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狸な人々――何がどうしてこうなった

 あの日わたしが保健医から聞かされたのは、ほんっとうに限りなく、ごくごく一部の情報だったのだ。

 父と叔父が、保健医の意に沿わない縁談を纏めようとしている。さらにはこの縁談で確固たる後ろ盾を得る事になり、父の跡を継ぐ事になるだろう。しかし彼は将星学園の保健医と言う地位に満足している。父の跡取りには保健医よりも優秀な弟がいる上に、弟本人もそのつもりでいるから、この縁談を破談にしたい。しかし特定の相手がいないのならば、縁談の相手と結婚しろと迫られている。

 つまり断るためには、特定の決まった女性がいる事を、証拠を添えて示さなければならない。だから偽者でかまわないから、わたしにその証拠になってほしい。

 とまあ、簡単に言えばこんな内容だった。


 わたしの両親は、世間一般的に言うところの恋愛結婚である。銀婚式を迎えた今でも、娘の目の前で照れもせずにいちゃいちゃしている、年中ラブラブ夫婦だ。そんな二人を見て育ったわたしは、結婚はやはり恋愛が前提だと思っている。今日結婚した最愛の妹も恋愛結婚だし。

 もちろん見合い結婚が悪いなどとは思わない。出会いの形が違うだけで、相手を知った上で愛情を持って結婚するのならば、それも良いんじゃないかと思っている。

 けれど、この保健医の縁談は。本人の意思とは遠い場所で、人が勝手に決めてしまおうとしているこの結婚は。わたしの常識ではとてもではないけれど考えられない、まるでテレビドラマか小説の中の話のようなものだった。


 しかし果たして、こんなにいきなりで突拍子もない嘘が通用する相手なのか。そう思ったから、迷わず保健医にそう告げたのだが、

「嘘だと思わず、その時だけ本気になれば大丈夫ですよ」

 と自信満々に返されてしまったのだ。

 嘘偽りが嫌いなわたしにとって、これは結構きつい。まあ、既に大きな嘘を江原先輩と滝本医師にはついてしまっているのだけれど。それでも嘘の上塗りをする事には大きな抵抗があり、一度は断ったのだ。しかし保健医はきっぱりと首を横に振った。

「あなた以外に、お願いできる人がいないんです」

「まさか。あなたなら、喜んで引き受けてくれる人がいくらいでもいるでしょう」

「それが、そう簡単にはいかないんです」

 確かに、言い寄って来る女性には事欠かないらしい。誰も彼も見る目がないと思うが、この綺麗な外見に騙されてついふらふらと寄って来るのだろう。

 そしてこれがまた腹立たしいのだが、保健医には全くその気がなく、全てお断りしているのだそうな。一人くらいはお眼鏡に適う相手がいるんじゃないかと思うのだが、

「ぼくの外見と医者と言う肩書きに寄って来る人には、心が動かないんですよ」

と涼しい顔をして言ってのけた保健医の横顔を、わたしは唖然として眺めた。

「偽の恋人役など頼んでしまった日には、本物の恋人気取りで迫られかねません。その点、あなたならまずその可能性はないでしょう」

 にやりと人を食ったような笑みを口元に刷き、さらに見せつけるように掌で頬を摩りやがった。

 確かにわたしは医者なんてセレブな職業に飛び付いたりする事はないし、顔が良い男は嫌いだし、果ては綺麗だろうが何だろうが、腹が立てば殴り倒してしまうような女でございますともさ。

「それに、ご協力いただけるのでしたら、殴られた事は水に流しても良いかと思っているのですが」

 思わず返答に詰まってしまった。確かに、いくら腹が立ったとは言え、あの大衆の面前で無抵抗な相手を殴ったのだ。たとえ非が相手側にあろうとも、先に手を出した方が負け。そんな事は、子供の喧嘩でも常識だ。


 つまり、遠回しに

『協力しないのなら、出る所に出てもいいんだぞこの野郎』

と言っているわけだ。どこまでも姑息な奴め。けれどそんな姑息な手を使わずにいられない程度には、本気で困っているのだと言う事が分かった。分かってしまった。そしてわたしは、困っている人を見捨てる事はできない性分なのだ。たとえどんなに胡散臭くて腹立たしい相手であっても。

