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03.宗教と科学

☆★☆ ★☆★


 宗教の宿敵は、科学である。

 何故なら、宗教の神秘・奇跡を科学で否定することは出来るが、

 科学の理論を宗教の説法で否定することは出来ないからである。

 科学の理論を否定出来るのは、また別の科学の理論だけ。だから、その奇跡に対し(こじつけであれ)科学的解釈を試みることに成功した時。その奇跡は大掛かりな奇術に堕することになる。

 聖は俗に下り、それに伴い有り難い御説法も詐欺(さぎ)の便法になる。


★☆★ ☆★☆


 念佛宗で(うた)った奇跡、「日想観」と「身心観」。これを、「Sun-gazing」(太陽(サン)凝視(ゲイジング))という名称と「ブルーフィールド内視現象」という科学的な知識で知っていた時。

 その奇跡に頼った念佛宗という宗派は、ただの怪しい新興宗教に堕するのだ。


 サンゲイジング。これは奇跡ではなく、一種の健康法である。

 やり方は簡単。

 まず目を(つぶ)ってそのまま太陽の方を見る(30秒程度)。

 次いで、薄目を開けて、太陽の近くを見る(その時、絶対に直視してはならない)。

 すると、そのうち(あたか)も焦点があったかのように、鮮明に太陽を見ることが出来るようになるのだ。そうなったらあとは、薄目で見るという努力も必要ない。普通にそのまま見て構わない。


 太陽を直視すると、1秒未満で網膜が焼かれ失明する。だからこそ、「日想観」は「観音菩薩様の徳が身に宿ったからこその奇跡」と言われるのだ。

 では、何故サンゲイジングでは目が焼かれない?


 答えは簡単。「見ていない」からである。

 光学カメラで、ピンボケの写真を撮った時。

 1枚のピンボケ写真をコンピューターで処理した時、一枚の鮮明な映像を描き出すことが出来るだろうか?

 まず、難しいだろう。

 では、もし100枚のピンボケ写真をコンピューターで合成処理した時、一枚の鮮明な映像を描き出すことは出来るだろうか?

 これは、可能である。


 つまり「サンゲイジング」とは、肉眼で太陽を直視しているのではない。

 焦点をずらした太陽の映像を脳裏(記憶)に重ねることで、鮮明な映像に合成しているのだ。

 宗教的な表現をするのなら「心で太陽を見ている」、人体科学的な表現をするのなら「記憶からイメージを描き出している」。それが「サンゲイジング」であり、「日想観」の正体なのだ。


 「否。日想観とサンゲイジングは別物だ」


 念佛宗の方ならば。そう答えるかもしれない。実際、わざわざ無量壽寺には眼科医の信者さんが来て、日光直視の危険を医学的に説明してくださった。その説明の中で「サンゲイジング」に触れなかったことこそが、不信を増幅したのだが(眼科医がサンゲイジングを知らない筈がない)。

 実際、「日食網膜症」の説明はあった。部分日食や金環日食に際して、日食で太陽光が弱まっているから大丈夫、と太陽を直視した結果、網膜が焼かれ、最悪失明してしまう病気である。「だから太陽を直視することは普通ならしてはいけないけど、日想観を得た君たちなら大丈夫なんだ」と説明していたが、何故「日食網膜症」であって「日光網膜症」ではないのか、その説明はなかった。


 人は、日常でも太陽を見ることがある。が、「太陽を直視しては危険」というのは常識以前の本能のレベルで理解している。だから、「直視しているつもりでも、目の焦点は太陽に合っていない」のだ。

