おうともせず、深く頭を下げた。

 籐子さんのハンカチはわたしの血を拭って汚れてしまい、まさかそのまま涙を拭くわけにもいかない状態だ。わたしは慌ててバッグの中を探った。この人に、こんな風に謝って欲しいわけじゃない。謝るべきなのは、この男なのに。そう思いながら。


「い、いつから、いたんだ」

「最初から。あなたが穂之香さんを待っていらっしゃる時から。ずっと」

 動揺しきって哀れなほどに震えている男の声に、籐子さんが静かにゆったりとした口調で答える。

 ごま塩親父は振り上げたままになっている手をようやく下ろし、その手を所在なさげに見つめた。

「医者はここにいますから、その傷の手当てをいたしましょう」

 籐子さんは、悲しげとも寂しげともつかない表情で、まるで壊れ物にでも触れるかのように、そっとわたしの手を取った。




 表面上は平静を装っていたわたしだが、あまりにも衝撃的だった。

 ごま塩親父の登場から一連の出来事を思い出し、そのあまりに非現実的なまるでテレビドラマを地で行くような内容に失笑した。頬に貼り付けられたシップ薬と口の中の引き攣るような感触がなければ、あれは夢だったのではないかと思う。その程度には、わたしの想像を超えた出来事だったのだ。


 あの男に小切手を突きつけられた時、そのまま黙って受け取っていれば良かったのだろうか。そうすれば、あのいけ好かない妖怪ぬらりひょんのような保健医と縁を切る口実ができていたのだろうか。

 しかしそもそも、わたしと保健医は婚約者でもなければ恋人同士でもない。互いの利害の一致と人情で契約しただけの、偽りの関係なのだ。別れるも何もないではないか。

 それなのに。別れ際に籐子さんと交わした言葉が、頭を離れない。


「政高から、あなたとの本当の事を聞きました。知らぬ事とは言えわたくし達は、あなたに無理をさせてしまっていたのですね」

「いいえ。わたしが承知して引き受けた事でしたから」

「でもわたくしと父の事がなければ、あの縁談を壊した時に、契約は終わっていたのでしょう?」

「それは、たぶん」

「あなたにはご迷惑をおかけしてしまった事、心からお詫び申し上げます。あなたのお住まいは、わたくしが責任を持ってお世話させていただきますから、これ以上政高に付き合っていただく事はありませんのよ」

「あ、はい、いえ」

「これは、あなたへのお詫びとお礼だと思って、お受け取りいただけませんかしら。もちろんこれであなたとのご縁を断ち切ろうなどと思ってはおりませんが、あなたのお気持ちを考えれば、その方がよろしいのではないかと」

「いや、だから、これは受け取るつもりは」

「では、とりあえずこれはわたしくしがお預かりいたしますけれど。ああ、そうでした。さきほど政高に連絡しましたの。次の穂之香さんのお休みの日に、お時間をいただきたいとの事でしたわ」

「わ、かり、ました」

「それから、ね。わたくしがあなたにお話しした事は、本当の事ですのよ」

「は?」

「あの子があれだけ女性に執着したのは、あなたが初めてでしたの。わたくしが娘が欲しかったと言うのも、本当の事。今となっては詮無い事ですけれど」


 話し終えた籐子さんの悲しげに伏せられた睫が、細かく震えていた。籐子さんは、どんな気持ちでいたのだろう。夫に愛人がいると知った時。その愛人が夫との子供を身篭っていると知った時。愛人を家に招き入れ、自らは身を引こうとした時。息子に恋人ができたと聞いた時。夫が息子の意に染まぬ結婚を強要しようとした時。わたしを息子の恋人だと紹介された時。そして、夫が息子とその恋人をお金の力で引き離そうとした時。

 籐子さんは、決して多くは語らない。ただ静かに佇んでいる。けれどその胸の裡では、見えない嵐が吹き荒れているのではないだろうか。きっと誰に頼る事なく、誰に零す事もなく、籐子さんは一人で耐え続けているのだ。

 こんな事ならば、あのごま塩宇宙人を、顔の形が変わるくらい思い切り殴ってやれば良かった。籐子さんの分と、志津子さんの分と、そして保健医の分を。

 わたしはただ無言で、固く握った拳を見つめていた。

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