03.宗教と科学
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宗教の宿敵は、科学である。
何故なら、宗教の神秘・奇跡を科学で否定することは出来るが、
科学の理論を宗教の説法で否定することは出来ないからである。
科学の理論を否定出来るのは、また別の科学の理論だけ。だから、その奇跡に対し(こじつけであれ)科学的解釈を試みることに成功した時。その奇跡は大掛かりな奇術に堕することになる。
聖は俗に下り、それに伴い有り難い御説法も詐欺の便法になる。
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念佛宗で謳った奇跡、「日想観」と「身心観」。これを、「Sun-gazing」(太陽凝視)という名称と「ブルーフィールド内視現象」という科学的な知識で知っていた時。
その奇跡に頼った念佛宗という宗派は、ただの怪しい新興宗教に堕するのだ。
サンゲイジング。これは奇跡ではなく、一種の健康法である。
やり方は簡単。
まず目を瞑ってそのまま太陽の方を見る(30秒程度)。
次いで、薄目を開けて、太陽の近くを見る(その時、絶対に直視してはならない)。
すると、そのうち恰も焦点があったかのように、鮮明に太陽を見ることが出来るようになるのだ。そうなったらあとは、薄目で見るという努力も必要ない。普通にそのまま見て構わない。
太陽を直視すると、1秒未満で網膜が焼かれ失明する。だからこそ、「日想観」は「観音菩薩様の徳が身に宿ったからこその奇跡」と言われるのだ。
では、何故サンゲイジングでは目が焼かれない?
答えは簡単。「見ていない」からである。
光学カメラで、ピンボケの写真を撮った時。
1枚のピンボケ写真をコンピューターで処理した時、一枚の鮮明な映像を描き出すことが出来るだろうか?
まず、難しいだろう。
では、もし100枚のピンボケ写真をコンピューターで合成処理した時、一枚の鮮明な映像を描き出すことは出来るだろうか?
これは、可能である。
つまり「サンゲイジング」とは、肉眼で太陽を直視しているのではない。
焦点をずらした太陽の映像を脳裏(記憶)に重ねることで、鮮明な映像に合成しているのだ。
宗教的な表現をするのなら「心で太陽を見ている」、人体科学的な表現をするのなら「記憶からイメージを描き出している」。それが「サンゲイジング」であり、「日想観」の正体なのだ。
「否。日想観とサンゲイジングは別物だ」
念佛宗の方ならば。そう答えるかもしれない。実際、わざわざ無量壽寺には眼科医の信者さんが来て、日光直視の危険を医学的に説明してくださった。その説明の中で「サンゲイジング」に触れなかったことこそが、不信を増幅したのだが(眼科医がサンゲイジングを知らない筈がない)。
実際、「日食網膜症」の説明はあった。部分日食や金環日食に際して、日食で太陽光が弱まっているから大丈夫、と太陽を直視した結果、網膜が焼かれ、最悪失明してしまう病気である。「だから太陽を直視することは普通ならしてはいけないけど、日想観を得た君たちなら大丈夫なんだ」と説明していたが、何故「日食網膜症」であって「日光網膜症」ではないのか、その説明はなかった。
人は、日常でも太陽を見ることがある。が、「太陽を直視しては危険」というのは常識以前の本能のレベルで理解している。だから、「直視しているつもりでも、目の焦点は太陽に合っていない」のだ。
しかし、日食の時。これだけ光が弱まっているのなら大丈夫。そういう油断から、目の焦点を太陽に合わせてしまう。だから、網膜が焼かれるのである。
この事実を知っていれば。この説明があれば。
「俺たちがやっている日想観ってのは、実は太陽を見ていないんじゃね?」という疑問が生じるだろう。
その上でなお。
日想観とサンゲイジングは別物だ。
そういうのであれば、その人に課題を出そう。
「今日の観音様の顔に、八咫烏は何羽止まっていた?」
八咫烏。天照皇大神の使神であり、「夕日の中に棲むカラス」。この正体は、太陽黒点である。
また、日中の太陽の見かけの大きさは、直径1.8cm程度と謂われる。
直径1.8cmあれば、大きめの黒点なら理論上観測出来る筈なのだ。
しかし、黒点を肉眼で観測出来るのは、夕日の中だけ。だからこそ、八咫烏は夕日の中にしか棲まないのである。
もし、「日想観」で太陽黒点を目視出来ないのであれば。
それは、光学的な意味で太陽を直視していないことになる。
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ブルーフィールド内視現象。これも眼科的にはポピュラーな現象である。
近い位置に目の焦点を合わせたまま青空などを見ると、無数の光の粒が踊るように舞うのが見える(詳細はWikipedia他の解説ページを参照してください)。これも特に異常なことではなく、誰でもが出来ることだ。
念佛宗の眼科医は、「飛蚊症」の説明はしたが、ブルーフィールド内視現象の説明はなかった。しかし。科学的考察を以てその奇跡を説明したいのなら、この説明を避けるのは卑怯だろう。
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宗教の敵は科学。
その「科学で説明出来ないこと」であるのだから、これは奇跡なのだ。
それが、念佛宗の理屈。しかし。
「科学で説明出来ることを、しない」ことで、科学を知らない人たちを誤魔化すのなら。
それは歴とした「似非宗教」ということになる。
言い換えれば。「ただの詐欺」。
この二つの実証を以て、私は念佛宗を決定づけたのである。
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念佛宗で謳った三つの奇跡のうち、証が目に見える形で顕れなかったものがある。
「水想観」である。
これは、「真如実相を拝ませ給え」と唱えるのだが、「真如」とは仏のことであり、また仏性(ある宗派は「本当の自分」と解釈する)のことだ。つまり、「真実の自分の本当の姿を見せてくれ」と願っていることになる。
そこに何が見える? 何か見える?
見えるのなら、それは間違いなく、信仰の顕れだろう。
もし。「日想観」と「身心観」も、「水想観」と同じく証が目に見えないものであれば。
私は、もう少し念佛宗のことを違った目線で見れたかもしれない。
ちなみに、別院でアフターフォローの講義で聞かされた、御遺体に現れる奇跡。こちらも詐欺と言わざるを得ない。
死後硬直は解けるものだし、また薬品で死後硬直の始まりを遅らせることも出来る。
御遺体の体が金色に光るというのも、主観の問題だ。私も写真を見たが、私の目にはただの黄土色の肌にしか見えなかった。
御遺体から臭いがするのは、死臭以外の何物でもない。それが芳しい薫りなのか、くさい臭いなのかは、これも主観の問題だ。人によってはクサヤの干物だって「良い香り」なのだし、そもそも死臭は科学的には400以上の揮発性有機物に起因する為、甘く臭うこともあるのだという。
そして、成仏相。
これは仏教用語で、(地獄に落ちることなく)御浄土に昇れることが出来る安心感から、穏やかな表情で死に逝くのだという。
念佛宗では「成仏相」という言葉は使わなかったが、私の祖母の死に顔もまた「成仏相」であると確信出来る。
祖母は、特段の信仰を持っていなかった。けれど、成仏に至れた。
なら。
これは、間違いなく「特定宗教の奇跡」ではない。その筈がない。
誰でも出来ること。誰の身にも起こることを指して『奇跡』と呼ぶ。
これを、「詐欺」というのですよ、念佛宗さん。
(3,014文字:2016/08/17初稿)