2-11 影
◆ ◇ ◆
先程までの慌ただしさも消え、部屋の外には静寂が訪れようとしていた。
影にはこの兵舎の内部のことは手に取るように分かる。音、振動、気配―――様々な要因から、誰がどこにいるのかを感じ取ることが出来るのだ。これはあくまでも忍びの者として身に着けた技能であり、誰かから与えられたものではないということが凄い所だろう。
「はてさて、フェレス殿も無事に捕まったようでござるし、これでようやく拙者も動けるようになったでござるよ」
主のいない無人の個室―――フェインの私室で、影は顎に手を当てて何やら不穏なことを言っていた。
フェレスが無事に捕まった。
その言葉をフェインに聞かれようものなら一瞬のうちに頭と身体が離れ離れになってしまうだろうが、幸いにも彼は今メフィスの私室で運ばれてきたメフィスの容態を見ているところだ。いや、それが分かっているからこそ影は口に出したのだろう。
一人きりの部屋の中心で、影は再び独り言ちる。
「ふむ……問題は、どうやってバーニス殿をその気にするか、でござるが……」
「何やら不穏なことを言ってやがるな、クソ忍者」
誰に言ったわけでもないはずが、不機嫌そうな声が返ってきた。
「やや、これはシンガイ殿」
面を上げた影が視界に収めたのは、扉を開けて部屋に入ってくる、猫背で片手をポケットに突っこんだままの不機嫌そうな男の姿だった。彫刻刀で彫られたかのように深い眉間の皺は、明らかに影に向けられた不仲の象徴である。
しかし向けられる敵意も意に介さず、影は口元を覆い隠す布の下で笑みを作った。
「こうして話すのはお久し振りにござるな。拙者が部族集へ向かう五日前ぶりにござるかな?」
影はこの都市の仲間たちの間では伝令の役目を担っている。それはもちろん、影が忍びという諜報活動に適した技術を身に着けていたからである。
しかしその腕を買われた彼は、フェインから部族集での諜報任務を与えられた。数十年前まで魔界であったその地はまだ雑種が生きていくには厳しい環境が残っており、それ故に影やメルルといった身軽な団員が調査に充てられたのだ。
都市内部のあらゆることを嗅ぎまわる手前、灰狼騎士団の団員としての信頼を失うわけにはいかなかった影はその任務を受け、部族集へと赴くことになった。そして影のいないその間に《大地信仰》という危険な組織が都市に進出してきた。
この都市から離れることになるとは思っていなかったために一時はどうなることかと思った影だが、何のことはない、まだ連中はそれほど大規模な攻勢に出ていないと言うではないか。ならばこれから、《大地信仰》が動き出す前に潰してしまえばいいということ。
「ふん。そんなこと一々覚えているかよ、馬鹿馬鹿しい」
そんな影の心情の揺らぎを知るわけもなく――知っていても結果は同じだろうが――シンガイは影に忌々しげな視線を向けた。
「その独り言は止めろ。どこで誰が聞いてるとも分からないからな」
言いながら、彼は後ろ手に木製の扉を閉めた。
どこで誰が、と言っても、この場合、影の独り言を聞ける可能性があるのは灰狼騎士団に所属する者だけである。だが灰狼騎士団には諜報隠密を得意とする者は少ないし、そうでなくとも影に死角はない。
影はわざとらしく声を上げて笑った。
「これは迂闊でござった。今度からは気を付けるでござるよ。まぁ、拙者に気配を察知されずに近寄れる人間がいるとも思えないでござるが」
「一緒に帰ってきたお前の同僚、あれはどうなんだ?」
「メルル殿でござるか? ふむ、素質は十分でござろうが……あんな小娘程度、拙者なら一捻りでござるよ」
灰狼騎士団では影に次いでメルルが隠密活動を得意とするが、彼女は所詮、人の子だ。集中していなければ周囲の全てに気を配ることは出来ない。影とメルルが帰ってきたあの日にシンガイの接近すら気付くことが出来なかったというのに、どうして同じ土俵で暗躍する影の行いに気付くことが出来ようか。
言葉だけ得意げに返答すれば、シンガイは鋭く瞳を細める。
「ばれても殺せるってか?」
