1-3 ユルセラ
◇ ◆ ◇
空には月が浮かんでいる。
夜。
金持ちが暮らす安全な第一城壁の内側とは違い、第二城壁の内側は驚くほどに暗い。普段から第一城壁の内側で過ごしている人間からすると、まるで別の都市にいるかのように感ぜられるほどだ。頼りは月明かりだけであるが、その僅かばかりの光でさえ壁のような住居によって遮られてしまう。
第二城壁の内側には、人間が生活するには不便なほどに光は存在しなかった。
しかしそれを好む者もこの都市には数多くいる。
後ろめたいことをする者。大きな荷物を抱えて夜逃げする者。中には、正式な許可を得ていないが黙認されている商人なども活動していた。
そして、路地を移動する一行も、闇を好む人間だった。
光を避けるようにして闇の中を移動する。一行が身に纏う服装は黒を基調としたもので、闇夜に乗じて行動するに適するものであった。鎧などを装着している者もいるが、鉄製のそれらはすべてが黒く塗りつぶされ、光を反射しないように細工されている。
やがて目的地に到着したのか、狭い路地で一行は息を潜めて周囲の様子を窺った。
誰にも見られていないことを確認すると、次に武器を取り出す。彼らの殆どが手に短めの両刃剣――ショートソードを持っていたが、中には大振りのナイフや鎧の隙間を突くための刺突剣などを装備している者もいる。流石に刀身まで黒塗りにしている人間は誰一人としておらず、月明かりが当たれば鈍い光を反射した。
その中でも特に異色な装備に身を包んでいる者がいる。
彼女は要所要所にフリルが取りつけられた黒いドレスのようなものを着用しており、時折覗く赤い布地がアクセントとなっていた。その右目は眼帯に覆われており、さらに眼帯を隠すようにして色素の抜けきった白髪が伸びていた。
そして彼女の右手には、蒼白い光を帯びた刀身を持つ巨大な両刃剣が握られている。
身の丈ほどもあるその剣を少女は片手で軽々と持ち上げ、周囲の仲間に指で合図を出す。
三、二、一―――
全ての指を折りたたむと同時に、少女は背後にある建物の壁に剣を叩きつけた。
外壁は石で造られているはずの壁はいとも容易く破壊され、大きな穴を開けられる。粉塵が舞う中、その穴の中へと少女の周囲に待機していた数人が身を躍らせていく。
少女は腰に付けた小さなポーチから一枚の紙切れを取り出すと、左右が等分になるように破る。
破られた紙は――正確に言えば、紙に描かれた魔法陣が――光を発し、少女の目の前には突如として魔法陣が形成された。
魔法を使えない彼女が用いたその札は、かの有名な『雑貨屋』と呼ばれる男が作った魔具の一つ。
《静寂》の魔法の壁。
通常、《静寂》の魔法というのは空間に対して干渉を行う時空魔法の一つであり、目視で範囲を定めてから用いる必要があるために、対象を定めて使う干渉魔法《消音化》の魔法よりも高度な技術を要する魔法である。
両者とも『音を消す』効果を持つ魔法なのだが、しかしその有用性は全くの別物である。例えば対象の音のみを消す《消音化》の魔法ではそこに物体が無ければ干渉できないが、一方で空間内の音を消すことが出来る《静寂》の魔法は展開する位置さえ決めてしまえばどこでも使うことが出来た。
ただしこれも人種と同じように一長一短あり、動いている物体の音を消したい場合には有用性は逆転する。
一方的な上位互換の魔法ではないため、また空間に干渉するという高度な技術を要するために、時空魔法の中でも低レベルな《静寂》の魔法を即座に行使できる水準の魔導士はそうおらず、かといって魔具に頼ろうとすれば高度な技術と多量の魔力に見合うかなりの金額を要求されることになる。
そのジレンマを解消したのが『雑貨屋』なのだ。
彼は多くの魔具を改良――見方によれば改悪――し、魔法の性能に幾つかの制限を設けることによって、より低コストで魔具を販売している。
彼女の持つ『《静寂》の魔法の壁』の札も、彼が手を加えた商品の一つだ。
