卑怯な奴――塞がれた逃げ道
にこやかに穏やかに入って来たその二人の姿を、ごま塩親父もサイコロ叔父も文字通り目いっぱいに目を見開いて凝視している。どうやら額には汗が浮き出ているようだ。
「こんにちは。初めまして、政高の母の胡桃沢籐子と申します。あなたが、庄司穂之香さんでしょうか」
にこやかな微笑を浮かべた女性が、わたしに声をかけて来る。おっとりとしたその口調には、育ちの良さが滲み出ていた。
この人が保健医の血縁者だと言う事は、一目見ただけで分かっていた。明るい髪の色に色素の薄い眼。そしてなによりも、目鼻立ちがそっくりなのだ。異なる点を挙げるとすれば、男女の差だけではなかろうか。さらには年齢も、まさか親子だとは思えないくらいに若々しく見える。
「あ、はい。初めまして、庄司穂之香と申します」
保健医の場合男ゆえにやや線が細い感のある整った顔立ちも、女性ならばちょうど良いのだと分かる。むしろ美しさと繊細さが引き立っていると言うべきか。
ぼんやりと見惚れていたわたしは慌てて頭を下げようとして、いまだ体の自由がきかない事に気付いた。それもそのはず、保健医に抱きしめられたままでいたのだ。慌てて体を捩ると、思いの他あっさりと解放されたけれど。
そしてこれが、ここに来て初めてわたしが発した言葉だと気付いた。あらかじめ保健医から、なにも言わずに任せるようにと言われていたのだから仕方がないとは言え、宇宙人達からの攻撃に良く無言で耐えたものだと我ながら感心する。
「わたしとは、先日お会いしたばかりですね」
「はい。その節はありがとうございました」
同じようににこやかな理事長の微笑みは、どこか保健医の母と似ている。
「籐子、お義父さんまで、一体どうして」
明らかに狼狽えてはいるものの、なんとか気を持ち直したらしい。ごま塩親父が遠慮がちに声をかけて来た。
お義父さんと言う事は、もしかして理事長は。
「可愛い孫の嫁になる人にご挨拶を、と思ってね」
孫と言うのは、恐らく保健医の事だろう。と言う事は、間違いなく理事長は保健医のお祖父ちゃんなのだと思うのだが。当然と言うかやはりと言うか、わたしは何も聞いていない。
保健医を見やると、これまたそっくりなにこやかな微笑を浮かべやがった。いつもの胡散臭さを感じさせないその表情に、後でこの男に言ってやりたい事がまた一つ増えた。
「すみません。お話しするのを忘れていましたね。将星学園の理事長は、僕の母方の祖父なんです」
「不肖の孫が、お世話になっています」
挨拶とは言えいきなり目上の人に頭を下げられ、わたしも慌ててそれに倣う。くっそう。後で絶対に保健医を殴ってやる。
「いいえ、こちらこそ政高さんにはお世話になりっぱなしで、申し訳ないくらいです」
保健医に対する呼び方は、恋人同士だと言う設定上、あらかじめ打ち合わせの時に決めていた。わたしは「胡桃沢さん」でも良いんじゃないかと言ったのだが、なぜかそれは保健医によって即座に却下されたのだ。ちなみに今までその打ち合わせの成果を披露できなかったのは、ただ単にここまで口を開く機会がなかったためである。
それはともかく、この場に保健医の母親や祖父までが来るとは、ひとっ言も聞いていない。今回の縁談を破談にするためだけに偽の恋人役を演じれば良かったはずなのに。よりによって新しい勤務先の上役である理事長に知られたとなると、下手をすると将星学園にいる間中ずっと嘘をついていなければならないのだろうか。
保健医が言っていた
「嘘をつき通して欲しいんです」
と言う言葉は、もしかするとこう言う意味だったのか。
冗談ではない。と思うものの、今ここでそれを告げるわけにも文句を言うわけにもいかない。いくらわたしでも、それぐらいは弁えている。
「ち、違います。まだこの二人の仲を許したわけでは」
「あら。わたくしは認めますけれど。ねえ、お父様」
慌てて否定しようとしたごま塩親父を、心外とばかりに籐子さんが牽制した。
「もちろんだ。庄司さんなら、わたしが身元の確かさを保証できる。二人が好き合っているのなら、反対する理由などあるはずがない」
思考に耽っていたわたしを置いて、話はどんどん進んで行く。こんな事で良いのだろうか。
「し、しかし、それは」
「笹川先生には、わたしからきちんとご挨拶しておこう」