得意の魔術を織り交ぜたかのような冷ややかな声。剥き出しになった彼の警戒心が部屋を包み、その場にいた者は心臓を鷲掴みにされたかのような感覚を覚えたことだろう。
生憎、既に機能停止している影はそのような感覚を享受することなどなかったが。
「如何にも、でござる」
鷹揚に頷いて見せる。と、全く態度を変えない影にシンガイはため息を漏らした。
「……別にいいけどな。一応気を付けておけよ」
「はて、何にでござるか?」
「フェインとミュシェだ。あの二人は別格だぞ」
「はっはっは。流石の拙者もそこまで馬鹿なことは考えていないでござるよ。フェイン殿とミュシェ殿は、拙者たち眷族が一斉にかかっても一人生き残れるかどうか……といったところでござろう」
笑いながら答えてみたが、実際には一人も生き残れない可能性の方が高いのではないだろうか。
仲間たちで戦える者は三人のみであり、その中で物理攻撃を得意とするのは影だけだ。そういう意味ではフェインに対して有利に立ち回ることが出来るかもしれないが、獅子翼種のミュシェに対して影程度の物理火力が役に立つとも思えない。そうなればミュシェを押さえ込むのは魔法を使える残りの二人で、影がフェインを一人で押さえ込むことさえ可能ならば勝機はあると言えるだろう。
ただし、それはあくまでもフェインがフェインとして戦っている時の話だ。彼が本気になれば―――《灰狼》と揶揄される理由となった大兜を装着し、魔法的な強化を一身に浴びれば、仲間たちの勝利はあり得ないだろう。
「その不用意な発言を控えろと言ってるんだ、クソ忍者」
脳内でシミュレートする影を他所に、シンガイは保存用の堅パンが如きベッドに腰かけた。ソファがあるにもかかわらずどうしてベッドに座ったのかは、影には分からない。
言われっぱなしは癪ではない―――影はそんな風に考えるような性格ではなかったが、散々にクソだのと言われてそのままにしておくのも何か味気ない気がした。
そこで言い返すための材料を脳内で探してみると、これが案外すぐに見つかる。
ポン、と平手を軽く打って、影は「そう言えば」と口を切った。
「シュヒメ殿が喜んでいたでござるよ? 『久し振りにシンガイが遊びに来てくれたんだぁ!!』と大はしゃぎだったでござる」
これが嫌に効果覿面だったらしく、猫背のシンガイは悔しげに奥歯を鳴らす。
「ちっ……あの野郎、余計なことを余計な野郎に……」
「はっはっは。シンガイ殿はシュヒメ殿のお気に入りでござるからなぁ。羨ましい限りでござるよ」
「なんなら代わってやろうか?」
「何を言うでござるか! その役目はシンガイ殿だからこそ務まっているでござるよ! 拙者には到底無理にござる!」
「嫌なら素直に嫌だと言えばいいだろ」
「嫌でござる」
「……面倒な奴だな」
言われた通り素直に影が答えると、シンガイは言葉を吐き捨てた。
そして不機嫌そうな――本当に不機嫌なのかもしれないが――表情のまま、そんなことはいい、とこちらも吐き捨てるように言う。
「それで、お前はこれからどうするんだ? 俺はこのまま灰狼騎士団の下で行動するつもりだが」
眉間に皺を寄せた双眸で見上げてくるシンガイ。
彼にしては珍しく他者の指揮下に入っていた。それはきっと情報伝達役の影が帰還してから彼に報告へ向かう時間が無かった所為で、彼も影が帰ってきていると知っていれば灰狼騎士団と行動を共にしようなどとは口が裂けても言わなかっただろう。
しかしながら、今さら灰狼騎士団に協力することを止めるということは出来ない。もしそんなことを言おうものなら、団長であるフェインから不審に思われかねないためだ。灰狼騎士団は都市のどこに潜んでいるのか分からない手前、秘密塗れのシンガイたちは彼らに探りを入れられるわけにはいかなかった。
そういう意味では、今自由に動けるのは、組織に属する影やシンガイ、『真祖』の接近に関して調査活動を続けている骸王を除いて、ただ一人。
影はこれまたわざとらしく、むむむ、と唸り声を上げる。
「彼の情報屋もまだ信用されたわけじゃないでござろうからなぁ。まだ拠点の場所は教えられていないようでござるし、なれば彼の御仁方をどうにかして引き摺り出す必要があるでござるが……取り敢えず、手筈通りに餌の捕獲は済んだでござるから、一つ手を打ってみるつもりでござる」
