強引な奴――乙女の危機です、お母さん
「偽者の恋人を、本物にしてみませんか」
そんな言葉を耳元で囁かれ、しかもその声音に含まれた妙な色気に中てられて、危うく腰が砕けそうになった。全身に鳥肌が立っている。どうやらこの男、顔だけではなく声も良かったらしい。顔に気を取られすぎていたため、気が付くのが遅くなり、油断してしまっていたようだ。
保健医が何を考えてこんな事を言い出したのか、その真意を確かめなければならない。だがしかし、今のこの体勢は、こちらにとって著しく不利である。
「な、何が悲しくて、あなたと恋人同士にならなくちゃ、いけない、ん、ですか」
「大丈夫ですか? 声が震えていますよ」
優しそうに、けれど確実に効果を狙って声をかけて来る男を、思わず睨んだ。自慢ではないが、生まれてもうすぐ四半世紀。幸か不幸か男の人とお付き合いをした事など、ほとんどなかった。そのため慣れていないと言うか、異性に対して耐性ができていないのだ。いや、それも少し違う。一応お付き合いくらいはした事があるが、深い仲になった事がなかっただけの事だ。どちらにしても男慣れしていないのは明らかなのだが。
「ご冗談ですよ、ね」
頼む。頼むから冗談だと言ってくれ。懇願に近い、まるで祈るような気持ちで、必死に引きつった笑顔を浮かべる。
「いいえ、あいにくですが本気です」
しかし願い空しく、笑顔と共に非情な応えが返って来た。本当に本気だとしたら、尚更たちが悪い。
「えーっと。とりあえず、少し離れていただけません?」
「離れたら、逃げるつもりでしょう」
「こんな格好で、どこに逃げるって言うんですか」
ちなみに今のわたしの格好は、用意されていた来客用の寝間着と下着に半天である。洋館に似つかわしくない出で立ちだが、寝間着ならばある程度の体型に対応できる。このあたりは旅館などと同じで合理的なようだった。
しかしこの真冬の夜の空の下、風呂上りにこの格好で外に出れば、風邪をひくのは間違いない。その事に気付いたらしい保健医は、扉に突いていた両手をゆっくりと引いた。それに伴って、わたしに被さるように前屈みになっていた上体が引き上げられ、ようやく息を吐く事ができた。
「何か温かいものでも、用意させましょう」
用意「させる」と言う人を使い慣れているからこそ自然に出て来るのだろうその言葉に、超庶民のわたしは溜息を禁じ得ない。その辺りからきちんと話をしておかなければならないようだ。
この客間は建物の豪奢な外観とは違い、余計な飾り気のない質素かつ素朴なインテリアで纏められている。とは言えベッド一つソファ一つを取っても、わたしの給料なんかじゃ手も出ないような品ばかりなのだろう。試しにソファに腰掛けると、こちらのクッションは程良い弾力があり、応接室のように体ごと沈んでしまう事はなかった。
そしてまた当然のように、わたしの隣に保健医が腰を下ろす。さすがに今度は密着されずにはすんだが、それでも充分に近いその距離に、知らず体に緊張が走る。
さて。何から話せば良いものやら。
何とも重苦しい空気の中、かける言葉が見つからずに悶々と考え込んでいると、推定年齢五十歳のメイドさんが、ティーセットを載せたワゴンを押して現れた。やはり相変わらず、濃紺ワンピースに純白のレースふりふりエプロン姿である。
「こんな時間にすみません。あとは自分でしますから、休んでください」
ワゴンごと引き取った保健医に、少なからず驚いた。人を使い慣れているとは言え、自分の事は自分でする気概はあるらしい。
思わずじっと見ていたわたしの視線に気付いた保健医が、くすりと小さく笑いを漏らす。
「これでも一人暮らしをしていますから、一通りの事は自分でできますよ」
「あ、そう、ですよね」