 しかし、日食の時。これだけ光が弱まっているのなら大丈夫。そういう油断から、目の焦点を太陽に合わせてしまう。だから、網膜が焼かれるのである。


 この事実を知っていれば。この説明があれば。

 「俺たちがやっている日想観ってのは、実は太陽を見ていないんじゃね?」という疑問が生じるだろう。


 その上でなお。

 日想観とサンゲイジングは別物だ。

 そういうのであれば、その人に課題を出そう。


「今日の観音様の(かんばせ)に、八咫(やた)(がらす)は何羽止まっていた?」


 八咫烏。天照皇大神の使神(みさきがみ)であり、「夕日の中に棲むカラス」。この正体は、太陽黒点である。

 また、日中の太陽の見かけの大きさは、直径1.8cm程度と謂われる。

 直径1.8cmあれば、大きめの黒点なら理論上観測出来る筈なのだ。


 しかし、黒点を肉眼で観測出来るのは、夕日の中だけ。だからこそ、八咫烏は夕日の中にしか棲まないのである。


 もし、「日想観」で太陽黒点(ヤタガラス)を目視出来ないのであれば。

 それは、光学的な意味で太陽を直視していないことになる。


◇◆◇


 ブルーフィールド内視現象。これも眼科的にはポピュラーな現象である。

 近い位置に目の焦点を合わせたまま青空などを見ると、無数の光の粒が踊るように舞うのが見える(詳細はWikipedia他の解説ページを参照してください)。これも特に異常なことではなく、誰でもが出来ることだ。


 念佛宗の眼科医は、「飛蚊(ひぶん)症」の説明はしたが、ブルーフィールド内視現象の説明はなかった。しかし。科学的考察を以てその奇跡を説明したいのなら、この説明を避けるのは卑怯だろう。


◇◆◇


 宗教の敵は科学。

 その「科学で説明出来ないこと」であるのだから、これは奇跡なのだ。

 それが、念佛宗の理屈。しかし。


 「科学で説明出来ることを、しない」ことで、科学を知らない人たちを誤魔化すのなら。

 それは(れっき)とした「似非(エセ)宗教」ということになる。


 言い換えれば。「ただの詐欺」。


 この二つの実証を以て、私は念佛宗を決定づけたのである。


◇◆◇


 念佛宗で謳った三つの奇跡のうち、(あかし)が目に見える形で顕れなかったものがある。


 「水想観」である。


 これは、「真如(しんにょ)実相(じっそう)(おが)ませ(たま)え」と唱えるのだが、「真如」とは仏のことであり、また仏性(ある宗派は「本当の自分」と解釈する)のことだ。つまり、「真実の自分の本当の姿を見せてくれ」と願っていることになる。

 そこに何が見える? 何か見える?

 見えるのなら、それは間違いなく、信仰の顕れだろう。


 もし。「日想観」と「身心観」も、「水想観」と同じく証が目に見えないものであれば。

 私は、もう少し念佛宗のことを違った目線で見れたかもしれない。


 ちなみに、別院でアフターフォローの講義で聞かされた、御遺体に現れる奇跡。こちらも詐欺と言わざるを得ない。

 死後硬直は解けるものだし、また薬品で死後硬直の始まりを遅らせることも出来る。

 御遺体の体が金色に光るというのも、主観の問題だ。私も写真を見たが、私の目にはただの黄土色の肌にしか見えなかった。

 御遺体から臭いがするのは、死臭以外の何物でもない。それが(かぐわ)しい薫りなのか、くさい臭いなのかは、これも主観の問題だ。人によってはクサヤの干物だって「良い香り」なのだし、そもそも死臭は科学的には400以上の揮発性有機物に起因する為、甘く臭うこともあるのだという。


 そして、成仏相。

 これは仏教用語で、(地獄に落ちることなく)御浄土に昇れることが出来る安心感から、穏やかな表情で死に逝くのだという。

 念佛宗では「成仏相」という言葉は使わなかったが、私の祖母の死に顔もまた「成仏相」であると確信出来る。


 祖母は、特段の信仰を持っていなかった。けれど、成仏に至れた。

 なら。

 これは、間違いなく「特定宗教の奇跡」ではない。その筈がない。


 誰でも出来ること。誰の身にも起こることを指して『奇跡』と呼ぶ。

 これを、「詐欺」というのですよ、念佛宗さん。

(3,014文字:2016/08/17初稿)

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