乙女な人――大きな期待と大きな誤解
ああ、温かい。やっぱり寒い冬は布団にくるまって寝ているのが一番幸せだと思う。今日は休みを取っているから時間を気にしなくても良いし、まだこのまま幸せな時間を貪っていられる。
けれど現実とは容赦なく、わたしの身に襲い掛かって来るものだ。
「おはようございます」
まだ意識がはっきりしていない耳に、直接響く声。再び眠りの淵に落ちようとしていたわたしは、無理矢理現実世界に引っ張り上げられてしまった。
薄ぼんやりとした視界がようやくはっきりして来たとき、目の前に悠然と微笑む顔がある事に気付いた。
「穂之香さん、朝は弱いタイプなんですね」
弱いわけではない。だが昨夜は貞操の危機を避けるために、この男とかなり遅くまで語り合っていたのだ。いつもはもっとすっきりさっぱり、爽やかな目覚めを迎えているのだ。と言うか、今の問題はそこではないはずなのだが。
「どうしてあなたが、このベッドにいるのよ」
「さすがに夜中の冷え込みに毛布一枚ではどうしようもなくなりまして」
今日はわたしの最愛の妹の結婚式から一夜明けた、二月十五日。確かに真冬である。暖房が落ちた深夜から明け方の室内は、さぞかし底冷えが厳しかった事だろう。それは、分かる。が、しかし。
「一応声をかけさせていただいたのですけれど、ぐっすりお休みでお返事がいただけなかったんです」
「だからって、この状況は何なんですか」
口調が静かになるのは、怒りよりもむしろ戸惑いが勝っているからだ。
保健医が同じベッドの中にいる理由は分かった。彼の言葉を信じるならば、彼に同衾を求められた際に、わたしが寝こけてしまっていたらしい。夜中の冷え込みは厳しかったであろうし、寝床も布団もわたしが使っていたものしか用意されていなかったのだから、当然といえば当然の結果と言えよう。
それはいい。よくはないが、仕方がないとは思う。しかし、だ。
「あなたの寝姿があまりに刺激的で困りましたが、手を出さないと言う約束はちゃんと守りましたよ。ただ、あまりにも元気が良かったものですから、その攻撃を避けるのためにこう言う方法を取らせていただいたのですが」
ああ、なるほど。
自慢ではないと言うかお恥ずかしい話だが、わたしは子供の頃から寝相が悪い。それも生半可な悪さではない。子供の頃は朝起きたら上下逆さまに寝ていたなんて事はしょっちゅうだったし、一人部屋を貰ってベッドになってからも、最初の内は何度も落ちたものだ。長じて後はさすがにほとんど無くなったが、それでも壁を蹴飛ばしてしまったり布団を飛ばしてしまったりと言う事は、実は今でも良くある事だったりする。
どうやら昨夜もそれなりに暴れていたらしく、保健医に蹴りやパンチを食らわせてしまったそうだ。だが、だからと言ってこうもがっちりと両手で抱きしめなくても良いのではないかと思うわけだ。
いや、まあ、確かに温かい。体中を包み込むような温かさに、ほんの一瞬うっとりしてしまったのも確かだ。しかしそれとこれとは話は別だ。
「あー、それは、すみません、でした」
「いえいえ。あなたの新しい一面を見せていただけて、楽しかったですから」
あああああ。穴があったら入りたい。
もういい加減この腕を緩めてはくれないものだろうか。
「それに、あなたの感触をじっくり堪能できましたし」
ぎ。
「ぎゃああああーっ!!」
感触と言うのは何の感触だ、とはさすがに聞けない。何しろこうしっかりと抱き締められている状況では、訊かなくても分かっている。分かってはいるが、言葉に出して言われたりしたら、恥ずかしさ百万倍と言うものだ。
しかもしかもしかも、である。寝間着に下着と言う出で立ちで暴れていれば、寝乱れていたのは確実だ。さらには、である。今のわたしの寝間着は、乱れていると言うほどの状態ではないのだ。誰が直したかなんて、おのずと限られるわけで。
そこまで思い至ってしまえば、もう、叫ぶしかないではないか。
「穂之香さん、何かありましたかしら」