そうだった。確か将星学園の近くのマンションに住んでいると言っていた事を、思い出す。一通りと言う事は、炊事・洗濯・掃除も全て一人でこなしているのだろうか。だとしたら、お坊ちゃん育ちにしてはなかなかたいしたものだと素直に思う。
ちなみに。わたしは生まれてこの方一度も一人暮らしなどした事はなく、家事は専業主婦である母に任せっきりと言う状態だ。妹は母の手伝いを良くして何でも卒なくこなし、特に家庭料理に関しては近年めきめきと腕を上げている。わたしはそのお陰で、自慢ではないが家事のほとんどをした事がない。さすがに部屋の片付けは自分でしてはいるけれど、日々の掃除は母がしてくれる。
しかし、だ。こちらで一人暮らしをするとなると、当然の事ながら家事全般はわたし自身がしなければならないのだ。と、今さらながらに気付いた。掃除・洗濯は、掃除機と洗濯機があれば何とかなるだろう。たぶん。それよりも問題は、炊事である。本当に自慢ではないが、玉子焼きも満足に作れた例しがない。学校の家庭科の調理実習では専ら、使った鍋やフライパンを洗ったり、後片付けを引き受けたりしていたほどだ。
毎日の食事をどうするのか。人間として最低限の水準の生活を維持するためには、まず食生活が大事だと言うのに。
「どうぞ」
重大な問題に頭を抱えているわたしの目の前に、ほかほかと温かそうな湯気が立ったティーカップが置かれた。
ついうっかり考えに沈んでしまい、目の前のさらに大きな問題を忘れてしまうところだった。
「いただき、ます」
ワゴンの上には、砂時計が置かれていた。どうやら茶葉の蒸らし時間を計るためのものらしい。と言う事は、結構本格的にお茶を淹れてくれたのだろうか。
そして恐る恐る口を付けてみて驚いた。
「わ。おいし」
湯気と共に立ち上る紅茶の香りが、鼻腔を擽る。何とも言えない芳香が漂い、間違いなく高級な茶葉なのだろうと思った。そして同時に、これを用意してくれたメイドさんと、淹れた保健医の腕もかなりのものだと見た。
「ありがとうございます」
その微笑に、ティーカップを持ったままわたしの動きが止まってしまった。
何と言うのだろう、この表情は。いつもの胡散臭さの欠片も感じられない、素直な嬉しさと僅かな照れの入り混じった、なぜだか擽ったそうな表情は。以前にも一度だけ見たな、と思ったら、初対面の時だったのだと思い至った。わたしがこの男の髪と目の色を綺麗だと感じ、それをそのまま言葉にして伝えた時。彼自身が驚いていた、恐らくは彼の素の表情。
あの時も今も。綺麗すぎるくらいに整った顔に浮かんだその子供っぽい表情が可愛く思えた、だなんて。きっと気のせいに違いない。油断していたのだ。錯覚なのだ。
「あー。えー、と」
「はい?」
「あの、ですね。胡桃沢先生は、どうして」
「政高」
「ああ、ええと。政高さん、は、どうして、いつ」
やんわりと呼び方を訂正されたけれど、良く良く考えてみれば、下の名前で呼ぶのはあの猿芝居限定と言う約束だったのではなかろうか。今の状況を考えれば、少なくともこの家の人達の前ではそのままで通す必要もあるのだろうが、この部屋にはわたし達二人しかいないと言うのに。
けれど今はそんな事よりも気になる事があるのだ。これが肝心要と言うか、間違いなくこれからのわたしの行動を左右する事になるのだから。
「その、わたしを、ですねえ」
ああ、もう。好いた惚れたの色恋事は苦手なのに。それが自分の事ともなると、さらに照れが入ってしかたがない。
どうでも良い相手ならばすぐにお断りしている所だが、この男相手ともなるとそうもいかない。なおさら面倒だ。
「ああ。はい。あなたの事をいつ恋愛対象として見始めたのか、と言う事ですね」
そうそう。そうです。それを聞きたかったんです。
優雅な動きで紅茶を飲む保健医に、わたしは何度もこくこくと頷いた。
「初めてお会いした時です」
その信じられない言葉に、まじまじと目の前の男の顔を見つめてしまった。
