3-8 ユルセラ
柄を握る手に痛いくらいの力が籠る。
「ユルセラ! 落ち着きなさい! いつものあなたらしくないわよ!」
「……あの男は、皆の仇」
ルーツィエの制止も空しく、ユルセラは再び石畳を蹴った。
狙うはセルジュただ一人。彼を殺せば、クロはまた味方に戻ってくれる気がして。
「待ちなさい、ユルセラ! もうっ! ラーニィ、ユルセラに援護を!」
「火薬銃持ってるって言ったって、流石に白兵戦してる仲間に援護は出来ませんぜ」
背後からは付き人に援護を命じるルーツィエと、その命令を拒否したラーニィの声が聞こえて来た。
実際のところ、ラーニィが援護を拒否したのはユルセラに弾が当たってしまう可能性があるから、という理由ではないだろう。もちろんそれも一部ではあるだろうが、大部分は彼の持つ火薬銃の機構の問題である。
ラーニィが武器として使用している火薬銃は、最近になって発明されたフリントロック式のマスケット銃だ。
フリントロック式とはつまり火打石を用いた点火方式のことであり、火皿と呼ばれる受け皿に火薬を入れて火蓋と当たり金を兼ねるL字のフリズンと呼ばれる金具を閉じる。この状態で撃鉄を二段階引き上げると射撃可能状態となり、引き金を引くことで撃鉄が落ち、撃鉄の先端に挟まれた火打石が当たり金に衝突して火花を散らす。その火花が火皿に入れられた火薬に引火することで熱を発し、銃身に開けられた小さな穴を伝って銃身内部の装薬を点火させ、発砲することが出来る。
また、マスケット銃は銃口から装薬と弾丸を込める先込め式の銃で、装薬と弾丸の装填は込め矢と呼ばれる棒を用いて押し込まなければならない。
つまりラーニィは、次弾装填の手間がかかるために極力引き金を引かないようにしているのだ。いざという時に撃てなかったのでは、遠距離武器である火薬銃を持っている意味がないというものである。
一応、撃鉄は一段階目ではなく二段階目まで引き上げられていることから、すぐに撃てる状態ではある。しかしそれも東方風の男を無力化するための言わば脅しであり、彼が抵抗しない限り本当に撃つつもりはそれほどないのだろう。
ラーニィからの援護は期待できない。だが、だからと言って足を止めるつもりもない。
ユルセラは臆せずセルジュに飛びついた。蒼光の剣を水平に振れば、セルジュとクロは互いに距離を取りながら跳躍して回避する。
ユルセラの眼中にクロはいない。狙うはセルジュただ一人のみ。
返す刃に合わせて再びセルジュの鼻先へ近づく。蒼白い閃光が弧を描くと、その下から鎖の塊が突き出される。
それをユルセラは大きく避けようとせず、半身を逸らしてさらに距離を詰めると、強引に大剣を振り戻した。
刀身は当たらなかったが、大剣の鍔がセルジュの左肩を強打する。通常であれば至近距離からの剣戟など威力は嵩が知れたものだが、今のユルセラから繰り出される剣の重量を乗せた一撃は痛打となる。
ユルセラの目論み通り、命中したセルジュはよろめいて体勢を崩した。以前に戦った時の記憶が残っているため、ユルセラのことを甘く見過ぎていたのだろう。
その隙に付け入るように背を軽く逸らし、ユルセラは剣を夜空へ掲げる。
そしてすぐさま身体を折り曲げ、大上段からセルジュへ向かって振り下ろした。
地面を割裂く。
だが、やはりと言うべきか、クロによる妨害がセルジュの命を救った。彼は足で剣の腹を蹴り、またも軌道をずらしたのだ。
セルジュはすぐに立ち上がると大剣の間合いから離れる。さらに右腕の鎖を瞬時に解くと、ユルセラに向かって先端を投擲してきた。
避けるか、受けるか。
クロは依然としてユルセラの目の前から動こうとしない。彼はユルセラの反応を見ているのだろうか。であれば、避けても受けても追撃してくる恐れがある。
いや、本当にあるのか? クロは味方ではないのか?