「手?」
威圧的とも思える声音でシンガイが訊き返してくる。
ただ、二人の間ではそれが普通であるのか、影は微塵も嫌悪感を表層に出さずに頷いた。
「何でも、バーニス殿はこの都市で、当初の目的であった高位の―――第四階位悪魔を捕獲したとのことでござった。その悪魔の移送を提言させるでござるよ」
ピン、と人差し指を立てた影だったが、シンガイはピンと来なかったようだ。
それもそのはず、彼は《大地信仰》がこの都市へ進出してきた理由が『雑貨屋』にあると考えているのである。しかしそれは影がシンガイだけに情報を与えていなかったわけではなく、影や他の仲間たちも知らなかったのだ。
(眷族を統べる彼の者ならば知っていたはずでござるが……)
ならば何故、自分たちに第四階位悪魔が都市に進入したという情報を黙っていたのだろうか。
……考えても無駄だと影が思い至ったのは、シンガイが舌打ちを一つ打ち鳴らすのと同時だった。
「移送、だと? おい、そんなものすぐに見破られるに決まっているだろ」
シンガイも影と同じ疑問を抱いただろうが、それを訊いてくることはなかった。きっと彼も影と同じ結論に至ったのだろう。
この人間は意外と頭が回る―――そうシンガイへの評価を改めながら、影は立てたままの人差し指をシンガイに突き出した。
「そうならないために、今回は灰狼騎士団も動かすつもりでござる」
「……説明しろ」
急かすシンガイに、影は指先を振って「焦りは禁物にござるよ?」と告げた。それがシンガイの気を損ねることになるのだが、影という男、どうやら他人の機嫌を損ねるのが好きなのかもしれない。
「拙者たちが《大地信仰》を潰そうとしていることがばれるのは厄介でござるからな。今回は灰狼騎士団には囮になってもらうでござるよ。フェイン殿やメフィス殿には申し訳ないでござるが」
「お前にも人の心があったんだな」
「はっはっは。口はどうとでも言えるでござる故」
実際のところ、影はフェインやメフィスに対して一寸も謝罪の気持ちを抱いてなどいなかった。彼らは所詮、都市が任命した都市自体を守る組織。影や彼の仲間のように、この都市を本当の意味で守護しようとする組織ではない。であるならば、影が部下を酷い目に遭わされたフェインや実際に被害に遭ったメフィスに対して道具以上の感情を抱くことなどないのである。
その相手がたとえ、自身のことを仲間だと思ってくれる存在だとしても。
影は人差し指を折り畳んだ右手を腰に当てる。
「今の灰狼騎士団はバーニス殿の監視を失い、そしてフェレス殿が攫われ、普段よりも浮足立っているでござる。そこへ拙者が《大地信仰》が要人を移送しようとしている、と口添えをするでござるよ。すると、フェレス殿に関して何の手掛かりも無い灰狼騎士団は拙者の情報に乗らざるを得なくなるでござる」
実際、これはその通りとなる。フェインたち灰狼騎士団は、血も涙もない影やその仲間たちの術中に見事嵌まってしまっていた。
しかし影のあくどさは、自身が所属する騎士団の団員を陥れるだけでは底を知れない。
「そこで彼の情報屋はバーニス殿にこう言うでござるよ―――『灰狼騎士団に偽の情報を流したから、そちらも偽の馬車を出して欲しい』と」
「……なるほど。お前が所属する灰狼騎士団はまんまと偽の馬車を強襲し、全く無意味な行動を取ることになる。それを誘導したあの男は、まだ《大地信仰》の連中に対して敵対していると勘付かれることはない。そういうことか」
納得した表情で頷くシンガイは、どこか曇ったような表情を作って床に視線を運ぶ。
《大地信仰》に協力している情報屋のリークは単なる助言だけでなく、影が《大地信仰》を盛大に嗅ぎ回ることでかなりの信憑性を持つ情報へと昇華させていた。言い換えれば、情報屋の指示に従わない場合、いずれ灰狼騎士団に拠点がばれることになる、と《大地信仰》の面々を脅迫しているのだ。
「如何にも、でござる。そしてもう片方―――本命の馬車に関しては、別の手勢をぶつけるでござる」
「他に協力者が?」