わたしがうっかり出してしまった大声に反応したらしく、控えめに開かれたドアから、さらに控えめに籐子さんが顔を出した。心配そうな顔つきが、わたしと保健医の姿を見てあからさまに綻ぶ。
「あら、まあ。お邪魔してしまってごめんなさい」
いやいやいやいや、お待ちくださいお母様。お邪魔と言うか見られたくない現場を押さえられたのは確かだけれど、このまま立ち去られては、この状況から抜け出すきっかけが無くなってしまうのは必至だ。
「あ、でも。政高は今日もお仕事でしょう? そろそろ起きなければ、間に合わなくなりますわよ」
「そうですね。ずっとこのままでいたいのはやまやまですが」
保健医が上半身を起こすと、布団の隙間から冷たい空気が入って来て思わず身震いした。
「穂之香さんも、もしよろしければ起きられませんか。今日はわたくしにお付き合いいただくお約束ですし」
「あ、はい。すぐに起きます!」
半ば強引にとは言え、約束は約束だ。わたしも慌てて身を起こした。途端に襲い来る冷気に、今度こそ鳥肌が立った。すかさず肩から半天をかけられて思わず見上げると、保健医がにっこりと怪しい微笑を浮かべている。どうやらいつもの胡散臭さ復活と言ったところらしい。
「では、名残惜しいですが。後で朝食でお会いしましょう」
ぼんやりと眺めていると、その隙をつかれて、頬に生暖かい感触が触れた。昨夜のおでこに続いて、またしてもやられてしまった。
「あらあら。よほどご執心なのねえ」
よりによって籐子さんの目の前だと言うのに。この野郎、何をしやがるんだ。と、籐子さんの前だからこそ言えるわけもなく、わたしはぎんっと鋭い視線を保健医に投げかけた。しかしそんなものは痛くも痒くもないらしく、籐子さんに何事か耳打ちした保健医は、至って優雅な身のこなしで客間から姿を消す。
あかんべをしてやりたいのを我慢して、そして気付いた事があった。
「あ、れ。着替えって」
「ここは元々あの子の家ですもの。部屋はそのままにしてありますの。でも昨夜はこちらで休んだようですわね」
籐子さんの言葉に、ぴしりと顔が引き攣るのが、自分でも分かった。にこやかな笑みの中に何やら意味深なものを感じ取り、さーっと血の気が引いて行く。
一つのベッドで超絶不本意ながらにも抱き締められていたあの状況は、仲睦まじく身を寄せ合う恋人同士に、見えない事もなかっただろう。そして籐子さんは、わたしと保健医が恋人同士であると思い込んでいる。
さらには、何たる事か。ちゃんと自分の部屋があるにもかかわらず、わざわざわたしに宛がわれた客間で寝ていたのだ。となると、だ。考えられるのはたった一つの可能性だけ、と言う事になるのではなかろうか。
「それでは、わたしくしは先に食事の席に着いておりますわね」
心なしか楽しげな響きが混じる、籐子さんの声。さらにはスキップでもしかねないほどに軽やかな足取り。明らかに籐子さんは嬉しそうだった。
扉が閉まる音に我に返ったわたしは、思わず両手を固く握り締めた。拳が怒りでふるふると震える。
「あんの、詐欺師ーっ!」
一応の理性が働いて抑え気味に、ではあるのだが。わたしは叫ばずにはいられなかったのだった。
わたしの内心の怒りと籐子さんの上機嫌とは関わりなく、朝食は至って平和に終わってしまった。保健医に一言言ってやらなければ気が治まらないと思いつつも、籐子さんと理事長の手前、顔に貼り付けた笑顔の仮面を崩すわけにはいかなかったのだ。
なるほどこの環境で育てば、こんな笑顔仮面が出来上がるのか。憂さ晴らしにそんな事を考えて気を紛らわせるしかないわたしであった。
その後わたしは、籐子さんと肩を並べて理事長と保健医を送り出した。理事長はともかく、なぜわたしがあの詐欺師の見送りなどしなければならないのかを考えると、腹が立つだけなのだが。あの胡散臭い妖怪ぬらりひょんを、一瞬でも信じても良いかなどと考えた自分が愚かしい。あの調子では、昨夜の言葉も本気だかどうだか怪しいものに思えて来る。
