第七話
開けっ放しの窓から、潮の匂いのする風がゆるゆると入ってくる。
ソファに身体を預けていた男は、左手に持っていた本をテーブルに乗せた。
日に焼けた浅黒い肌に、ざっくりと刈り上げた黒髪。
彼はトルカとリウと見て、笑う。
目元に深い皺が出来ると、驚くほど年齢不詳に見えた彼が相応に歳を重ねていることがわかった。
「『銀翼』の、こうして会うのは久しぶりじゃねえか。何だ、やっぱ母親似だな」
彼が腰を上げると、羽織っていた革のジャケットが少しだけ肩から落ちる。
右腕の肘から先がない。
「こーんな可愛い娘を放って、アイツもしょうがねぇ奴だな」
まるで姪っ子扱いだ。
トルカは満更でもないらしく「別にお母さんのことはいいでしょー」と言いつつ、くすぐったそうに微笑んだ。
「んで? そっちが例の彼氏さんか?」
「……リウ・ハーグウィルです」
勢いに飲まれて、彼氏じゃないと訂正し損ねた。
測量士は、「ふぅん」と唸って顎を撫でる。
「俺ぁ、ノーディスってもんだ。この辺りじゃ、測量士で通ってるがな」
「…………」
「んな固くなんな、とって食いやしねぇよ。こいつに怒られちまう」
彼はどっかりとソファに戻ると、ぞんざいに手招きをした。
「『銀翼』がわざわざここまで連れて来たんだ。とりあえず話くらいは聞いてやるよ」
「……ありがとう、ございます」
促されて、彼の正面のソファに腰を下ろす。
クッションが柔らかくて落ち着かない。
いつもなら当たり前に隣に座るはずのトルカは、何故か立ったまま動かない。
測量士が、彼女を見ていた。
「『銀翼』の、お前は外せ。これは俺とこいつの話だ」
「…………」
じゃあそういうことだから、とあっさり行ってしまうかと思ったのに、トルカは二の足を踏む。
「何だ、心配か?」
そうからかいながらも、測量士は言葉を撤回しなかった。
きっと彼女は当然同席するつもりでいたのだろう。
ここでリウを放り出す気はなかった、そういう途方に暮れた顔を、一瞬だけ見せた。
「トルカ、大丈夫。外で待ってて」
いてくれるに越したことはないけれど、それはただの甘えだ。
何だったら、さっきの出店なんかをゆっくり見てれば良い。
リウが敢えてのんびりそう言うと、彼女はようやく頷いた。
「あんまりリウを虐めないでね」
「そりゃあ、こいつ次第だな」
トルカは何か言いたげにリウを見る。
測量士は、傍観者。
こちらが噛みつかなければ、大丈夫。
忘れるな、と念押ししたかったのだろう。
結局「また後でね」と言って、部屋を出て行く。
「随分と気に入られてるな、お前」
測量士は感心したように言った。
「さて、俺もこう見えて忙しい身でな。簡単に、要求を聞こうか?」
そして、ほら、と手招く。
リウは自然と姿勢を正した。
アスティは、何も説明しなかった。
だから、リウのやり方で良いということだろう。
「二度目の海上抗争を防ぐために、『海竜』の海上鉄道乗っ取り計画を未然に潰すのが、僕たちの目的です。トルカの協力はあるけれど、それは、残念ながら十分じゃない。だから、貴方の力を借りたい」
「なるほど、単純明快だな」
測量士はソファの背凭れに身体を預ける。
「んで? お前もその『二度目の海上抗争を防ぐ』って話にのめり込んでる口か? そもそもエンドランドの人間でもねぇのに?」
「それは」
「測量士の情報網舐めるなよ?」
どうせ、この国の人間ではないから。
それは誰かに言われたことでもあり、リウ自身がどこかで言い訳にしてきた言葉でもあった。
喉元にナイフでも突きつけられたような気分だ。
どこまで見透かされているのだろうか。
「お前のとこの上司が、海上がりと手を組んでまで海上抗争を防ごうってのはわかる。二度目の海上抗争なんて誰も得しねぇ、内戦みたいなもんだからな」
海賊たちが海を追われた、一度目の海上抗争。
その戦いは、主に海が舞台だったという。