理事長も、あのガマ蛙代議士とお知り合いのようだ。上流の方同士と言うのは、みんなどこかで繋がっているものなのだろうか。とか考えていたら。
「京香さんとは、わたくし個人的に面識がありますので、お詫び申し上げておきますわ」
保健医の母はさらにあの京香嬢とお付き合いがあるようだ。
ここまで言われては、ごま塩親父はぐうの音も出ない。後ろに控えて目を白黒させていたサイコロのような顔の叔父などは、顔に「逃げ出したい」と書いているかのような情けない表情だ。
穏やかなその顔とは裏腹に、なかなかに強かでステキなご婦人とご老人。さすがは保健医の母とその父。と、感心せずにはいられない。
そして理事長のその微笑が、いきなり一変して真面目な顔付きに変わった。
「政高の事には、手も口も出さない。そう言う約束のはずだが、どうしてもそれを破りたくて仕方がないようだな」
「い、いえ、そんな、めめめ滅相もないっ」
「何なら今ここで、過去の事を全て挙げてみようかな。まず入園が決まっていた幼稚園の内定を、勝手に断った。小学校の時も同じ事をしたな。小学校四年の時には勝手に転校届けを出したし、中学進学の時は受験先に手を回して不合格にさせようとした。さらには高校入試の時には将星学園の推薦用の書類をわざと紛失してそれを届けなかった」
理事長が列挙していく過去の所業の数々に、わたしは唖然とするしかなかった。なんなんだ、この見事なまでに息子の人生に横槍を入れるようなやり方は。
「極めつけが、今日のこの事態だ。今までの事は籐子の口添えがあったからこそ許して来たが、さすがに今回はわたしも呆れ果てたよ」
呆れた、と言う口調には、明らかに怒りの色が滲んでいる。第三者のわたしが感じ取るくらいなのだから、その言葉を受け取るべきごま塩親父は、さらに切実に感じている事だろう。何かを言いかけて開いては閉じる口と、拭っても拭っても吹き出て来る汗がその事実を物語っている。今は真冬で、室内の暖房も過度ではないはずなのに。
そしてさらに追い討ちをかけるがごとく、それまで黙って二人の様子を眺めていた保健医の母が、ゆっくりと口を開いた。
「わたくしも今までの事は、あちら様の面目もある事ですし、寛容になろうと努めて参りました。けれどこの子の結婚に関しては、一切譲るつもりはありません。その理由は、他の誰でもない、あなたが誰よりもよくご存知のはずですわね」
それまでの穏やかで温かみがある雰囲気は一変し、冷たい響きを持った言葉には、棘さえも感じ取れた。あちら様と言うのが、ガマ蛙の事なのかそれとも別口の事なのかは分からない。家庭の事情なのだし、わたしなんかが知る必要もないのだろうけれど。
それまで赤や青にめまぐるしく変化していたごま塩親父の顔面が、妻の言葉を受けて蒼白になる。この二人の力関係がよく分かった瞬間だった。
保健医の母は一見箱入りのお嬢様のように見えるが、決して苦労知らずの深窓の奥様ではない。それは、保健医から知らされてはいたのだけれど。
「どうしてもこのお話を進めるとおっしゃるのならば、わたくしにも考えがあります」
「か、んがえ、だと」
「今すぐこれを、役所に届けます」
細く滑らかな指先が、一枚の紙を広げてゆく。ごま塩親父はそれに心当たりがあるらしく、げ、と短く唸り声を上げた。実はこいつも蛙だったらしい。
畳の上に完全に広げられたそれは、世に言う離婚届だった。
「で? ちゃんと説明していただけるんでしょうね、胡桃沢センセイ?」
保健医が運転する車の助手席で両腕を組み、わたしは隣に座る男を睨みつけた。
あの後、目の前に差し出された離婚届で完全に意気消沈したごま塩親父は、足元も覚束ないまま保険医の弟に支えられて姿を消した。同時に、これにて宇宙人との第一種接近遭遇は終了と相成った。
そして理事長に「せっかくだから」と誘われ、まさか断る事もできずにそのまま、準備された食事をご一緒させていただいた。騙しているのだと言う後ろめたさから変に緊張してしまい、絶品とも言える懐石料理の味など、これっぽっちも覚えてはいない。
「もちろんそのつもりですが、どこからご説明すれば良いですか」
「当然、最初っから全部」
いきなり連れ出されて来てみれば、海千山千の宇宙人との対面。まあ、これは往路の車中で事情を聞いてはいたし、渋々ながらも協力してやっても良いかななどと思ってはいたのだ。