そして気付いてしまう。あの男は、わたしを「気に入った」とは言ったけれど「好きだ」とはただの一度も言ってはいない事に。つまりはそう言う事なのだろう。
「それじゃ、穂之香さん。いっしょに出かけましょうか」
籐子さんの穏やかな笑顔も、今のわたしから見れば胡散臭さしか感じ取る事ができない。この人は本当に、息子の言葉を信じているのだろうか。
疑いの目で見始めるときりがないけれど、もしかするとこの人も理事長や保健医とグルなのではないかと思えてしまうのだ。人を疑う事はしたくはない。けれどこれはわたしのせいではなく、保健医が悪い。わたしはそう決めつけ、重い気持ちのままで籐子さんに従って、胡桃沢家を後にした。
家が豪華ならば車も豪華。
「これでも一番地味な物にしたのですけれど」
と言う籐子さんの「地味」の基準がメタリックブルーのフェラーリだと言うのだから、わたしには到底理解できない。真っ赤じゃないだけましかもしれないけれど、フェラーリはフェラーリと言うだけで十分目立っている。少なくとも五十一歳の上流家庭の女性がお乗りおそばされしかも御自ら運転なさるには派手すぎると思うのだけれど、それはやはりわたしの感性が庶民的すぎるからなのだろうか。
そしてその籐子さんが「地味」だと言うド派手な車が辿り着いたのは、都会から少し離れた位置に建つ、巨大なショッピングモールだった。
ショッピングモールの半分は、わたしでも名前を知っているようなブランド店が入っているデパートが占め、残り半分を専門店と輸入家具などの高級アウトレットで有名な大型家具店が占めている。
足取り軽く先導されるままに着いて行くと、籐子さんは予想通り家具店に入って行った。すぐに店員が飛んで来るのかと思いきや、十分に目が届く場所に立ったままこちらには近付いて来ない。気軽に商品を選べるようにとの配慮なのだろう。後ろを着いて来られると即回れ右したくなるわたしのような人間にとっては、とてもありがたい。
「では、穂之香さん。まずはベッドから参りましょうか」
まずは、とはどう言う事だ。しかも真っ先に見る物がベッドと言うのも引っかかる。
「今あるのは普通のダブルサイズのはずですから、あれを穂之香さんに使っていただく事にして、新しくキングサイズの物をと思うのですけれど」
昨日使わせてもらったのは、ダブルではなくクイーンサイズだったはず。
「大丈夫。政高のマンションの間取りは、わたくしが把握しておりますから」
「はいー?」
「今から注文しておけば、四月に十分間に合うでしょう」
「あー。ああ、あはははは」
これは笑うしかない。つまり籐子さんは、四月から保健医と同居するわたしのために、足りない家具を揃えようと言うのだ。そのためにわたしをここまで引っ張って来たのか。
「二人で使うには、ダブルでは小さすぎますものねえ。せめてクイーンサイズか、できればキングサイズに」
「あ、あのー。政高さんとわたしは、そのー」
「結婚を前提としたお付き合いをさせていただいているのでしょう? あの子がわたくしに恋人を紹介した事などありませんでしたし、ましてや家まで連れて来た事もありませんでしたわ。これほど女性に執着するなんて、本当にに初めて。それにわたくし、子供は政高一人しかおりませんので、穂之香さんのような娘ができるなんて本当に嬉しくて仕方がありませんの」
おっとりのんびりお上品な口調で告げられるそのとんでもない言葉に、わたしは目に見えないカウンターパンチを食らってしまった。人間、ノーミソの許容量を越えるような出来事に遭遇すると、思考が停止するだけではなく体の動きまで止まってしまうものらしい。今のわたしがまさにその状態で、石化したように動けなくなってしまったのだ。
誰と誰に結婚の予定があると? 籐子さんの娘になる人って、誰の事? ついでに言うと、お屋敷にわたしを連れて行ったのは保健医ではなく理事長だったはず。