海上鉄道推進派と、それに反対する海賊たちの戦い。
けれど二度目は、どうだろう。
海上がりは二世代目が増え、海で生きている者などほとんどいない。
内戦。
言葉の通り、国土を血で穢す事態になるだろう。
「『銀翼』も同じだ。知ってるか? あれは元々海賊に対する護衛船団としての性格が強かった。だから基本が、『弱い奴らの味方』なんだよ。アイツは二世代目だし、まだガキだけどな、『銀翼』の本質を、良く理解してる」
だから、本来は敵であるはずの海上鉄道に協力している。
アスティもトルカも、この国で起こり得る悲劇を回避するために、絶対無理だと言われていた手を取ったのだ。
測量士はリウを射抜くように見る。
「俺も、この海で育った。海上鉄道への恨みは捨てちゃいないがな、もう一回連中と戦り合おうってのは正直馬鹿な話だと思うぜ? だから多少手を貸してやってもいいかと思ってる」
「じゃあ」
「いや、んでお前なんだよ。ただの緩衝材かと思ったら、たった半年で俺まで行き着きやがった。根っこに何もねぇはずなのにな」
芯のねぇ海月みたいな振りして、と彼は左手で顎の下を掻いた。
今のは、軽く貶められたのだろうか。
「だからお前の返事次第だな」
「はい?」
「俺が手を貸すか貸さないか。つまらねぇだろ? 仮にも測量士様がハイそーですか、って協力しちまったら」
いえ、全くそんなことは。
きりりと胃が痛んだ気がした。
目の前の彼は、酷く愉しそうに笑う。
「努力の甲斐なく二度目の海上抗争が起こっちまったら、リウ、お前はどうする?」
それが、問い。
全ては、リウの答え次第か。
いつものように少し考え込んでから、リウは諦めて息を吐いた。
班長、こういうことになるから、説明はちゃんとして欲しかったんです。
嘘は言っても無駄だろう。
だから、もう自棄だった。
「負けず嫌いだなんて言われたこともありますが、僕は、勝てない戦いはしない主義です」
それは訓練場通いでも叩き込まれた。
圧倒的な力量の差があったら、それを実戦で覆すのは極めて難しい。
無理だと思ったら、逃げる。
それは負けじゃない。
「だから実際海上抗争がもう一度起こってしまったら、多分、海上鉄道をやめて実家に逃げ帰ります」
堂々と言うと、測量士は呆けたようにぽかんと口を開けた。
格好悪いとは思うけれど、これが本心だ。
巻き込まれて死ぬのも、加担するのも、嫌だ。
頑張ってそれでも起こってしまって、もう止めることも出来ないのなら。
後は一目散に逃げるだけ。
「その時は、外の人間であることをせいぜい利用させてもらって、争いを望まない人たちを一緒に連れて行きます。難しいかもしれませんが、それこそ協力者がいれば不可能じゃない」
測量士は、は、と押し出すように息を吐いた。
嘲笑われたのかと思ったが、それは心底楽しそうな笑い声になる。
「あー、そうか、『銀翼』のも連れてか?」
「……トルカが、望むなら」
ついに、ぶは、と吹き出した彼は左手で腹を押さえ、僅かに身を捩った。
「はー、何だ、お前。大人しそうな顔して、面白い奴だな」
「……楽しんで頂けたのなら光栄ですけど。それで、どうなんですか?」
「ああ、そーだな。まあ、焦るなよ」
人に格好悪い本音を語らせた挙句、爆笑しておいて「焦るな」も何もないだろう。
測量士は唐突に、「おい」と声を張った。
呼びかけは、部屋の外に。
「いるんだろ、『銀翼』の。終わったから、入って来て良いぜ」
言って、そしてリウを見て、にぃと唇の端を上げた。
ひやりとした。
何故だ。
そんなことはしても意味がないし、する理由もないはず。
けれどそれは確信に似た、予感。
躊躇いなく開く扉。
測量士は左手をジャケットの下に突っ込んで、そして抜いた。
銃だ。
「――――ッ!」
その銃口は真っ直ぐ、開かれていく扉に向けられていた。




