1-4 ユルセラ
「…………………」
「…………………」
無言で両者が睨み合う。男も、ユルセラが何かを仕掛けてくるであろうことは分かっているようだ。
男は銜えた煙草を吐き捨てる。
(――――今っ!!)
――煙草が床に落ちる瞬間、ユルセラの身体は男の眼前まで迫っていた。
男は驚きに目を見開く。
その男の顔めがけて、蒼白い刀身が薙ぎ払われた。
「――だからその手は効かねェっつってんだろうが!」
先程と同じ動作で、しかし先程よりも数倍速く上体を逸らした男は、やはり右手で剣の腹を強打する。
鳴り響く金属音。
ユルセラは再び無防備な姿を男に見せることになった。
「喰ら――――ッ!?」
一歩踏み出す――が、男はすぐに気付いた。
ユルセラは剣を振り下ろそうとしている。
身体能力が強化されたことによって、ユルセラは強引に剣を引き戻すことに成功した。そして今、突き出されるであろう二撃目ごと男の身体を叩き斬ろうとしているのだ。
舌打ちをしながらも、男は身を捻って剣戟を回避する。
風を切る音に、遅れて地を割く轟音。地面を深々と抉り取った大剣の一撃は、当たれば死ぬと直感させるものであった。
追撃を恐れてか、男は跳躍して距離を取る。
――振り向いた男の視界には、既に蒼が広がっていた。
「―――畜生がッ!」
ユルセラの薙ぎ払いに対し、男は右腕を差し出すことで勢いを止めようと試みる。
剣と鎖が交錯し、僅かに火花が飛び散る。
(このまま、押し切る……!)
鎖は断ち切れなかったようだが、剣を振り切れば男が体勢を崩すであろうことは確実であった。
ユルセラは剣を握る手に力を込めた。併せて、剣から流入する力をすべて注ぎ込み、強引に男へと押し込む。
耐えきる―――かに思われたが、ユルセラの圧倒的な力によって男は剣の振る方向へ弾き飛ばされた。
再び追撃の姿勢を見せ、ユルセラは男へ跳躍する。体勢を崩している今なら回避することは困難なはずだ。そこへ剣の重さを利用した大上段からの一撃を叩き込めば、次こそは男の右腕を鎖ごと断ち切ることが出来る。
そうなれば互角以上に戦える―――剣での身体能力強化が時間切れになってしまう前に片を付けなければならないユルセラは、次の一撃に全神経を集中する。
頭上には大きく振り上げた蒼光の剣。目の前には体勢を大きく崩した鎖の男。
決着はついた。―――はずだった。
ユルセラは男を舐めていたわけではない。己の身体能力を過信していたわけでもない。
単純に、男の判断力が遥か上をいっていただけなのだ。
死地に活路を開く。まさしくその言葉通り、男はユルセラの懐へなだれ込むように飛び込んだ。『気』を用いた突進でないことを鑑みるに、『気』を用いるにはそれ相応の準備が必要であることが分かる。
しかし、男との距離が近すぎて、咄嗟のことにユルセラは対応できない。
床から足が離れ、腕の力だけで剣を振るうも男に当たるのは柄だけだった。それでは確実な殺傷には至らない。かと言って取り回しの効かない大剣であるため、男に刃を突き立てることすらままならなかった。
ユルセラは背中から床に倒れる。その上に男がのしかかり、緩和されていた腹部の痛みがぶり返してくる。
僅かに血を吐きながらも男を突き飛ばすと、すぐさま体勢を立て直して男に切っ先を向ける。
その時、ユルセラは違和を感じた。
男が何かを手にしている。それは、彼が右手に巻いていた鎖だった。
右手から取り去った鎖を両手で持っている。その先端を追うと―――ユルセラの持つ大剣に巻き付いていた。
背筋が凍る。それは何の予感からなのかは分からない。少なくとも、良い予感ではないことは事実だった。
「こっちに―――来やがれッ!!」
男が左腕を大きく引いた。同時に、ユルセラの手から剣が逃げようとする。
(これを持っていかれるわけには、いかない………!!)
今やユルセラの生命線となっている剣だ。残る時間はあと僅かとはいえ、この剣を手放してしまえば動けなくなる。それはすなわち、死を意味しているのだ。
ユルセラは剣を握る力を強める。そして抵抗するように身体の重心を後ろへずらした。
――だが、男の膂力は少女の体重などで覆すことは出来なかった。
身体がふわりと宙に浮く。咄嗟に負傷している腹部を守ろうとするが、剣を手放すことが出来ない手前、両手が引っ張られた状態のまま無防備な姿勢を取ってしまう。
「――こいつで終わりだ!!」
男は身を低く屈めてユルセラの懐へ入り込んできた。
「く………かはっ……!?」
――強烈な痛みが全身を駆け巡る。
突き上げられるように再度腹部を強打され、視界が明滅する。言葉にならない痛みが下腹部から全身へと伝わっていき、ユルセラは尋常ではない量の血を吐き出した。
少女の身体は、完全に壊れたのだ。
もはや剣を保持する気力も力も無く、両手からするりと抜け落ちた剣が虚しく金属音を響かせる。
戦意無し――そう判断した男は、ユルセラを地面へと投げ捨てた。
肉が床とぶつかり合い、鈍い音を奏でる。口からは赤い液体が滔々(とうとう)と流れ出し、目は生気が消え失せたかのように淀んでいる。時折四肢が痙攣を起こし、その度にユルセラは顔を歪めた。
それでも意識を失っていないのは、騎士としての矜持からだろうか。
(そん、な………矜持は………要ら、ない……!)
