05.宗教と政治、そして結論
最後に、このテーマを。
「念佛宗無量壽寺の『仏教之王堂』には、世界の仏教指導者たちが挙って分骨している。また、それぞれの紋章を刻んだ仏像を納め、それぞれの国の言語で書かれた経典を奉納している。
もし念佛宗が胡乱な宗派であるのなら、これらの方々がこれほどのことをしただろうか?」
念佛宗は、日本仏教界では正体不明の新興宗教とされている。
しかし世界的に見れば、それは確固たる地位を築いた、仏教の一宗派である。
『仏教之王堂』の落慶には、タイ王国にて人間国宝とされ、国外に出ることさえ禁じられていた大僧正猊下がそれを祝う為だけに来日し、またその死に際し、タイ王国では国葬となったのだが、御遺言でその骨が日本の無量壽寺に分骨されることが報じられた(正確には、「無量壽寺」という名称は出されなかった。しかし、伝手を頼ってそのことを知り、のちに無量壽寺に参詣に来られた上座部仏教の最高指導者級の人は少なくないという)。
つまり、仏教外交としてはとても素晴らしい成果を上げており、ある意味全日本仏教会では真似することも出来ない結果を出しているのだ。
けど。なら、何故「古き釈尊の教えを保っている」ことを標榜する?
何故「最新故に最高の仏教宗派である」ことを誇らない?
どんな団体も、どんな組織も。
分派し、新生するときは。大抵旧来の組織が爛熟し、腐敗を始めた時である。
「もう一度、原点に帰ろう」。そう思った純粋な人たちが、権威や因習に執着している老害を横目で見ながら、新しい団体を立ち上げるのである。
新しく生まれることは、誇るべきことなのだ。
「仏教之王堂」に参詣する各国仏教指導者たちは、念佛宗が最も古く最も正統な宗派だからではない。最も新しくそれ故最も純粋な宗派と評価したからであろう。
国家にも、歴史にも、因縁にも縛られない。
如何なる柵もない宗派だからこそ、それを尊重するのだ。
少なくとも、太陽を直視出来るようになるとか、死後身体が金色に光るからとか。
そんな理由で念佛宗を評価する指導者は、一人としていない筈だ。
◇◆◇
そう考えた時。念佛宗は、宗教法人であること自体が間違いなのではないかと思う。
NPO(非営利活動法人)、または公益社団法人。
その形で組織し、ただ仏教サミットの主催と、『仏教之王堂』の維持管理。
即ち、日本のみならず世界の仏教の精髄の収集・保管。
つまり、「教え導く」のではなく、「守り残す」ことを目的とした組織であったのなら。
曇りなく、世界中から(そして日本国内からも)尊敬の念を集めることが出来ただろう。
或いは。
「方便」として、宗教団体の表情を持っても良いだろう。
けど、実態は文化財団として、人類最高と謂われる釈尊の智慧・法を後世に伝える。
そんな組織であれば良かったのに。
◇◆◇
昔は、門前で三日入門を願い、更に同じ説法を七度聴かされ、その上で法を渡されたという。
念佛宗は、それを二日(実質半日)で済ませられる。
これは、法主の力、というよりも、単純に「安売りしている」だけと捉えたら、これは誹謗に当たろうか?
カネで買える得度など、どれほどの価値があるだろう?
そして、私は「救われたい」と思って無量壽寺に来た訳ではない。そもそも行先が無量壽寺だということさえ知らなかったし。
私は、救われることを望んでいない。何故なら、自身を責め苛む、「苦しみの源」をまだ見出せてもいないのだから。
何が辛く苦しいのかさえ分からないのに、首を振り、頭を叩いて「ヨシ! これで貴方は救われた!」と言われても。
昔から、学究の徒が宗教に転ぶ確率は高い。
なかなか答えの出ない問いに嫌気が差し、神や仏に救いを求めるのだろう。
実際オーム真理教の幹部にインテリが多くいたのは周知のことだし。
そして、釈尊も。六年の苦行の最中に、何度も悪魔が囁いたという。「こんなことをしても無駄だ。もう止めよう」と。後に、釈尊自身が「ただ身体を苛め抜いただけで、何ら得る物はなかった」と述懐したその苦行だが、それを止めるきっかけは悪魔の囁きではなく、乙女の乳粥だった。
釈尊自身は「何の意味もなかった」といった苦行だが、しかしそれがあったからこそ、一杯の乳粥と明けの明星の輝きで、お悟りを開くことが出来たのだ。
けれど、おそらくオームなどのカルトに走ったインテリたちは、文字通り「悪魔の囁き」に縋ってしまったのだろう。
では、私は?
もしかしたら。我を張った挙句に見出すモノは、導師様の「ヨシ!」の一声なのかもしれない。だとしたら、私は無意味な大回りをしていることになるのだろう。けれど、今の私にとって念佛宗は、その「大回り」を止める“乳粥”の滋味はない。カルトに走る“悪魔の囁き”程の力強さもない。
ほら、ヨーロッパであるでしょう?
馬に乗って、プラスチックの剣を振り回し、張りぼての竜を斃したら、お城の奥から冠と白鬚で飾った男性が肩を剣で叩いて、「汝、騎士たれ」と言い、あとで「はい、これで貴方は騎士の称号を得ました。はい、これが証明書です」というアトラクション。
私にとって、念佛宗は。無量壽寺『仏教之王堂』参詣は。
その程度のモノだった。
◇◆◇
少なくとも私は、念佛宗の“正法”を、真正面から大々的に誹謗している。
だから、無量壽寺で救われる資格はないだろう。
ところで、導師様。
貴方は仰いましたよね?
「自分は、命がけで貴方たちを救う。救えないのなら腹を切る」と。
ここに、救われることを望んでいない人間がいます。
貴方に救われることを拒絶した人間がいます。
貴方の説法では救われなかった人間がいます。
貴方の説法を聞きながら、その上で正法を誹謗した人間がいます。
正法誹謗の罪。
それは、誹謗した者だけでなく、誹謗させた者も同罪だと言います。
なら、導師様。貴方もその罪に該当するのでは?
(ご同行の方は、私が今に至る因縁――過去から現在に至るまでの知識――の時点で既に正法を誹謗していたことは知りませんでしたから、彼が私に正法を誹謗させたことには当たりません。万一私を無量壽寺に連れて行ったことがそれに該当するというのなら、その原因は念佛宗の秘密主義にあるでしょう。全てを知っていたら、事前に断りを入れたでしょうから。けれど、導師様の説法・儀式。それ自体が私に正法を誹謗させているのですから、導師様は間違いなくそれに該当します)
(2,670文字:2016/08/17初稿)