02.念佛宗
2016年8月初め。
私はその人(念佛宗では初心の人に同伴する人のことを「御同行」という)に連れられ、念佛宗無量壽寺を訪れた。
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念佛宗とは、日本仏教会で14番目の、正当な仏教の宗派なのだという。
そして、その他の宗派では途絶えてしまった法(善知識、という名称を使う)を保った唯一の宗派なのだそうだ。
その経典は『一切経』。お釈迦様の経典の全て、だという。
けれど、本山の名称にも由来する『無量寿経』『観無量寿経』が中心に置かれている(注:「無量壽(無量寿)」とは、阿弥陀如来の別称)。
そして、「東方漸進」(だんだんと東方へと至る、の意)。
お釈迦様は、そう告げたのだという。そして、その言葉の通りお釈迦様の正統な後継が聖徳太子であり、その教えを正しく受け継いでいるのが念佛宗なのだという。
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私たちは、無量壽寺でまず、仏陀の生涯から仏教の伝来などを学び、それから念佛宗の取り組みについてを学んだ。
仏教は、日本で正当とされるのが(念佛宗を除いて)13宗(法相宗、華厳宗、律宗、天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、臨済宗、浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗、時宗、黄檗宗)あり、一般に「十三宗五十四派」と言われるほど分派している。それ以外(真如苑や創価学会など)を含めると、100とも200ともいわれている。
また世界でも、大乗仏教、上座部仏教、チベット仏教などが大きな流れとして、更に各国諸派で分派している。
しかし、これらは一度として協調した活動をしたことが無く、結果キリスト教やイスラム教などに比べて仏教は世界的に委縮しているというのが現状である。
この状況を何とかしようと、念佛宗が「世界仏教サミット」を開催し、2014年の第六回のサミットでは41ヶ国の仏教指導者や仏教国の国王陛下などが無量壽寺の「仏教之王堂」に集まったという。そして、上座部仏教の大僧正級の人物が、自身の遺言に、ここに分骨するよう記したのだとか。
イスラム教のメッカ、キリスト教のエルサレム、そういった宗教の聖地は、仏教にはない。お釈迦様が生まれた場所、修行した場所、悟りを開いた場所、入滅(永眠)した場所、等が聖地と看做されているが、現在そこの管理をしているのはヒンズー教徒であり、贔屓目に見ても荒廃しているのだという。
だからこそ、改めて「仏教の聖地」を作り、そして世界各国の仏教指導者が死後自身の骨をそこに分骨することを希望した。結果として、無量壽寺「仏教之王堂」は、仏教外交の一つの成功例として記録されるだろう。
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講義の後、私たちは白装束に着替え、作法に入った。
ここではまず、「絶対に口外しません」との誓約をさせられる(注:このエッセイは、この誓約に反した内容です)。これは『無量寿経』第十八願に由来する。
《 設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法 》
これがその原文なのだが、最後の「唯除五逆誹謗正法」、即ち「五逆の罪と正法誹謗の罪を犯したものを除く」と訳され、これらの罪が仏教に於いて最も重い罪とされる。
「五逆の罪」とは、「父殺し」「母殺し」「師殺し」「僧(同僚)殺し」「教団の和を乱すこと」の五つ(「殺す」とは、物理的なものに留まらず、精神的・理念的に傷付けることも含まれる)、「正法誹謗の罪」とは、仏教を否定し、またその秘密を暴くことを指すと一般には言われる。仏教の教団、その「お裏の法」(秘儀、奥義等と呼ばれるもの)を、信者ならざる者が覗き見る、或いはその者たちに見せてしまうこと。それだけで「正法誹謗の罪」に該当し、死後御浄土に行けなくなるのだ。
ともかく、誓約の後、私たち(初めて無量壽寺に来た者たち)は、導師のもとに連れられる。
この際も作法がある。合図があるまでは目を開けることを許されず、仏間の手前で補佐する人に左足を持たれる。そして、掛け声とともにその左足を大きく前に踏み込ませ、そのまま補佐する人に支えられたまま導師のもとに行く。
そこで、「首振りの儀式」。眼前に膝の高さのクッションを置かれ、そこに無心になって額を打ち付けるのだ。
何度かすると、導師様が「ヨシ!」と声を掛けてくださる。
それから念佛(南無阿弥陀仏)を唱えて、退出するのだ。
この後も幾つかの儀式があるのだが、あまり細部を語っても意味がないので割愛する。
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一通りの儀式が済むと、その儀式の意味を解説してもらえた。
最初の「首振りの儀式」。これで、私たちはこれまで犯した全ての罪を赦され、死後御浄土に行けることが確定したのだそうだ。
昔は、(どこの宗派かは知らないが)門前で三日入門を願い、更に同じ説法を七度聴かされ、その上で法を渡されたのだそうだが、ここでは二日間(実質半日)でそれが成される。それは、法主様のお力なのだとか。
そしてその後の儀式で、阿弥陀如来様・観音菩薩様・勢至菩薩様の徳が身に付いたのだという。
その証もまた、示された。
阿弥陀如来様の徳が身に付くことで、『観無量寿経』の第九観「身心観」を得られる。これは、阿弥陀様の化身(化佛化菩薩)が、小さな光となって降り注ぐ。それを目視出来るようになるのだ。
観音菩薩様の徳が身に付くことで、『観無量寿経』の第一観「日想観」を得られる。これは、観音菩薩様(太陽の化身)の御加護により、太陽を直視しても目を焼かれずに済むのだ。
勢至菩薩様の徳が身に付くことで、『観無量寿経』の第二観「水想観」を得られる。これは、勢至菩薩様(月の化身)の御加護が宿るのだが、この力は目に見える形での証は宿らないのだという。
そういった証を身に付け、私たちは二泊三日の旅を終え、東京に戻ったのである。
無量壽寺を出るとき、「父母恩重経」の教本と、「(観無量寿経その他の経典が記された)勤行集」を渡された。
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東京に戻った数日後。私と御同行の方は、改めて念佛宗東京別院に行くことになった。
総本山での密儀の後、近いうちに改めてもう一度説法を聞くことになっており、そちらは別院でも構わないのだそうだ。
そこで、阿弥陀様の徳を得られた人の神秘について、「身心観」「日想観」「水想観」以外の話を聞かされた。
その方々は亡くなったとき、その身は金色に輝き、(御浄土に至れることが約束されているから)安らかに眠るように逝けるのだそうだ。その御遺体は死後硬直することもなくいつまでも柔らかく、また腐敗することもなく、いつまでも良い香りがするのだという。
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別院でのアフターフォローが終わった後。
私は御同行の方と二人で話す時間を持った。
「どうだった? よかっただろう?」
「……大変申し訳ありませんが。
私と念佛宗の御縁は、今日を限りとしてください」
(2,833文字:2016/08/17初稿)