「人間、何がきっかけになるか分かりませんね」
にこにこにこと笑顔の大安売り状態の保健医は、しかしいつもの胡散臭さが次第に滲み出し始めている。人間どんな時も、本性は隠せないものらしい。
「生徒達に声をかけて回っている怪しい女がいるらしいから見て来てくれ、と理事長から頼まれたんです」
「はい?」
いきなり何の話かと思ったら、わたしが恭平の事を調べにじゃなくて様子を見に来た時の事を言っているらしい。なるほど、初めて会った時には違いない。
この男から誰何されたのを無視したら、警察に通報されかけたのだ。にもかかわらず、どうやらわたしの事を面白い奴だと思ったらしい。咄嗟の誤魔化しだった「職探し」の口実に内心ほくそ笑みながら、司書に欠員が出る事を告げたのだそうだ。
今になって考えてみると、あんなばっちりのタイミングで欠員が出るものだろうかと疑問が湧く。しかしそれに関しては、何の小細工も弄してはいないと保健医が言い切った。どこまで信じられるかは疑問だが、とりあえずこの事については追及しない事にした。下手につつけば、採用を取り消されかねないではないか。
「僕も、妹さんの事は、単なる口実に過ぎませんでしたから」
その単なる口実を叩いて麺棒で引き伸ばしてさらには出汁を取って利用しまくった奴が何を言うか。そう思ったが、確かにお互い様なので何も言えないのだが、どこか釈然としない。
だがしかし、である。住む場所がないからと、わざわざ仕事にかこつけて遠路はるばる会いに来て自宅マンションへの同居を勧めてみたり、わたしがついた嘘に咄嗟に協力する姿勢を見せてみたり、かと思えばそれをネタに脅しをかけるような真似をしてみたり。思い返してみると、それには一貫した意思があったと思えなくもない。
しかし。さらにしかし。
ひとめ惚れと言うものが実際にある事は信じよう。昔すぎて涙が出るくらいの遥か昔、わたしも経験したのだから否定する事はできない。
そしてやはり、しかし、である。
「あなた、もしかして、M?」
真顔で言ったわたしの言葉に呆気に取られた保健医は、次の瞬間小さく吹き出していた。
「いいえ、どちらかと言うと、Sだと思いますが。どこからそんな発想が出て来たんですか」
すぐ隣で肩を震わせているものだから、その微かな振動がわたしにも伝わって来る。そんなにウケるような事を言ったつもりはないのだが、どうやらツボにはまってしまったらしい。
そしていかにも楽しそうな男とは反対に、わたしは真面目に考えこんでしまう。たった二度しか会っていなかった女なのに。まあ、好意を抱いていると仮定してだが、そんな相手とは言え、大衆の面前で力いっぱいグーで殴られたにもかかわらず。それでも好きだと思えるなんて、もしかするとMの気があるのかと思っても仕方がないと思うのだ。
でもそう言えばこの男。宇宙人相手の猿芝居への協力を求められた時、ぶん殴った事を理由に半ば強引に引き受けさせようとしていたわよね。初対面の時は、警察に通報すると脅されて。次に会った時にはわたしがついた嘘を頼みもしないのに勝手にフォローしてくれて、それを理由に偽者の恋人役をしろなんて言いやがったのだ。嘘をつきとおして欲しいとは言われたけれど、それを引き受けた覚えはない。にもかかわらず周囲の人には本当の恋人同士だと思わせるような言動を取って、わたしがそれを否定できないように仕向けたのだ。
それらの事を考え合わせると、確かにこの男はMよりもSなのかもしれないけれど。
「穂之香さんご自身は気付かれていないかもしれませんが、あなたも悉くいいタイミングで墓穴を掘ってくださっているんですよ」
「墓穴、ですか」
「妹さんを想うがゆえとは言え、学園の前で怪しまれるような行動を取りましたよね」
「はあ」
「咄嗟に、職を探していると嘘をつきましたよね」
「あ、あはははは」