目の前で夢見る乙女のように瞳を輝かせながら、わたしには理解できない言葉の数々を吐き出している籐子さんが、まるで宇宙人のように見えた。
そうか。これが二回目の第一種接近遭遇なのか。
「穂之香さん、どうかされました?」
「い、いいええええ。ちょっとびっくりしたものですから」
声が上擦っているのが自分でも分かる。さぞかし挙動不審に見えるだろうと思うのだが、籐子さんは気にも留めていない様子だ。
「照れていらっしゃるのね」
などと、都合良くそっちに勘違いなさっているのだ。このお母様は。
決して照れているわけではなく、わたし自身が知らないうちに勝手に進んでしまっている話にびっくりして、リアクションできていないだけなのだ。にもかかわらず、籐子さんはうきうきとベッド選びを続行中である。
「これなんかどうかしら。穂之香さん、お休みの間も元気が良いと政高が言っておりましたし、大きい方が良いんじゃないかと思うのですけれど」
あの妖怪ぬらりひょん! またしてもとんでもない事を籐子さんに吹き込んでいやがったのか。
その白くてほっそりとした指が指し示す先には、彫り物を施された豪奢なベッドがある。これはさすがにないだろうと思いつつ、失礼にならない程度に眺めていると、そのとんでもないものが目に入って来た。商品説明タグの端っこに申し訳程度に書かれている数字が、どう見ても、わたしの常識よりも一ついや二つばかり桁が大きいのだ。
「い、いえ。もっと普通の物で良いんですけれど」
「あら、そうなの? じゃあ、こちらは?」
いや、だからもっと庶民的な物にしてください。と、険が立たないように必死でお願いして、ようやく、比較的安価な商品を揃えているコーナーに移動していただく事に成功した。
店員達は心から残念そうな視線を送って来ていたけれど、人間身の丈に合った物が一番なのだ。
そしてその後も広大な店内をあちらこちらと引っ張り回され続け、ようやく全ての用事が片付いた時には、くたくたに疲れ果ててしまっていた。
ちなみに籐子さんは、こう言ったお店に来たのは実は初めてとの事。普段はデパートに行くか、上流家庭御用達のお店の担当者が出向いて来るかなのだそうだ。だから余計に今日が楽しみだったと言うのだが、終始籐子さんのパワーに押されっぱなしだったわたしは、わたしが使うのだと言う前提での購入リストを前に、頬の引き攣りが治まらない。同居する事さえ未だ決定事項ではないと言うのに、同棲などと言う誤解を何とか解く事ができないものだろうか。
しかし必死に思案してみるものの、いっかな良い考えなど浮かんで来なかった。
そうこうしている内に、籐子さんのフェラーリが、駅に到着してしまう。
「今日は一日お付き合いただいて、本当に楽しゅうございましたわ。今から四月が待ち遠しくてしかたありませんのよ」
「い、いいえ、こちらこそ、色々ありがとうございました」
「ご両親によろしくお伝えくださいませね。それでは、ごきげんよう」
「は、はあ」
結局誤解を解く事ができなかったわたしは、頬を引きつらせたまま何とか笑顔を作った。
どうしよう。どうしたもんだ。籐子さんのこの様子では、わたしが実は保健医の恋人などではないと言ったところで、信じてもらえるかどうか甚だ怪しい。しかも、だ。すっかりその気になった籐子さんに、行きがかり上とは言えかなりの買い物をさせてしまった手前、今さら一緒には住みませんなんて事になれば全てが無駄になってしまい、多大なる迷惑をかけてしまう事にもなるのだ。
『流されやすいんですよ』
と言っていた保健医の言葉が、意味もなく頭の中でこだまする。
ここはとりあえず、保健医に何とかさせるしかないのだろう。しかし昨日と今朝のあのぬらりひょんの様子を見ている限りでは、たとえあれがあの男の本心にせよ口先だけの事にせよ、とてもではないが協力してくれそうにない事は想像に難くはない。
メタリックブルーの車体が視界から消えるのを呆然と見送りながら、途方に暮れたわたしは、深い深い溜息を吐く事しかできなかった。