 その事に気付いたのは、実はこの時が初めてだったのだけれど。




 そんなこんなで仕方なく、ほんっとうに仕方なく、偽者の恋人役を引き受けたのだ。肝心な事は何も知らされていない。とは言え、そんな事は百も承知だ。

 出会って三度目。初回はとんでもなく印象が悪かっただろうし、時間もほんの僅かだった。二回目は何だかんだの挙句、殴り倒してしまったし。そんな相手を信用するはずなどないのだ、普通の人間ならば。

 いつの間にか信じようと思ってしまっていたわたしがおかしいのだと分かってはいるが、それでも言葉では言い表せない悔しさが湧き上がって来る。けれどそれは、わたしの理不尽で一方的な我侭だ。信頼関係と言うものは一朝一夕でできるものではなく、お互いを知って行く段階で少しずつ築き上げて行く物なのだから。

 分かっている。理性では分かってはいるのだが、感情が理解しようとしていない。散々胡散臭いだの怪しいだの思っていたくせに、勝手なものである。

 そして今に至る。わけなのだが。

「何か勘違いされているようですが、もともとこれが、今回の話の最終目的だったんです」

「はい?」

 思わずな間抜けに聞き返したわたしに、保健医はいつもの笑顔を貼り付けたままの顔を見せる。

「広孝と京香嬢は互いに好意を持っていたのですが、それを知らない親達が勝手に縁談を持ち上げてしまったんです」

 つまりこう言う事なのだろうか。保健医の弟君と縁談の相手である京香嬢は、実は両思いの恋人同士だった、と。それに全く気付かなかった親父ーズは、事もあろうに兄である保健医と京香嬢を強引に結婚させようとしていた、と。


 そして語られる、事の顛末と真実。

 元々ごま塩親父は、長男である保健医に病院を継がせたかったらしい。けれど保健医にはその気が全くなく、異母弟である広孝さんに継がせるべく医療現場から身を引いたらしい。それならばと、母方の祖父である理事長が、学校医として保健医を採用した。実はそれ以前から理事長は、提携医ではなく学内に医師を常勤させる事を思案していたそうで、まあつまりは一石二鳥となったわけだ。

 ちなみに理事長は、一人きりの可愛い孫である保健医にゆくゆくは学校を継がせるつもりでいるそうなのだが、保健医自身はのらりくらりとそれを躱しているらしい。

 広孝さんは整形外科医として、ごま塩親父の病院に勤務している。父親とは違い医師としての腕もそれなりに良く、周囲からは将来を嘱望されているそうだ。けれど広孝さんは広孝さんで、事の発端がどうであれ、結果的に彼と彼の母のせいで家を追い出す形になってしまった籐子さんと兄に負い目を抱かずにいられるはずもない。この縁談がまとまれば、笹川代議士の娘の夫と言う肩書きを手に入れるはずの保健医を病院に迎え、名実共に次期院長にできる、と言う父の計画に異を唱える事はできなかった。たとえその相手が、彼自身心通わせている大事な女性であったとしても。

 病院の跡取りとして文句のない広孝さんだが、ごま塩親父は病院勤務をしていない保健医を何とか手元に取り込もうと、あれやこれやと画策しては失敗に終わっているのだとか。今回の縁談然り。昔からの横槍然り。


 つくづく中流の普通の家庭に生まれ育った事を、有り難く思った。と同時に、ごま塩親父の理不尽な行動に対する怒りが、数倍に膨れ上がって来る。

 宇宙人なら宇宙人らしく、地球征服でも企めば良いものを、一個人だけに執着するとは宇宙人の風上にも置けない奴だ。

 どうしようもなくて広孝さんも京香嬢も諦めかけていた時、保健医から父親に入った一本の電話が、彼らに希望を与えた。

「僕には、大切にしたい女性がいます」

 それは、ごま塩親父にとって青天の霹靂だったのだろう。どこの馬の骨とも知れない女など許さんとか、それなら相手を連れて来いとか、鼻息も荒く言い立てる父親の言葉を十分に予想していた保健医は、涼しい面でこう答えたのだそうだ。

