第零話
本日はエンドランド海上鉄道をご利用頂きまして、誠に有難うございます。
この列車はレド島経由、海上線西回り。
次の停車駅は、カナルタ中央駅です。
なお、この先カナルタ中央駅までは、砂潮がはっきりとご覧頂ける海域です。
この時期しか見られないココルア鳥と砂潮、どうぞお楽しみ下さい。
本日はエンドランド海上鉄道をご利用頂きまして、誠に有難うございます。
まもなく、発車致します。
ご乗車になって、お待ち下さい。
抱えていた重い荷物を隣に置いて、男はふうと息を吐いた。
落ち着いた赤色の座席は、程よいスプリングで彼の体重を支える。
彼は自然と周囲を見渡した。
もう陽が落ちる時間だからだろう。
嫌味なほど品の良い車内に、客の姿はない。
ベッド付きの一等客車は予約客で一杯だろうが、一般客車はこんなものだ。
ぎし、と足元が軋む音がする。
それは不安を煽る音ではなく、どこか心地良い振動だった。
仄明るい駅を映していた窓が、ぱっとオレンジに輝く。
眼下に一瞬見えたハイリオンの港は、あっという間に見えなくなった。
海だ。
砂潮を見ろと言うには、少し時間が悪い。
ココルア鳥だって、もうとっくに巣へと帰った頃だろう。
夕陽に煌めく海面から、男は眼を逸らした。
ただ延々と海。
見ていて面白いものでもない。
自然と、置いた荷物の上に手をやる。
「あの」
澄んだ声に彼は顔を上げた。
荷物を引いて通路を歩いて来た少女が、切符を片手ににこっと笑う。
一瞬初歩的ミスでも犯したかと思ったが、そうではないらしい。
少女は男の向かいの席を指して、
「良いですか?」
と訊いた。
「ああ、どうぞ」
「ありがとうございます」
少し身体をずらしてやると、少女はするりと向かいに腰を下ろした。
黒のすとんとしたワンピースに、同じ色のベレー帽を被っている。
金糸で刺繍された校章には見覚えがあった。
確か東エドラ大陸にある女子学校だ。
少女は視線に気付くと、警戒心の欠片もなく微笑む。
「ごめんなさい。少しだけ、窓を開けても良いですか?」
「構わないよ」
鷹揚に頷いて見せると、彼女は嬉しそうにお礼を言う。
海上鉄道に乗るのは初めてなのだろうか。
赤みの強い茶色の瞳は、一心に海へと注がれている。
白く小さな手で窓を押し上げると、少女は大きな瞳をゆっくりと瞬かせた。
編み込んでお下げにしたココア色の毛先が、細い首元でふわふわと揺れる。
「学生さんかい?」
思わず声をかけたが、少女は驚きもせず頷いた。
「編入生なんです。春の試験では落ちちゃって、頑張って秋の編入試験を受けて、何とか」
「そうか。じゃあ、親元を離れて?」
「はい。ちょっと寂しいけど、一杯応援してもらってるから……、頑張らなきゃ」
少し肩を竦めた彼女は、引いて来た大きな荷物を見下ろす。
自然と結ばれた小さな唇は、濡れたように赤い。
まだ幼いが、雰囲気のある子だ。
「お兄さんは、お仕事ですか?」
「え、ああ。そうだよ」
彼女は「そっかぁ」と言って、また視線を車窓へとやった。
「たくさん海上鉄道に乗ってるんですか?」
「……そうだよ。私はもう飽きてしまったが、やはり面白いかな?」
「はい。だって、憧れでしたもん。エンドランド諸島連合の大動脈。いくつも島を繋ぐ海上鉄道なんて、この国にしかないですよね? 私、ずっと乗ってみたかったんです」
「流石は学生さん。良いことばかりじゃないが、そう言ってもらえれば海上鉄道も作った甲斐があるだろうね」
その言葉の裏に、少女が気付くとは思っていなかった。
エンドランドの出身なら当然知ってはいるだろうが、この年頃で未だ続く諍いに注視してはいないだろう。
構わない。
それで、良い。
彼女は名残惜しそうに開けていた窓を閉める。
砂潮か、或いは鳥を見たかったのかもしれない。
「海上がりのことですよね」
まさか、そこに食い下がって来るとは思わなかった。
呆けた男に、少女は真剣な顔をした。
赤い瞳に、強く意思の光が宿る。