脳裏をそんな考えが掠める。
彼は敵か、あるいは味方か。
その白い仮面の下に隠された瞳は、一体何を映しているのか。
対応を決めかねているユルセラの眼前まで鎖が迫る―――鉄蛇の頭部が衝突する刹那、けたたましい鳴き声を上げて蛇の穂先が逸れた。
「アタクシが援護しますわ!」
どうやら、ルーツィエが鎖に魔力の弾丸を命中させたらしい。
魔力の凝固片を撃ち出す魔導銃は火薬銃と違って銃弾の形状が一定ではなく、さらに魔力磁場や魔素の影響を受けやすいために弾道が真っ直ぐにならない欠点がある。それでも鎖の先端に当てることが出来たのは、流石Aランク学生騎士ということか。
セルジュ自身を狙わなかったのも、鎖が届くかどうかの瀬戸際で彼に抵抗されてはユルセラを助けられないと一瞬のうちに判断したからだろう。それが本人の判断なのか咄嗟の思いつきなのかは判然としないが、どちらにせよルーツィエはただの商人の娘というわけではないのだ。
彼女からの援護によって鎖の軌道をずらされたセルジュは、鎖を引っ張って腕に巻きとろうとする。
大剣を受け止めるための鎖が戻っていない今がチャンス―――ユルセラはセルジュへ肉薄するために一歩踏み出す。
がしかし、耳に残った金属音が消えるよりも早く、クロが飛んだ。
夜闇に舞う烏はユルセラの脇を通り過ぎようとする。狙いは魔導銃を使うルーツィエか。
反射的にユルセラは手を伸ばした。大剣ならば足止めくらいは出来ただろうが、心のどこかにそれを拒絶する自分がいた。
彼のローブの裾にもう少しで手が届く―――
「―――どこ見てんだァ!?」
怒声に目を向ければ、目の前には左の拳を構えたセルジュの姿。
クロへ伸ばしていた手を引っ込め、ユルセラは突き出される気拳を間一髪で回避する。
お返しに空いている手でセルジュの腹部を殴りつけるも、重さもないユルセラの拳では彼の頑丈な肉体に衝撃を与えられなかった。
続けて鉄塊を振り下ろしてくる。
後方に跳躍して回避すると、石畳が石粉を撒き散らしながら割れた。
「きゃあっ!?」
(ルーツィエ……!)
短い悲鳴に、ユルセラの視線が背後に向けられる。
そこでは丁度、ルーツィエの魔導銃が宙を舞っているところだった。
彼女の目の前には片足を振り上げたクロ。
次の瞬間には、彼は振り上げた足を降ろして姿勢を低くする。左腕を小さく引いた。
掌底が繰り出される。
「―――フンッ!!」
小柄な体躯からは想像できない強烈な掌底は、突然に現れた巨躯に受け止められた。
リオンだ。彼がルーツィエとクロの間に割り込んで、荒波に耐える巌のように屹立する。
クロは続けて小さく跳躍し、リオンの頭部へ回し蹴りを放った。だが割り込ませた腕一本に衝撃を全て吸収され、逆に戦闘鎚に襲われる。
着地する前にリオンの肩を蹴ったクロは戦闘鎚の範囲から逃れ、再びこちらへ戻ってきた。
「余所見してる暇が、テメェにはあるみてェだなァッ!!」
「……くっ!」
クロのことばかりを気にしている暇はないらしい。
未開拓地の魔獣を思わせる怒気を纏わせながら、鋭い眼光がユルセラを射抜いていた。
この男、命の危機に二度も遭ったというのに全く攻め手を緩ませる気配が無い。それは後先考えぬ猪突猛進な性格だからか、それともクロを信頼しているからか。あるいは東方風の男に何か因縁があるのかもしれない。
ユルセラはセルジュの攻撃を尽く回避し、隙を見ては大剣を振るう。しかしその剣戟はクロが逸らし弾き、セルジュの衣服に刃を掠らせることすら許されずにユルセラは防戦を強いられた。
ルーツィエからの援護が来ないのはリオンに止められているからだろう。攻撃しない限り襲ってこないのならば、彼女を守るには彼女に攻撃をさせないことが必要だ。
夜の帳が落ちた第二城壁内部で、身の丈ほどの大剣を操る白髪隻眼の少女は対照的な性格の二人の男に翻弄されていた。
「頃合いか」
そこでふと、小さくしわがれた、それでいて良く通る音が路地に響く。
同時に、目の前の二人がユルセラから距離を取った。
音の主は東方風の男らしい。セルジュとクロの意識が自分から外されていることに気付いたユルセラが背後を見ると、そこでは東方風の男が杖を拾い上げていた。
火薬銃を向けたままのラーニィが銃口を彼に少し近づける。
「……俺の勘違いじゃなきゃ、杖を置けと言ったはずだったんですがね」
「撃つ気があるのなら、すぐに引き金を引くべきだったな」
―――刹那、闇が濃くなった。
ユルセラたちを取り囲む闇が、その色をより濃くする。
濃紫から濃紺へ。濃紺から黒色へ。
男の声を皮切りに、夜が変容を遂げる。
「―――上かッ!!」
セルジュの声に釣られて、ラーニィを除く全員が空を見上げる。
黒があった。
黒い生命体が、光を失った夜の空から無限に湧いて出てくる。
二つの赤い光点。鋭利な鉤爪。肉を裂く牙。