「大丈夫です。祖父も知っている、身元の確かな方ですから」

 ちなみに馬の骨と言うのは多くの場合男の事を指して言うんですよ、と余計な一言まで加えたらしい。ごま塩親父が怒りで真っ赤になっている姿が目に浮かぶと言うものだ。まあ、お陰でいくらかは溜飲が下がった気がするけれど。


 理事長やら籐子さんやら話し手は途中でころころ変わったものの、とりあえずそんな所だと言う事で、話は終った。

 じゃあどうして初対面の時に京香嬢がわたしを鋭い目で睨んでいたのかと言うと、いかにして縁談から逃げようかと必死で考え続けていたため、緊張で目つきが険しくなってしまっただけだったのだと、ご本人から説明と共に謝罪を受けたのだが。何とも紛らわしいお嬢さんだ。お陰で親父ーズと一蓮托生で宇宙人認定してしまったではないか。途中で認識を改めたとは言え、いやはや、申し訳ない。




 行きがかり上と言うかわたしの意見を聞かない内にと言うか、とにかく思いがけず夕食をご馳走になる事になってしまった。先日の門限騒動を思い出した保健医の言葉で、わざわざ理事長がわたしの両親に連絡を入れてくれ、恐縮してしまう。

 出された料理は和洋折衷。どうやら理事長と保健医と志津子さんは和食好みで、籐子さんと広孝さんと京香嬢は洋食がお好みらしい。そのため用意されたものは、和食洋食取り揃えられ、何とも豪華で賑やかな食卓となった。

 ってーか、この量って、多分大人十人分以上はあるんじゃなかろうか。七人しかいないのに、これだけの量の食料をどうしろと言うのか。

「お好きなものを食べてくださって結構ですよ」

 そうは言われても、バイキングじゃあるまいし。思わず脱力するのは、わたしが庶民すぎるからだろうか。

 もっとも、お箸OKフォークもナイフもテーブルマナーも気にしなくて良いと言う、気楽なスタイルなのは有り難かった。一応常識的なテーブルマナーくらいは身に付けているけれど、食事の時くらいは気を張らずにいたいではないか。とは言え、この錚々たる上流階級の面々を前にしていれば、無意識でどこかしら緊張してしまうのは仕方がないのだけれど。

 食事が終わって、コーヒーとお茶で団欒の一時を過ごしていると、なるほど広孝さんと京香嬢は初々しくも仲睦まじくていい雰囲気だ。知らないとは言え、これを壊そうとしていたなんて、親父ーズも罪作りな事をするものだと思わずにはいられない。

 理事長と籐子さんさらにはこの中では影が薄いくらいに控えめな志津子さんからの脅しと言う名の説得に折れたごま塩親父は、自ら進んで笹川代議士に、広孝さんと京香嬢の縁談を持ち掛けたのだそうだ。

 先日の破談でいたく気分を害していたガマ蛙親父だったが、娘可愛さにその話を渋々の態を装って受けたのだとか。いやはやどちらも立派な狸っぷりだと感心する。


「では、わたし達はそろそろ失礼させていただきます」

 志津子さんが立ち上がると、広孝さんと京香嬢もそれに倣って席を立った。

「あ、わたしもそろそろ」

 続いて立ち上がり、さてバッグはどこに置いたかなと辺りを見回していたら。

「あら。穂之香さんは、今日はこちらにお泊りいただく事になっていますのよ。ご両親のご了解もいただきましたし」

 などとにこやかにおっとりゆっくりとした口調で語る籐子さんを、わたしは思わず凝視した。失礼だとかそんな事を考えている余裕などない。何を勝手に話を決めて下さっているのだろうか、このお母様は。

「明日もお休みを取られているのでしょう? よろしければ、わたくしにお付き合いいただけませんかしら」

 いただけませんかしらと言われても困るのだが。しかしどうやら、明日が休みだと言う事までリーク済みらしい。

「お部屋は二階に用意させてありますし、お着替えもご用意させていただいておりますのよ」

 だからと言って、勝手に話を進めるな。と言うような事をできるだけ穏便に丁寧に伝えようとしたのだが、微笑を浮かべているはずのその目が笑っていない事に気が付き、背中を冷たいものが伝って行く。さすがは保健医の母親だ。と言うよりもむしろ、保健医よりも年の功の分なのか人生経験の分なのか、とにかく凄みはこの人の方が遥かに上だ。