「私、今の海上鉄道のやり方は、間違ってると思います。海上がりは確かに色々問題があるけど、だからって全部一緒に差別なんて、前時代的にも程がありますよ。お兄さんも、そう思いません?」
「あ、ああ。そうだね」
「それに、海上鉄道って運賃が馬鹿みたいに高いんだもん! それだけでやっぱり、庶民の敵ですよ。乗れるなら乗ってみろって言われてる気がして」
少女は熱っぽく語っていた自分にはっとして、恥ずかしそうに口元を押さえた。
男は思わず笑う。
面白い少女だ。
「お兄さんったら酷い。そんなに笑わなくても良いじゃないですか」
むっと怒った顔をした少女は、「あ」と突然ワンピースのポケットを押さえた。
取り出したのは、掌大の通信端末。
いや、随分前に流行った通信補助端末だ。
ここから通信があったと表示するだけの、玩具のようなもの。
「やだ、お兄ちゃんからだ」
小さなディスプレイを見て、少女は呆れたような、けれど嬉しそうな表情を浮かべた。
兄がいるのか。
道理で年上の男相手に尻込みしないはずだ。
男は先の車両を指差した。
「食堂車の前に通信機がある。馬鹿高い運賃を払った乗客は、無料で使わせてもらえるよ」
そう教えてやると、彼女はぱっと立ち上がった。
「そうなんですか? 私、ちょっと行って来ますね。あ、荷物」
「良いよ。見ていてあげよう」
少女の引いて来た荷物は、足元のスペースをほぼ埋めている。
親元を離れるのだから大荷物になるのは仕方がない。
この手の荷物を親切に預かってくれるのは、一等客車くらいだ。
「ありがとう。お兄さん、本当に良い人ですね」
彼女は友人に向けるような砕けた笑みを浮かべた。
目の前で翻ったワンピースの裾から、微かに甘い匂いがする。
それは嗅ぎ慣れた濃い香水とは違い、少し切なく胸の奥を波立たせた。
「…………」
たまには。
そう、たまには「良い人」を演じるのも悪くはない。
男は深く息を吸った。
自分には許されない普通の生き方に、少しだけ思いを馳せる。
あの少女のように学問に触れ、愛した女と所帯を持って、子どもを育てていたら。
それはきっと退屈で下らない、最高の生き方だっただろう。
そんな他愛ない人生を選ぶつもりはなかったが、元より「選べなかった」ことは、何故か腹立たしかった。
彼は眼を閉じて、ゆっくりと息を吐き出す。
いつの間にか、命より大事なはずの荷物から手を退かしていた。
「カグ・レンスラン。『海竜』の運び屋ですね」
鋭く響いた声に、男は弾かれたように腰を浮かせた。
射抜くように男を見下ろしていたのは、まだ幼さの残る少年だ。
それもたった一人。
ただ、鋼の色をした瞳には躊躇いも恐怖もない。
その濃紺の制服は、海上鉄道のもの。
そして見覚えのある赤い腕章は。
「くそ、摘発班か!?」
馬鹿な、ばれるはずがない。
何故。
少女の置いて行った大きな荷物が、脛に当たった。
隠し持っていたナイフで突破するには、場所が悪過ぎる。
いや、たとえ相手が一人でも、ここで見つかった時点で突破は無理だろう。
それなら。
男は咄嗟に大事な荷物をひったくると、窓に手をやった。
これを海上鉄道に渡す訳にはいかない。
渡すくらいなら、海へ。
少年が素早く手を伸ばす。
確かに開いたはずの窓は、びくともしなかった。
「……っ!」
その僅かな隙に少年に手首を取られ、押さえつけられる。
憎しみに歪んだ男の顔が、一瞬窓に映った。
「ちくしょう! お前らに何がわかるッ! 今に見てろ、必ず、後悔させてやるからなッ!」
その言葉に怯んだ様子もなく、少年は胸元の通信端末に手をやった。
「拘束完了」
馬鹿な。
『海竜』の運び屋である自分が、海上鉄道なんかに。
託された荷物を少年が取り上げる。
男は信じられない思いで、それを見ていた。
詰まったような咽喉の奥から、知らず咆哮が漏れた。
エンドランド海上鉄道。
意にそぐわぬものを頑なに拒絶する、非情な箱舟列車。
どんな手を使ってでも、必ず、潰してやる。