だが、その後がいただけない。
妹の編入先であり春からのわたしの勤務先でもある将星学園の理事長が、このつかみ所のない妖怪ぬらりひょんのような保健医のお祖父さんだなどと、一言も聞いていなかった。さらに、まさかあの場に母親である胡桃沢夫人の籐子さんまでもが現れるなんて、想定の範疇を遥かに超えた出来事だ。しかも涼しい顔をしていたところを見ると、保健医自身はそれを知っていたと思える。意図してわたしに告げていなかったのだと邪推するには、充分な状況なのだ。
「最初から、ですか。ではとりあえず、父と母の現在の関係からいきましょうか」
穏やかとも言える静かな口調で語られたそれは、とてもではないがわたしの常識では考えられない夫婦関係だった。
保健医の父方の祖父つまりごま塩親父の父親はお医者様で、大きくはないけれど個人病院の院長だった。その息子であるごま塩親父は勉強が苦手だったにもかかわらず父親の跡を継ぐため、血の滲む思いで必死に勉強して医師の資格を取ったらしい。次期院長の座を約束されてはいたのだが、外科医としての腕は並で、その事に多大なるコンプレックスを持っていた。
寄せられる期待とそれに応えられない自分自身を持て余し、自暴自棄になっていたときに出会ったのが、保健医の母である籐子さんだった。籐子さんは、優しい言葉で宥める事も厳しい言葉で叱咤する事もなく、ただ黙ってごま塩親父の愚痴に耳を傾けた。期待に応えられない自分自身を嘆き、父に申し訳なさを抱き続けていたごま塩親父に籐子さんは
「そんなに無理に頑張らなくても、お父様はきっと全て分かっていらっしゃると思いますよ」
たった一言、そう言ったのだそうだ。そのひと言は、やさぐれかけていたごま塩親父の心に静かに響き、親父の熱烈猛アタックに負けたのかそれとも情に絆されたのかは分からないが、二人はめでたくゴールイン。
籐子さんの実家は将星学園の理事長の他にもいくつかの事業を興している実業家で、その支援もあり、胡桃沢の病院は地域では有名な大病院にまで成長した。と、そこまでは良かったのだが、ごま塩親父が浮気をした事から、円満な家庭はたった三年間で崩壊した。不倫の相手は地元の医療機器メーカーの役員の娘さんで、当時二十歳と言う若さで既にごま塩親父の子供を身篭っていた。
夫婦の間でどんな話し合いがあったのか、保健医は何も言わない。幼かった彼にその時の記憶があるはずもなく、幼子の目の前で修羅場を展開するほどご両親は愚かではなかったのだろう。
離婚はせずに籐子さんが保健医を連れて実家に戻り、不倫相手の女性が胡桃沢の家に入り子供を生み育てている。あくまでも愛人と言う地位のままで。
「母は離婚するつもりだったようですが、父が泣いて縋って止めたんだそうです。浮気をしても、母への愛情はあったようですね。それでも母は、身篭っている相手の方を放っておくなどと言う非情な事はさせないとばかりに、離婚届に強引に判を押させてそれを楯に家を出たらしいのですが」
つまり離婚しない条件として、身重の愛人を家に入れるように強引に要求したのは籐子さんで、ごま塩親父はそれに従っているのだと、そう言う事らしいのだ。 今も胡桃沢の家には愛人とその息子がいるそうで、当然だが息子は認知され、実子として育てられている。先程会った弟氏がそのご当人。それも全て籐子さんからの要求で、認知以外に関しては固辞していた愛人さんを、説得して納得させたのも籐子さんなのだそうだ。
「だから父の思惑など関係なく、母とあちらの女性は今では二人で遊びに出かけたりする仲なんです」
籐子さんにとっては、夫を取られた相手と言うよりはむしろ、年の離れた妹のように可愛くて仕方がないのだとか。そしてその息子に対しても、実の甥のように感じているらしい。
もう、絶句するしかない。
あんなにふわふわと嫋やかな籐子さんからは、とてもではないけれど想像もつかないではないか。
「あの母達に育てられた僕と弟ですから、正妻と愛人の子と言うよりも従兄弟同士のような感覚で付き合っていられます。それに関しては、素直に感謝しなければなりませんけれどね」
弟、と、保健医が言う。そんな複雑な家庭環境にあって、それでも弟と言える事に、少なからず驚嘆した。