人類に根源的な恐怖を植え付ける存在、悪魔。
魔導院を未曽有の危機に追いやった悪の尖兵たちが、片側の家屋の壁を次々と這い下りてくる。
それを、ユルセラは魅入られたように見つめていた。
その黒色が、赤い双眸が、口では言い表せない感覚を植え付けて。
(……そういえば、『雑貨屋』を見た時も、同じ…………)
「リオン!」
ユルセラの目を覚まさせたのはラーニィの声だった。
続いて火薬が爆ぜる乾いた音。真っ暗な路地に閃光が瞬く。
ラーニィが東方風の男に向かって銃撃したのだ―――そう、したはずなのだ。
にも拘らず、東方風の男は人非ざる速度でラーニィの懐にもぐりこんだかと思えば、杖を振り上げて彼の火薬銃を虚空へ弾き上げた。
さらに彼の身体を蹴りつける。それほど力を入れていたようには見えないのだが、ラーニィは易々と蹴り飛ばされ、家屋の壁に叩きつけられた。
東方風の男はそのまま走り去る。
「……フロッテンシュトールさん! こいつはヤバい!」
腹を押さえながら立ち上がったラーニィが火薬銃を拾い上げた。そしてそのままルーツィエの傍へ。
セルジュとクロの方は既に悪魔と抗戦しているようだった。黒色の波とも形容すべき密度で路地に悪魔が密集しているためによく見えないが、こちらが無事な間は向こうも無事だろう。
「あ、悪魔くらい、アタクシだって!」
ルーツィエが魔導銃の引き金を引く。
淡い光を放つ魔力の凝固片が飛翔し、頭上から攻めてくる悪魔の一匹に吸い込まれる。……しかし命中の直前、凝固片はフッと霧散し掻き消えた。
「お嬢。その魔導銃や魔法剣では悪魔に太刀打ちできません。下がっていてください」
リオンが近づいてくる一匹の悪魔を戦闘鎚で潰しながら告げる。
確かに、魔導院の生徒ですら大半は悪魔に対して無意味だった。彼らの放つ攻撃魔法の殆どは悪魔に抵抗されてしまい、致命傷を与える前に殺されてしまったのだ。
ならばルーツィエの持つ魔導銃や魔法剣では悪魔に対して有効打を与えることが出来ないだろう。
流石の彼女もその言葉に従わないわけにはいかず、悪魔が下りてきていない方の壁を背にしたリオンの陰に隠れるように位置取った。
「あ、悪魔……これが、魔導院を襲った、悪魔だというの……?」
意気消沈のルーツィエを壁と挟む形でラーニィが火薬銃を振るっている。銃口の下に取りつけられた短剣が、悪魔を寄せ付ける前に四肢を削ぎ落して行動不能に追いやっていく。
ユルセラは再びセルジュとクロの方を見た。
この混乱に乗じれば、クロの妨害を受けることなくセルジュの息の根を止めることが出来るだろう。もちろん、そんなことをすればユルセラの命も危ないのだが、逃げるだけならば《碧金》の力を解放して何とかなるはずだ。
だが……その場合、ルーツィエ一門は逃げられない可能性がある。
「それは、いけない」
地下室でセルジュに殺された仲間たち。
その無念を再び呼び起こしていいわけがない。
ユルセラはルーツィエたちの元へ跳躍した。向かってくる悪魔を切り伏せる。
「どうしやすか、フロッテンシュトールさん!? このままじゃ押し潰されますぜ!」
ルーツィエを挟んで向こう側、ラーニィが火力に欠ける銃剣で何とか悪魔を退けていた。
群がってくる悪魔が多すぎる。目の前の悪魔を切り伏せても、返す刃で再び攻撃しなければどうしようもないほどだ。こんな中でもルーツィエを守り切るラーニィとリオンには感服するが、それだっていつまで持つか分かったものではない。
しかし、撤退しようにも四方八方から悪魔に群がられては仕方がない。悪魔が攻めてきていないのは背後だけだが、雑種には垂直の壁を登る技術などないのだ。かと言って悪魔の溢れる通路を行こうにも、一人が魁、もう一人が殿の役を務めるにしたって残りの一人ではルーツィエを守り切ることは出来ないだろう。それに、悪魔の群れを薙ぎ払えるほど瞬発力のある騎士は《碧金》によって強化されたユルセラしかいないのだ。
万事休す―――連携して飛び掛かってきた三匹の悪魔を大剣で斬り伏せていると、背後の家屋の屋上からルーツィエに向かって飛び掛かろうとする一匹を発見する。
「ルーツィエ! 上!」
「ひっ……!?」
慌てて上を向いたルーツィエは、自分を赤い双眸で見つめてくる悪魔に驚いて尻餅をついてしまう。腰を抜かしてしまったのか、すぐに立ち上がれずに後退った。
ラーニィとリオンは目の前から殺到する悪魔の対処で手一杯らしい。防衛線を瓦解させないためには、多少無理をしてでも自分が止めなければ。
ユルセラは一層の力を《碧金》から解放する。魔法の力に耐えられなくなった肉体が悲鳴を上げるが、構ってはいられない。
瞬き一回の間で一歩踏み出し、目の前を薙ぎ払う。さらに一歩踏み出し、返す刃で五匹まとめて切り裂いた。
背後を見やる。
(―――間に合わない……!!)