騎士として生きることに誇りを持っているユルセラだが、この時ばかりは自分を苦しめる騎士の精神を恨んだ。
(……タ、タルヴィ、ティエ………先輩……)
消えゆく意識の中、自分を育ててくれた先達の名を思い出す。
クレルヴォ・タルヴィティエ。
騎士学校で過去最高の成績を叩き出し、首席で卒業した最強の騎士。そして自分に諦めない精神と生き残る術を教えてくれた自慢の先輩でもある。彼女の装備も、殆どが彼から融通してもらったものだ。
卒業後は最難関と言われる調停騎士の試験に合格し、今ではユクラシア調停機構に勤めているだろう。
(……ごめん、なさい………)
ユルセラは心の中で、尊敬する先輩へ詫びた。
自分がもっと強ければこんな状況――仲間二人が死亡し、自分も死のうとしている状況は打破出来たはずであることに。
そして―――自分が既に諦めてしまっていることに。
「中々手こずらせてくれたじゃねェか」
光の無くなりつつある視界の中で、男が迫ってきていることだけは理解できた。
男はポケットから新たな煙草を取り出し、流れるような動作で火を着ける。今まで何百何千回と繰り返して来た所作であるのだろう。
そうして大きく息を吸い込むと、満足げに紫煙を吐き出した。
「まぁ、これでテメェも終わりだな。何か言い残すことはあるか?」
あっても言えねェだろうけどな―――指先一本動かすことの出来ないユルセラに向かって邪悪な笑みを見せる。
「――これ以上痛めつけるのは俺様の流儀に反するんでな。一思いにあの世へ送ってやるぜ」
放っておけばいずれ死ぬことは明白だが、それでも止めを刺すのは、回復魔法という便利な治療手段で全快されては堪ったものではないからだ。確実に死ぬ瞬間を目に収める―――その行為は、敗者を痛めつけないという彼の流儀の一部でもある。
男は鎖を巻き付けた拳を振り上げた。
ユルセラはその光景を自分の視界に捉えることは出来ない。いや、そのような事実は彼女に関係なかった。
(もう、私は………死んでいる、ようなもの…………)
諦念を抱きながら最期を待ち受ける―――のだが、再び先達の顔が脳裏をチラつく。
諦めない精神。最期の最期だが、死は絶対的に免れない状況だが………それでも、諦めなければ、先輩は赦してくれるだろうか………?
ユルセラは最後の力を振り絞って男を見上げる。
向こうもそれに気付いたようで、ユルセラがまだ動けたことに意外そうな顔を見せる。だが、やはりユルセラを殺す意思に変わりはないようだ。
(………これで…………)
歪む視界で、男が最後に一服した。
そして振り上げた腕を―――
(………。…………。……………な………に……?)
――振り下ろすことなく、男は咄嗟に振り返った。
「テメェか! クソが、また邪魔しやがってよ!!」
響く怒号。男が何故そんな風に声を張り上げるのか、理解するのに数秒を要した。
―――一人の人間が、男へ斬りかかっている。
奇襲を仕掛けた闖入者は、全身を黒いローブで覆い尽くしていた。フードを深々と被っていて顔は見えない。時折覗く白いプレートのようなものから、目を覆うような仮面を装着していることは予想がついた。
その手には二本の刀。反り返りのない短めの刀を双方の手に一つずつ持ち、回転するようにして絶え間なく男に斬りかかっている。
(だ……誰…………?)
見覚えのない服装。隠している身元。
そして何より、闖入者は確実に男を圧倒していた。その事実に若干の戸惑いを覚える。
異様なまでの身体能力を発揮しては男の攻撃を全て躱し、防御しにくい場所を重点的に狙っていく。それは剣の力を引き出したユルセラにすら不可能な動きであった。
「ふざけんじゃねェ! いつもいつも邪魔ばかりしやがって、調子に乗んじゃねェぞ、クソ餓鬼がッ!!」
「………………」
犬歯を剥き出しにして吠える男に、闖入者は何も答えない。代わりにと言わんばかりに白刃を幾度となく煌めかせる。
徐々にではあったが、男の表情は苦悶に染まっていく。対して、闖入者は何の感情も思わせない動きであった。
「消え―――失せろッ‼」
男の一撃は床を割った。
足場の不安定さに戦況を左右されないよう、闖入者は一度大きめに距離を取る。
だが、それが不味かったようだ。
男は舌打ちを一つすると、背後の壁に向かって鎖を叩きつける。するとどうだろう、壁であったはずのそこには、真っ暗な通路が続いていた。
通路からは轟音が響く。この音が水の音であることに気付くまで、さほど時間は掛からなかった。
(……地下水路……………)
この地下室は地下水路に隣接していたのだ。危険時に逃げるためだろう。
間髪入れず、男は暗闇へ飛び込んだ。
「…………………」
ローブを纏う闖入者は何も語らず、暗闇を眺める。
やがて、
「………………」
ユルセラに視線を向けたかと思うと、男の後を追うようにして水路に身を躍らせた。
(あの、人………は……一体………)
自分を助けてくれた――あくまでも男を追い払った、という意味でしかないが――人物の正体を懸命に考えるが、ユルセラの意識は突然、そこで途切れた。