今回の協力に関して、保健医の口から何度となく聞いていた「弟」の存在が、こんなに複雑なものとは知らなかった。本当に自然に身内の事を話す口調だったから。だからこそ「弟のために」と言う大義名分に協力しようと思ったのだけれど、どうやら「弟のために」の言葉には、わたしに知らされていない別の意味が含まれているようだ。
「ただ、父に対してだけは、今も愛情を感じる事などできないんです」
それは、無理もないと思う。母である籐子さんを裏切ったと言う事は、つまり息子である保健医をも裏切ったと言う事だ。進路に関してとことん横槍を入れようとされたり、誘拐まがいの事をされてまで家に連れ戻そうとして来た事も一度や二度ではないと聞けば、それが実の父親のする事かと第三者のわたしでも聞いていて腹が立って来る。
あのごま塩宇宙人は、妻子に対する行動まで、人間の常識から遠い事をしでかしていたのか。そうと知っていれば、遠慮などせずに、あの場で一発ぐらい殴ってやったのに。
「だから、言わなかったんですけれどね」
「は?」
「あなたの性格なら、きっとそうして怒ってくださるだろうと思ったんです。だからこそ、事情を話さずに協力していただこうと思っていたのですが」
なにを勝手な事を言っているのだ、この野郎は。手の内の一部しか明かさずに、恋人役などと言う茶番劇に協力させたくせに。一方的に目の前で、それこそ無理矢理に事情を悟らせておいたくせに。理事長と実母などと言う決定的な証人の登場を隠しておいて、逃げ道を塞いだくせに。ここまで人を引っ張り込んでおいてのその科白は、あまりにも卑怯すぎるではないか。
ごま塩宇宙人に対しての怒りが大きすぎてすっかり忘れていたけれど、この男に対しても怒っていたのだと言う事をようやく思い出した。両手の拳を握り締め、けれど理性で怒りを抑える。とりあえずこの間のような事にはならないようにしなければ、と自分を必死に宥めた。
「だったら、どうして今、それをわたしに話すんですか」
そう尋ねるわたしに、保健医は困ったようなそれでいて嬉しそうな、なんとも複雑な笑顔を浮かべる。
「着きましたよ」
その言葉に車の外を見てみると、なるほどわたしの家の前に着いていた。迂闊な事に、会話と思考に集中していたため周囲が見えていなかったのだ。
「ちょっと!」
引き止める間もなく、保健医は運転席側のドアを開けて外に降り立っていた。既に日は落ちきっていて、エアコンで温まっていた車内に一瞬だが真冬の風が吹き込み、その冷たさに小さく身震いした。
保健医がそのまま車の前を回って助手席側に来ると、外からドアを開けて降りるように促される。その気障ったらしい動作が妙に似合っていて、話をはぐらかされた事も合わせて余計に腹が立つ。
「次にお会いしたときに」
次?
「お話しします。あなたが知りたい事を全て」
流れるような動きでわたしの手を取り、自然なエスコートで車から下ろされた。どうやら運転席から離れる際に、シートベルトを外されていたらしい。そんな事にも気付かなかった自分自身に驚く。わたしは一体何に、それほど動揺していたと言うのか。
「次って、いつなの」
「あなたが望めば、きっとすぐですよ」
「わたしが?」
わたしが一体何を望むと言うのか。事の次第の説明の続きなのか、わたしの質問に対する答えなのか。それとも、他に望んでいる事があるとでも言うのか。
わたし自身が気付いていない事を知っているのだと言わんばかりに、男は余裕の微笑を浮かべている。けれどその眼は意外なほどに真っ直ぐで、とてもではないが逸らす事などできそうにはない。
夜目にもとてもきれいな色素の薄い眼に射竦められて身動きできないわたしは、それが次第に近付いて来ている事にも気がつかなかった。
「な、ななななな、なに、を!」
頬に生暖かいものを感じて我に返ったわたしが腕を振り上げた時には、既に保健医は身を翻していて。
「いやあ、あまりにあなたが可愛かったものですから」
いつもの胡散臭い笑顔を貼り付け、これ以上にないほどの胡散臭いセリフを吐き出してくれやがった。
振り上げた腕を下ろす事もできないわたしを笑いながら、保健医は運転席に体を滑り込ませている。
「では、また近いうちに」
せめて何か文句を言ってやろうと口を開いたままのわたしを残し、保健医を乗せた車は夜の闇の中に消えて行った。