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04.説法と理論

 私は、念佛宗の説法を聴くとき、その全てを受け入れるつもりで聞いた。

 全てを肯定するつもりで身体を傾け、しかしどうしても肯定出来ないものがあったのなら。

 後は何をどのように努力しようと、それを受け入れることは出来ない。


 だから、私は念佛宗と(たもと)を分かった。


 では、その説法を否定的な視点で聴いたなら、どうなるだろう?


◇◆◇


 最初に、「念佛宗は日本で14番目に公認された仏教の宗派」という言葉。

 これ、真っ赤な(うそ)である。

 彼らは、わざわざ(権威付けの為?)「文部科学省文化庁が公認した」等という枕詞までつけてきたが、文化庁がするのは『宗教法人の認可』であり、その宗派の正統性の公認などはしない。

 そして、念佛宗は「仏教の宗派が協力して何かをしたという事実はない」と言っているが、少なくとも日本には「公益社団法人 全日本仏教会」というものが既に存在しており、日本の「十三宗五十四派」(現在は59派)と36の都道府県仏教会・10の仏教団体が参加している。また世界仏教徒連盟という団体もあり、こちらは日本を含む170の地域・国家の仏教宗派が参加しており、全日本仏教会からは最高顧問をはじめ役員・委員を派遣している。

 一方で念佛宗は、少なくとも全日本仏教会から「十四番目の宗派である」との公認はなく(それどころか正体不明の新興宗教と看做されているらしい)、あくまでも【自称】に過ぎないということだ。


 また、「念佛宗は、他宗教他宗派を誹謗(ひぼう)しない」という言葉。

 しかし、説法の中で「この宗派は法が途絶えた」とか、「この宗派は葬式仏教に過ぎない」とかと言っていたが、これは誹謗中傷に当たらないの?

 そして、(比叡山の焼き討ちなどにより)法灯が在家に隠されたことを指して「法が途絶えた」というのなら。

 念佛宗は1979年に認証され、その歴史はたった37年しかない。それ以前は「在家だった」と主張するが、「法が在家にある」ことを以て「途絶えた」と言うのなら。念佛宗は2,500年間ずっと途絶え続けていたことになる。それこそ新興宗教である何よりの証ではないか?


 ちなみに。既に述べたが私の菩提寺は臨済宗である。だから特段反論させてもらう。

 「臨済宗は葬式仏教」。そう言ったが、それはある意味仕方のないことだ。

 臨済、というより禅宗は、死後の救済の為ではなく、その(せい)の在り方を論じているのだから。

 しかし、日本の仏教は(死者を「仏さん」と呼ぶように)どうしても葬式と無縁ではいられない。だからこそ、むしろ死後の救済を「方便」として、安らかに送れるようにそれを説法するのだ。その点葬送が儀式化してしまうのも、(むべ)なるかな。


 念佛宗の説法でも触れていたが、臨済宗の一休禅師(臨済宗大徳寺派の僧侶、一休宗純)が、生前説法を聞こうとしなかった頑固親父に引導を渡してくれと頼まれたとき、「死んでから引導を渡して何の意味がある。生きているうちにこそ必要だったのに」と、その頑固親父の遺体を殴りながら言ったという説話がある。

 念佛宗の説法では、「地獄に落ちてから御浄土に行けないことを嘆いても仕方がない。生きているうちに地獄に落ちない方法、つまり阿弥陀様の救済を得なければいけないんだ」と言っていたが、違う。

 「生き方を説く」禅宗の僧侶にとって、頑固親父は死ぬまでその説法を聞かなかった。それが悲しかったのだ。


◇◆◇


 儀式。

 私は実は、仏間に入るとき、なるべく呼吸を浅くし、そして小さく呼吸することに努めた。

 一番恐れたのは、「(こう)(かお)り」だ。

 最初から最後まで呼吸を止めることは、事実上不可能。仮にそれを試みても、「南無阿弥陀仏」を唱えるときには呼吸せざるを得ないから。

 だから小さく、浅く、少なく。それでいながら呼吸に集中し、異変が生じたら自覚出来るように。同時に呼吸に意識することで、その雰囲気に呑まれず確固たる自意識を保ち続けることが出来る。これは、座禅に於ける「数息観(すうそくかん)」(自身の呼吸を数えることで、瞑想に入る方法)の応用でもある。

 香の薫りには敏感に。特に、阿片(アヘン)(ヘロイン)系の薫りには要注意。……流石にそれは、杞憂だったようだが。


 暗い部屋。満ちた香の薫りと煙。一定の抑揚の念仏。そして意味不明な儀式。

 これ、集団洗脳の定型なんです。


 視覚と、嗅覚と、聴覚を封じ(飲食する訳ではないから味覚はこの場合関係ない)。

 導師と(てのひら)を合わせることで全ての感覚を掌の触覚に集中させ、共に儀式を行うことで一体感を醸し出す。

 「首振りの儀式」もそうだ。大きく、そして連続して首を振れば、人間思考を続けられなくなる。頭の中が真っ白になったタイミングで「ヨシ!」と声を掛けられれば、悩みが断ち切られたような錯覚に陥る(実際断ち切られたのは思考)。その首振りの際に(ひたい)をクッションにぶつけ、また導師が額に触れ、更に額に息を吹きかけたりすることで、額に何か特別なものが生じたように思えてしまう。

 それを「白毫(びゃくごう)(額にあるという第三の目)が開いた」と言われると、そういうものかと納得してしまう。


 そして、目に見える奇跡と、その奇跡を得たという人の、成功体験。

 それを実感すれば、ほら、貴方ももう死後の地獄を恐れずに済むんです!


 ……まんま、詐欺団体の(あお)り文句ですね。


◇◆◇


 その仏間の儀式の中に「四方拝(しほうはい)」があった。

 確かに、神道は聖徳太子の時代に生まれた、仏教の派生宗教ということが出来る。

 そして明治政府の神仏習合で、仏教は一旦神道に習合された。

 だから、神道の神社に仏教の(しるし)を見たとしても不思議ではないし、仏教の儀式で神道の神の名を唱えることもあるだろう。


 だけど、念佛宗は『一切経』(お釈迦様の教え、そのオリジナルを納めた経)を原典とし、「そこから一歩も出ない」と言っていたではありませんか。

 『一切経』のどこに、天照大神だの、八幡大菩薩だの、春日大明神だのの名前が記されているのですか?

 そもそも、四方拝のやり方自体、間違っています。ただ四方それぞれを向いて拝めば良いという訳ではありません。

 ちなみに、念佛宗では「聖徳太子が釈尊の直接の後継者」と断じていますが、それを踏まえても聖徳太子の時代、四方拝はなく、また春日大明神は存在していません(春日大明神は神様の名前ではなく、薬師如来や地蔵菩薩などを祀る春日大社それ自体のこと)。


 この「四方拝」。これもまた、新興宗教の特徴の一つである。

 つまり、仏教各宗派と神道、権威のある教義や儀式のパッチワーク。


 しかしそれぞれの教養が浅い為、どうしてもガラクタ臭がしてしまう。

 それでいながら、「釈尊の教えの精髄を集める」と言ってしまうから、そこに大きな矛盾が生まれるのです。

(2,775文字:2016/08/17初稿)

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