「母には、逆らわない方が良いですよ」

 耳元でぼそりと呟くように聞こえた保健医の言葉に、ごくりと生唾を飲み込んだ。

 保健医くらいなら、対等に渡り合える自信があった。しかしこのお母様、たおやかな外見とはかけ離れたこの鋭い眼光は一体何者? と言うくらいには怖い。

「あ、りがとう、ございます。お言葉に、甘えさせていただきます」

 引きつりそうになる頬の筋肉を総動員して、何とか笑顔を返す事に成功した。途端に優しげな目付きになるあたり、この人も相当な狸だと悟らずにはいられない。もっとも、このくらいでなければ、あのごま塩宇宙人と対等になど渡り合えないのだろうけれど。

 良くも悪くも、確かに保健医の母だ。

「たいしたもてなしはできませんが、ゆっくりして行ってください」

 理事長もにこやかな笑顔を浮かべていらっしゃるけれど、きっとこの人は籐子さんよりも数段上の狸なのだろう。

 何だかとんでもない人達の中に紛れ込んでしまった事を今さら気付いても、後の祭り。とてもではないが逃げ出せそうにはない。よしんば逃げたとしても、その後が怖い。

 わたしはこっそりと、諦めの溜息を吐いた。




「で?」

 目の前にいる男の顔を、挑むように睨みつけた。

「はい?」

「はい、じゃないでしょう。一体何なのよ、この状況はっ!」

 室内を指差し、声を張り上げる。

「大声を出すと、家の者が驚きますから」

 唇に人差し指を当てて「しーっ」と言う仕草をする男を、わたしはさらに睨む。

「これを見て、何とも思わないの? この異常な状況を何とも思わないのっ?」

「異常、ですか」

 小首を傾げても可愛くないと言うのは、既に以前実証済みだこの野郎。

「異常じゃなくて、何だって言うのよ」

「いえ、まあ、春から同棲しようと言う恋人同志なら、不思議のない状況だとは思いますが」

「同棲じゃなくて同居でしょ。ってか、わたしはまだ一緒に住むなんて言ってない!」

「そうでしたか? うっかり、祖父と母にはそう伝えてしまいました。ああ、ついでに父と弟にも」

 くらりと、眩暈を覚えた。だからなのか。どおりで合点が行った。うっかりなんて大嘘だ。この男、一番肝心な部分をわざと隠しやがったのだ。偽者の恋人だと言う事を。

 ホテルで理事長が言っていた、保健医の我侭だとか無理だとかは猿芝居の事ではなく、単にあの場所に強引に引っ張り出した事を言っていたのだ。

「うっかりって、あなたねえ。今からでも遅くないわ。誤解を解かなくっちゃ」

 部屋を出ようと踵を返したところで、後ろから腕を掴まれた。

「もう寝ていますよ」

「う」

 そりゃあ、そうかもしれない。お風呂を勧めてもらった時、最後で良いからと言ったのはわたしだし、その分時間は遅くなっているし、だから理事長も籐子さんも既に私室で眠りに就いているのだろう。寝ているあの二人を起こしてまで、訴えるべき事なのか否か。しかしこの状況は、どう見てもおかしいのだ。おかしすぎてまともに頭が働かないくらいには、異常なのだ。用意されているわたしと保健医の寝室が同じなどと言うふざけた現状は、悪い冗談だとしか思えないのだから。しかもこの事態を招いているのが、どうやら保健医の発言ゆえなのだと悟り、思わず両手の握り拳を固める。

「どう言う、つもり?」

「そう言うつもりです」

「だから、それはどう言う、って、ちょ、ちょっとっ!」

 掴まれたままの腕を後ろに押され、先程閉めたばかりの扉に背中がぶつかった。体勢を立て直す間もなくわたしの頭の両側に保健医が手を付き、扉に押し付けられたような格好になる。

 壁ドンか。壁ドンなのか。

 何なんだ。何がどうしてこうなっているんだ。

 混乱する頭を落ち着かせようとするけれど、すぐ目の前にあるグレーがかった眼に射竦められてしまい、まともに思考が働かない。

 そして至近距離から落とされた保健医の爆弾とも言える言葉に、わたしのノーミソは完全に思考を停止した。

「偽者の恋人を、本物にしてみませんか」

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