一般の魔具師が作成する《静寂》の魔法を閉じ込めた魔具は、彼女が行ったように魔法陣が描かれた紙を破くことによって発動する。魔法陣に込められた魔力から魔法を呼び出し、あらかじめ決められた範囲に《静寂》の魔法を展開するのだ。
この展開という動作によって多量の魔力が必要とされ、魔具師であっても量産することは出来ない。
しかし『雑貨屋』は三次元的に展開するように定められた《静寂》の魔法を、敢えて二次元で展開させることで必要となる魔力量を大幅に削ることに成功したのだ。
この魔具によって展開された《静寂》の魔法は使用者の目の前に平面的に広がり、音を通さない壁を形成する。
少女は壁に開けた穴を塞ぐようにこの魔法を展開することで、中から響く悲鳴が外へと漏れないようにしたのだ。
(……壁に穴を開ける時の音を消せないのは、少し不便)
でも金銭的に考えればこれが妥当、などと考えつつも少女は《静寂》の魔法の壁を通り抜け、屋内へ侵入する。
少女がわざわざ壁を破壊して乗り込んだのは、別働隊が入り口から気を引いていたからだ。そして少女が壁を破壊することで入り口の見張りも一瞬気が逸れ、別働隊も易々と内部への侵入が可能になる、というわけである。
屋内は想像以上に暗かった。それは魔法の光を用いていないためであり、壁を破壊した際の風か何かで蝋燭の火が消えてしまったことに由来しているのだろう。内部は木造であったため、むしろ衝撃で火のついた蝋燭が倒れなかったことに少女は安堵する。
周囲を軽く見ると、机や椅子などの家具に、並べられた酒瓶、そして血痕が幾つか。床には割れた瓶や壁の一部と思われる残骸、さらには捕縛されたとみられる男が縄で縛られ気を失っていた。
少女は部屋の一角に目を止める。乱雑に積み上げられた――元々は本棚に入っていたであろう――本の山の向こう側に、隠れるようにして地下へと続く階段がある。さらにその階段からは怒号のようなものが聞こえてきた。
巨大な剣を構えることなく、片手で引きずるようにして少女は階段を降りる。
降りた先に広がっていたのは、地上部からは考えられないような広さの空間であった。
「依頼内容と、少し違う」
呟く少女の目の前では、黒装束の仲間と十数名の人相の悪い男たちが剣を交えている。その光景が見渡せるのは、地上とは違い魔法の光によって部屋全体が照らされているためだ。
自分の仲間――騎士学校に通う生徒としてのランクは自分よりも低いが信頼できる仲間たちは、押されているわけではないものの数的不利によって優位にも立てないという状況らしかった。
少女は腰を落とす。
大剣は依然として引きずるつもりらしいが、片手から両手に持ち替えたことですぐに振り出せるように構えているようにも見える。
息を吐いた。
――刹那。
その華奢な身体のどこのそんな力が隠されていたのか、地を蹴った少女は爆発的な加速を見せ、二人を相手にしていた仲間の背後に詰め寄った。
「―――伏せて」
「了解っ!」
短い言葉を交わした仲間の一人は、相手が水平に振った剣を避けるように体勢を低くする。
少女の目には驚愕を顔に浮かべる二人の男が映る。
片方が少女へ斬りかからんと剣を振り上げたが―――
「―――遅いし、弱い」
少女の薙ぎは、二人の男を切り裂き、四つにした。
悲鳴も出せないままに事切れた二人の男の亡骸からは、ドクドクと勢いよく血が噴き出る。それもやがて収まりを見せ、足元には粘性の高い赤い水たまりが出来上がった。
「ふぅ。助かったよ、ユルセラ。二人相手は流石に厳しい」
立ち上がった黒尽くめの青年は、額に浮かんだ汗を拭った。――つもりだったが、ユルセラによって殺された二人の血をもろに浴びてしまったらしく、手に付いた赤黒いものを見て顔を顰める。
「次はもう少し優しく―――」
「無駄話は、あと」
「へいへい」
青年は剣が滑らないようにと、懐から取り出した布で血を拭ってから交戦中の仲間のもとへ向かった。
(でも、なぜこんな空間が……?)
