第八話
妹を守ろうとしたのか。
突っ込んできた男の前に、シュウが飛び出す。
止めようとしたが、間に合わない。
男は顔色一つ変えずに、シュウの胸倉を掴んで軽々と投げた。
床を転がった少年はすぐに顔を上げる。
「……スー!」
男は彼を振り返りもしない。
狙いは、こちらだ。
トルカはぬいぐるみを持ったまま動かないスーを抱き締めた。
軽く拳を握り込んだ男が、強く一歩、踏み込む。
殴られる、と思った。
スーの頭を胸元に抱え込んで、トルカは身体を丸める。
お腹の辺りに、ぬいぐるみの感触。
相手に首筋を晒す恐怖は、一瞬遅れて襲って来た。
奥歯を噛んで、それを殺す。
来ると思った衝撃は、予想外の音に代わった。
ばり、と異質な音を立てたのは、窓。
男の拳が、二度、三度と窓を殴る。
細かく罅の入ったガラスが、耐え切れずに、割れた。
ふわりと、海風が入ってくる。
まさか、ここから逃げるつもりだろうか。
いくら都合良く列車が停まっているとは言え、ここは海の上。
線路を走って逃げるなんてことは、不可能に決まっている。
それとも、そんなことも判断出来ないほど、追い詰められているのか。
男が鬼気迫る表情で、トルカを見下ろす。
怯えたように、スーがひゅっと咽喉を鳴らした。
手が、伸びる。
「シュウくん!」
トルカは抱き締めていたスーを突き飛ばして、男の手首を掴んだ。
その一瞬の隙で、尻もちをついた妹をシュウが抱き上げる。
「早く」
逃げて、と言おうとしたトルカは、痛みに唇を噛む。
あっと言う間に手を捻り上げられた。
か細く悲鳴を上げたのは、スーだろうか。
もう片方の手で壊れそうなほど強く肩を押さえられて、流石に泣き言を言いたくなる。
私、こういうのは専門外なのに。
憂さ晴らしなのか、人質でも取ろうとしているのか。
ただそのどちらにしても、大人しくやられるのは御免だった。
専門外でも、抵抗くらいはする。
滅茶苦茶に振り払った手が相手の頬を思い切り張った。
揉み合いの最中。
何の弾みなのか、男が灰色の丸いものを掴む。
ぬいぐるみだ。
思わず手にしてしまったらしいそれを、男は何の躊躇もなく、窓の外に放る。
「……あ」
咄嗟に伸ばした手は、それを掴めない。
手の甲に、ちりと鋭い熱。
その些細な痛みを嘲笑うように、男はトルカの髪を掴んだ。
「ちょ……っ、痛ぁッ!」
じわりと視界が霞んだ。
もー、やだ。
突然悲鳴を上げたのは、トルカではなく男だった。
ぎゃ、と短い叫び声。
それと同時に痛みから解放される。
訳のわからないままその場に座り込むと、トルカは髪を押さえて顔を上げる。
不自然な体勢で崩れ落ちた男を床に押し付けたのは、リウだ。
速い呼吸で動いたせいだろう。
彼は肩で息をしている。
完全に動きを封じられて、男はすでに抵抗をやめていた。
それまでの気迫が嘘のように、しんとしている。
「先輩……。お願い、します」
息を整えながら、リウが言った。
一等客車から男を追って来たらしいセレンは茫然と立っていたが、彼の言葉で我に返ると流石手慣れた様子で男を拘束する。
それを見届けて、リウはトルカを見た。
「スーちゃんに、シュウくんは?」
何か言いかけていたリウが、やんわりとトルカの手を取った。
彼が少し身体をずらすと、乗降口の隅で身を寄せ合っている二人が見える。
ショックの抜けきらない顔をしているが、兄妹どちらも大した怪我はなさそうだ。
「あ、あー……、良かったぁ。スーちゃん、ごめんねぇ、突き飛ばしちゃって」
二人に駆け寄ろうと立ち上がったトルカを、リウが止める。
何、と聞く前から、怖い顔。
「君は、まず自分の心配をした方が、良いと思う」
「何で?」
リウが手に軽く力を入れた。
視線を落とすと、彼に握られた手の甲に血が滲んでいる。
きっと割れた窓で切ったのだろう。
「大丈夫だよ、これくらい」
「大丈夫って」
「そんなに痛くないもん」
「そういう問題じゃ……っ」
何でそんなに怒るの?
トルカは首を傾げた。
リウは苛立ちを逃がすように、重く息を吐く。
「……ごめん」
怒りたいのか、謝りたいのか。
リウ自身も戸惑っているように見えた。
「何で、リウが謝るの?」
この事態の多分八割くらいは、トルカの責任だ。
彼が謝ることなんてないのに。
それなのにリウは、強く首を振った。
「僕が、もっと早く来てれば」
「…………」
トルカは黙って、怪我をした手を引っ込めた。
リウは勘違いをしている。
トルカは海上がりで、彼が守るべき対象ではないのに。
それを指摘しようと口を開いた瞬間。
ぎしりと、何かが軋む音。
リウがほっと息を吐く。
穏やかな声の車内アナウンスが、運転再開を告げた。