「江原さんに、恋人ができたと言う嘘をつきましたよね。しかもその相手は、どう考えても僕の事でした」
「えへへへへ」
「滝本医師の誘いを、断りきれませんでしたよね」
「あう」
「怒りに任せて、大勢の人の前で僕の顔を殴りましたよね。まあ、あれは僕があなたをけしかけたせいもありますが、見事に乗せられましたよね」
「うー」
「困っている人を放っておけない性格につけ込んだのは僕ですが、それでもあの茶番劇を引き受けてくれましたよね」
「うが」
「きわめつけは、偽者とは言え恋人の実家に、こうして泊まる事になってしまった。あなたはね、流されやすいんですよ。かなり」
あああああ。思わず本気で頭を抱えてしまう。
「ツッコミどころ満載なあなたの行動と巡り巡った偶然のおかげで、僕自身が策を練る必要もなく、こう言う事態に至っているわけです」
策を練る? 何のための? と尋ねようと抱えていた頭を上げて、思わず声を上げそうになる。時間が時間だし、ここはよそ様のお宅だと言う事が頭を過ぎり、必死に堪えたけれど。
何ともなれば、驚くほどの至近距離に、保健医の顔があったからだったのだが。
「さすがにね。あなたと江原さんが抱き合っているのを見た時は、思わず彼を排除しそうになりましたけれど」
「は、排、除?」
上機嫌らしき笑顔で迫りながら、何とも恐ろしい科白を言ってくれるものだ。
「いくら仲のいい先輩とは言え、二度も失恋した相手と抱き合うなんて、あなたも警戒心が薄いと言うか隙だらけと言うか。自覚、ありますか?」
「は? って、二度、って、何であなたがっ!?」
どうしてこの男がその事実を知っているのだろう。
確かにわたしは、過去に二度も、江原先輩に失恋したのだ。中学の時にはきっぱりとふられ、真奈美の縁で再会した時には告白するまでもなく失恋していた。しかし中学の時の事は一部の人間しか知らないはずだし、再会してからの事なんて、誰にも何も言っていなかたはずなのに。
「江原さんご本人から教えていただいたんです。再会してからのあなたの気持ちには気付いていたけれど、応える事はできなかったとおっしゃっていました」
くらり。一瞬、世界が傾いた気がした。よりによってこの男にそんなとんでもない情報を漏らすなんて。思わず江原先輩を恨みそうになる。
「僕があなたの恋人だから、ですよ」
「え?」
「妹みたいに大切なあなたを、大事にしてやって欲しい、と言われました」
そうなのだ。中学の時、顔がいい男は苦手だったわたしが、恭平と同じ陸上部だった先輩と親しくなれてその内面を好きになった。けれど告白した時、先輩は
「庄司は本当の妹みたいで可愛いと思ってる。けど、そう言う相手として見る事はできない」
そう言ってわたしをふったのだ。
けれどその後も気まずくなる事なく先輩が接してくれて。だからわたしも何事もなかったかのように、妹として接する事ができたのだけれど。やがてわたしよりも先に卒業した先輩とは、滅多に顔を合わせる機会もなくなってしまった。
真奈美が六年前の事故で入院していた病院に、理学療法士として赴任して来た先輩が、偶然にも真奈美の担当をする事になって再会した。けれどその時先輩には、既に愛する彼女がいた。ただ、それだけの事。
それからは顔を合わせるたびに、昔のようにふざけあったり相談に乗ってもらったりしているうちに、恋愛感情抜きで一緒にいて安心できる、心許せる人になっていた。
「あなたにそんな表情をさせるなんて、やっぱりちょっと妬けますね」
「ちょ、ちょっと!」
だから、馴れ馴れしく肩を抱くな。顔を寄せるな。おでこにキスをするな。心の中の絶叫は、しかし相手に届く事はない。必死に両手で抵抗を試みるも、悲しいかな、男女の力の差は大きすぎた。
茶番劇で抱きしめられた時にも感じたのだが、どうやらこの男は着痩せするらしい。ほっそりとして見えるのに、胸にも腕にも程よい感じで筋肉がついている。骨格がごつくないから、細く見えているだけだ。