周囲に目を配りながらユルセラは考える。
自分たちが請け負った依頼は小規模犯罪組織の拠点制圧および壊滅任務のはずだ。そのための前準備もしてきたし、周辺地理の調査もした。相手の組織の規模も把握済みだ。
しかし自分たちが相手にしているのは、調査結果からすれば二倍以上の規模の組織になる。それは単純な人数が二倍というだけのことで、実際の規模はさらに大きなものだろう。このような地下空間を造れるのだから。
依頼として請け負った騎士学校の調査組織も地下への隠し階段の存在は認めていたものの、密造酒や麻薬などの倉庫として使われる程度の広さしかない、と調査報告を提出していた。
にも関わらず、だ。
組織構成員の始末は仲間に任せ、どうして報告と違う結果となっているのかを考える。
――ふと、ユルセラは壁に違和感を覚えた。
自分が下りてきた階段側の壁は土がむき出しになっているのだが、少し進んだところからは長方形に切り出された石が綺麗に敷き詰められていた。その境目は垂直に伸びており、土がむき出しになっている部分の体積は、調査報告にあった倉庫と同程度の大きさであった。
(地下を繋げて通路にした……?)
そう考えるのが妥当だろう。
しかし、自分たちが担当している組織は小規模にしても、地下を繋げた相手の組織の規模は不明だ。敷き詰められた石のある面積からして、少なくとも自分たちが制圧しようとしていた組織よりも大きな規模であることは分かる。
場合によっては撤退を考える必要がある。
ユルセラが出した結論はチームのリーダーとして実に的確で――しかし判断は遅すぎた。
「ぐがぁっ!!」
何かを吐き出すような音にも聞こえた嗚咽に、ユルセラは壁から目を逸らす。
その瞬間、彼女の足元に金属音と混じって鈍い音を鳴らしながら何かが落ちてきた。
「――――え?」
見覚えのあるその顔は、先程ユルセラが手を貸した青年。
青年は口から血を吐いて、目を開いたまま動かなくなっていた。
「クソ餓鬼共が、よくもまあ人ん家にズカズカと入り込みやがったな? この借りはキッチリ返してもらうぜ。――テメェらの命でなァ!!」
突如として地下空間に威嚇する声が響き渡る。騎士学校で上位の成績を誇るユルセラでさえ萎縮させられてしまう程の怒声だ。
声のした方向へ目を向けると、半円形に陣を敷く騎士学校の仲間たち。そしてその中心では、右手に鎖を手に巻き付けている煙草を銜えた男がユルセラの仲間の一人を踏みつけていた。
右足が折れているらしく、変な方向を向いている。さらには剣を持つ手を踏まれて反撃できない様子の彼だったが、それでもまだ生きているという事実が仲間をその場に縛り付ける。
そのことを理解している男はギリギリと手を踏む力を強め、ユルセラの仲間に悲鳴を上げさせていた。
(あの男、マズい………)
一人を生かさず殺さずにしておくことで、侵入者たちをこの場から逃がさないようにしているのだ。それは、あの男はこちらを全滅させるつもりであることを意味している。ならばリーダーとして自分に取れる行動は一つ。
「……皆、下がって」
ユルセラは蒼白い刀身の剣を引きずりながら、男のもとへと歩いていく。
命のやり取りを行うには不向きと思われる格好をしたユルセラが視界に入ると、男は煙草を銜えながらも器用に威嚇してくる。
「あぁ? んだよ、テメェ。俺様と一人でやろうってのか?」
「皆、撤退して。現状を学校へ報告」
「だ、だが………」
「心配しないで。彼は私が助ける」
ユルセラは一歩進む。それに呼応するように、彼女の仲間たちはゆっくりと一歩後退した。
その光景を見て男の顔が邪悪に歪む。
「ほう? 面白れェこと言うじゃねェか。なら助けてみやがれ――ッてんだ!!」
言うと同時に、男は鎖を纏わせた拳を引き上げる。
その先には仲間の頭が。
考える間もなく、ユルセラは反射的に男の懐へ飛び込むように跳躍すると、首に狙いを定めて剣を薙いだ。
――だが、
「甘ェんだよ、小娘がッ!」
男は上体を逸らす。ユルセラが仲間に当てないように水平に剣を振ることが予想出来ていたのだ。そのまま体勢も崩れることなく、男は剣閃を躱すと同時に鎖を巻き付けた右手で剣の腹を殴り上げた。
劈く金属音。
予期せぬ反応に、一時的に無防備にされてしまうユルセラ。
「オラァ、死にさらせッ!!」
男は振り上げた右手を引くようにして身体を捻りながら、大きく足を踏み出して勢いをつけた左の拳を突き出してくる。