「彼の情報屋は優秀でござるからな。『雑貨屋』をはじめ、復讐に燃える拳士、東から来た千人長……それで手が足りなければ夜間警邏の番犬騎士か、学生騎士でも巻き込むつもりでござるよ」
番犬騎士や学生騎士風情には悪魔の軍勢や《大地信仰》の手勢を押さえ込むことなど到底期待出来ることではないが、それでも的を散らす役割くらいは担えるだろう。要するに、影は彼らを悪魔の餌程度にしか捉えていなかった。
その思想はシンガイとは全く逆方向のもので、言外に発された人間を見下すような影の発言に、シンガイはこれ以上ないほど憎しみを込めて眉を顰める。
「……お前のその計画の所為で、あの妖翼種はああまでやられたんだぞ」
彼の言う妖翼種とは、つまりメフィスのことを指しているのだろう、と影は判断した。
影も彼女の容態は把握済みで、心身の疲労と義手の破損、それから視力の喪失という重症を負っていた。それこそ、戦士としては役に立たなくなるほどの。
だが影や彼の仲間たちにとっては、それが感傷を引き起こすような材料としては不十分だった。道具が傷ついたからといって、それで急激な『淀み』の増加を避けることが出来るのであれば、それは申し分ない結果であり、その後に利用された道具がどうなろうと知ったことではない。
そのことを態度で表すかのように、影の瞳は笑顔に閉じられた。
「シンガイ殿はお優しいでござるなぁ。……しかし、あくまでも拙者たちの使命は、この都市から『淀み』を極力排除すること。それを忘れてはいけないでござるよ?」
ゆっくりと諭すような言い草に、シンガイは舌打ちを一つ零す。
「誘き出すことも出来たんじゃないのか? そこを《灰狼》に襲わせれば殺せるだろ」
「かの情報屋が会合の場所を指定できるとでも思っているでござるか? それに、失敗したらどうするでござる? 拙者らが《大地信仰》と接触していることがばれたら? その可能性を考えて、拙者たちは常に彼らと繋がりを持っておき、それを秘密にしておく必要があるでござるよ」
「そのためには仲間をも利用するとでも言うつもりか、偽善者」
「仲間? はっはっは。シンガイ殿はちゃんちゃらおかしいことを言うでござるな」
ゆったりとした布地の服を巻きつけながら、影は胸の前で腕を組んだ。声こそ明るいものだったが、その言葉は聞いた者にどこか仄暗いものを感じさせる。
そして影は、たっぷり溜めて、笑顔で断じた。
「―――拙者は眷族。眷族の仲間は、これも眷族」
灰狼騎士団の連中は仲間ではない、と。
「…………クソ野郎どもが」
憎々しげに言い放ったシンガイの視線には、嫌悪や侮蔑といった負の感情がありったけ込められていた。
その目を見て、影は思う。
彼はまだ、人間なのだ、と。
人間としての感情を捨てきれていないために、影の発言に嫌悪を催すのだろう。もしかするとそれこそが、シンガイがシュヒメに愛されている理由なのかもしれない。確信はなかったが、人間を好きなあの存在のことだ、同じ知能を有する者でも死者なんかより生者を好むのも頷ける。
「そろそろフェイン殿がこちらへ向かってくる頃合いにござろう。ささ、シンガイ殿は隠れるか、もしくは出て行ってほしいでござるよ」
シンガイの視線を受け流すように笑って見せると、影は掌で退室を彼に勧めた。
剥き出しの敵愾心を隠す気もなく影をねめつけていたシンガイだったが、二人でいるところをフェインに見つかるのは面倒だと考えたのか、ベッドから立ち上がって扉のノブに手を掛けた。
そこで一度足を止め、
「……覚えておけ。俺は、眷族を仲間と思ったことは、一度も無い」
吐き捨てるように言うと、彼は部屋からいなくなった。
「……やはり、まだまだ甘ちゃんでござるな」
閉じられたその扉にシンガイの後姿を幻視する影は、彼が退室してから小さく呟いた。
そしてその扉はすぐに開かれる。
入って来たのは、案の定、制服に身を包んだ団長のフェインであった。メフィスの見舞いが終わったところなのだろう。
「遅れて済まない、影。早速だが報告を聞こう」
入るやいなやそう告げてきたフェインに、影は小さく頷いた。
「御意にござる。まずは《大地信仰》が―――」