既に悪魔は降下を始めていた。ルーツィエに向かって、汚らわしくも涎を垂れ流しながら牙を見せ付けている。
ユルセラは蒼光の剣を前に構えて突進しようと足に力を籠める。
「いや……っ!!」
『ギャヒイイイイイイイ―――ギゲェッ!?』
―――ユルセラの頭上を駆けた二本の銀閃が、降下する悪魔の頭部を貫いた。
悪魔はその流れのままに弾き飛ばされ、ぐったりとして動かなくなる。
「ハッ!」
次いで、背後から裂帛の気合い。
振り返れば、尋常ならざる量の血飛沫が飛んでくる。
ルーツィエを助けようと振り返っていたユルセラの背後に群がった悪魔が、頭部と胴体を切り離されて何匹も横たわっていた。
見えるのは黒色の四肢と、ボールのような球体。
そして、
「……クロ?」
黒いローブから覗く、光点を二つ携えた右腕。
二の腕までは、少女を連想する白磁のような肌が晒されている。しかしその先は色形を全く変え、闇よりも禍々しく濃い黒に、身の毛もよだつ肥大した鎌のような五指が血に濡れていた。手の甲に見えるのは二つの赤い光点。
悪魔、だった。
身体の輪郭を隠すほどの大きめのローブの所為で分からなかったが、彼の右腕は悪魔に寄生されていたのだ。
(……でも、どこかで、同じような)
クロのように、右半身を輪郭すら分からなくなるようなマントで覆い、頑なに肌を露出しようとしなくなった人物がいた。
(―――レファリア?)
目の前にいるクロの姿に、レファリアを幻視してしまう。
よく見れば、身長も同程度だし、肌だって彼と同じ純白だ。細身の腕、使っている得物も――同一の武器ではないが、短刀を使っているということは――同じ。
声こそ多少違えど、一度そう思ってしまえばクロとレファリアが同一人物に見えてならなかった。
ユルセラが何か言いたげに口を開く―――その前にクロは反転して、向かってくる悪魔を腕の一振りで分断する。
「後ろは任せろ。お前が前を行け」
血の雨降り注ぐ中、背中を見せたままのクロが小さく告げて来た。
(助けて、くれるの……?)
先程までは敵対していたのに、どういう心変わりなのだろうか。
だがしかし、考えてみれば彼はここぞという時に短刀を突き出さず、掌底だけで戦っていた。ユルセラに対しても、ルーツィエに対してもそうだ。あれらの場面で短刀を使っていれば、致命傷は与えられずともダメージを蓄積することくらいは出来ただろう。
いや、短刀など生温い。彼の人並み外れた身体能力と悪魔の腕ならば、魔法道具で身を固めただけの未熟な騎士など取るに足らない相手と言っても差支えないはずだ。
とすれば、彼は最初から本気で敵対する意思はなかったということだろうか?
……そしてそれは、彼の正体がレファリアだから?
「行け」
再度、クロの急かす声。
(……今は、考えているべきではない)
「撤退、する」
クロに背を向けて、一行の道を切り開くべく蒼光の剣を握りしめる。
後ろ髪を引かれる思いがしながらも振り返ることなく、一行に先立ってユルセラはクロと反対方向へ駆け出した。