わたしだって中学時代は、空手部で男子部員に混じって鍛えていたと言うのに。男と女だと言うだけでこれだけの差がつくなんて、理不尽だと感じずにはいられない。
しかしここで引き下がっては女が廃る。それならば、と、わたしは両手を保健医の頬に滑らせた。
突然の事に男の動きが止まる。眼鏡越しに見える灰色かかった色素の薄い目が、驚いたように見開かれた。
そして。
「調子に、乗るんじゃ、なーいっ!」
力いっぱい、両耳を抓ってさし上げた。
「い。いたたたた。穂之香さん、放してください」
「放してほしければ、今すぐわたしから離れて」
「分かりました、分かりましたから」
思いがけない攻撃に、両手を挙げて降参のポーズを取る保健医を、じろりと睨みつけてやる。
「その顔は、実は逆効果なんですが」
さらに訳の分からない事を言う保健医の腕の力が緩み、ようやく抜け出す事に成功したわたしは、一人がけの椅子に移動した。
「残念。でも諦めませんからね」
「あなたねえっ!」
そこではた、と思い出す。
「ど、同居の条件!」
「はい?」
「あなたが、言ったでしょ。わたしには手を出さないって。純潔の保証をするとまで言ったわよね」
「言いましたね。でも」
にっこりと。保健医は悪魔の笑み浮かべた。なまじっか綺麗な顔立ちだから、余計に凄みが利いていて、不気味さ倍増だ。これならいつもの胡散臭い笑顔の方が数段ましだ。
「一緒に住んでいる間は、とも言いましたよ。それに今はまだ同居のお約束もいただいていませんし、その段階ではありませんから。もちろんお約束をいただけるのでしたら、以前の条件は有効にさせていただきますけれどね」
同居するなら手を出さないけれど、同居しないのなら今ここでお手付きしちゃうぞ。と聞こえるのは気のせいなのだろうか。
じんわりと。掌だけではなく額にも、嫌な汗が噴き出して来る。ガマ蛙親父の笹川代議士のように、たらーりたらりと。
これぞ正しく乙女の危機だ。無意識に父と母に助けを求めるが、あの母の事、このシチュエーションには諸手を上げて喜びそうだ。
こうなったら、徹底抗戦あるのみか。
「まあ、まだ時間はありますし、焦る必要はないでしょう」
ファイティングポーズのわたしを前に、しかし保健医はあっさりと引き下がる。まだ身構えたままのわたしに背を向け、掛け布団を捲り上げて引っ張り出した毛布を手に、ソファに戻って来た。どうやらここで寝る事に決めたらしい。
あまりに呆気なくて、肩すかしを食らったようだ。
「ああ、そうそう。実は、子供の頃から何度も誘拐まがいの目に遭ったので、護身術として空手を嗜んでいたんですよ。高校受験を機に、中学二年でやめましたけれど」
空手? 妙な符号の一致である。しかも子供の頃から中二まで続けていたのならば、それなりに腕も上がっていたのではなかろうか。
「もしかして、有段者?」
「昔取った杵柄ですよ。あまり真面目ではありませんでしたから、ほんの初段です」
「げ」
黒帯ではないか。どおりで、ほっそりとしたきれいな手なのに、拳がまっ平らなわけだ。幾分落ちたのだろうけれど、身体にも筋肉がついているわけだ。
明らかにわたしよりも強いはずだ。これでは男と女以前の問題だ。そもそも力で敵うわけがない。
「と言う事で、そろそろ寝ませんか。ベッドはあなたに明け渡しますから」
「な、何もしないって約束してくれるなら」
「もう何もしませんよ」
それならば、とわたしも用意されたベッドに向かう。よりによってダブルどころかクイーンサイズなのだ、このベッドは。そこに籐子さんの思惑が見えたような気がして、思わず額に手を当てて天を仰いだ。勘弁して欲しい。それはもう、切実に。
「今夜は、ね」
ベッドに入ってふかふかの羽毛布団に潜り込んだわたしの耳に、蚊の鳴くような保健医の呟きが届いた。