両腕を振り上げるような体勢になっているユルセラにそれを防ぐ術はなく、男の一撃は腹部へと吸い込まれていった。
(でも、素手ならなんとか―――)
腹に力を込める。
一瞬の後、訪れる衝撃。
――予想に反し、その瞬間に感じた痛みは生身の人間の拳から繰り出される一撃とはわけが違った。
物理的な衝撃を吸収する特殊繊維で編まれたうえに《防御強化》の魔法をかけてあるユルセラの戦闘衣は、一般の騎士が装備出来る鉄製の鎧などよりも遥かに強固な防御性能を誇る。しかしながらこの男の一撃は、そのドレスを介していても鋼鉄製のハンマーで腹部を強打されたかのような鈍い痛みを生じさせた。
ユルセラは苦痛に顔を歪めながら、突き出された左腕の勢いそのままに部屋の端まで殴り飛ばされる。重すぎる一撃に身体が対応できず、壁にぶつかることでようやく止まることが出来た。須臾のことではあるが、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息が出来なくなる。
息苦しさが解消しないままに両手を使って何とか身を起こすも、こみ上げてくるものを押さえきれずに床へと撒き散らした。吐瀉物かと思われたそれは、魔法の光に照らされて妖しく煌めく赤い液体であった。
(う………内臓が、破裂した……? あの男、本命は鎖の巻いてある右手じゃなく、左手の一撃………)
男の素手から放たれた一撃――ユルセラが持ち得る全ての防御手段を貫通して内臓を破壊するに至った攻撃は、恐らく『気』を用いた体術だろう。
『気』と呼ばれるものは魔法を運用するための『魔力』とは違い、その性質や生成方法、利用法などの多くの事柄に関して未だ解明されていない部分が多い。本当にそのような仕組みが生物に備わっているかどうかすら議論されている最中という始末なのだ。
しかし経験則として、生物――主に人間、特に雑種は、時として超人的な能力を発揮することが分かっている。今回のように、生身では到底不可能な攻撃を放つことが超人的能力の代表格だ。そういった未知の能力を使用するにあたり、『気』という体内エネルギーを用いているのではないかという考えが今では最も普及している。
シャツにネクタイ、そしてベストというおよそ戦いに向かないような軽装でやって来たように見えた男だったが、その実は『気』という目に見えない鎧を纏った戦士だったらしい。
仲間へとその事実を伝えようにも、ユルセラは痛みに声を出すことが出来ない。
「ハッ! 確かに言うだけのことはあるじゃねェか。今の一撃を受けて死なねェとは、そっちの小僧と違ってタフだな、テメェ」
男は顎をしゃくって、ユルセラの近くで仰向けに倒れている青年だったものを指す。
彼もユルセラと同じ攻撃を受けて、そして死んだのだろう。彼が死に、しかしユルセラが今も生きていられるのは、騎士学校の生徒にしては良質すぎる装備のお蔭だった。
涙で滲む視界の中、数名の生徒に囲まれた男が余裕の笑みを見せていることにユルセラは戦慄する。仲間を殺されたことに対する憤りよりも強く、男に死神を幻視してしまったのかもしれない。
手に巻き付けた鎖から連続する金属音を鳴らし、男はユルセラを嘲笑う。
「まァ、こっちの小僧は助けられなかったみてェだがな!」
男は右手を振り下ろす。
鈍い音の中に骨の折れる僅かな音が交じり、次いで湿った何かが飛び散る音が聞こえた。
男の周囲を取り囲むユルセラの仲間たちが、また一歩距離を取る。
(このままでは…………全滅は、避けられない………! せめて……せめてレファリアがいてくれれば………こんなことには……)
ここにいない仲間のことを胸に描きながら、ユルセラは剣を支えに立ち上がる。腹部に強烈な痛みが走るが、今はそんなことに構っている場合ではない。
よろめきながらも、一歩、また一歩と足を動かし、仲間の輪へと加わった。
「…………早く、撤退を」
既に彼らを縛り付けていた鎖はない。ユルセラは小さな声で一人に囁く。
その言葉を聞いた仲間の一人は、素直に受け取ることが出来ない様子だった。
「しかし、それではユルセラが―――」
「……私には、まだ……これがある」
ユルセラは大剣を握りしめる。それに呼応して、刀身の光が一層鮮やかに変化した。
「………分かった。すぐに救助を呼んでくる」
苦虫を噛み潰したような顔をしてそう言うと、彼は下りてきた階段へと走り去っていく。
勝ち目がないと判断できた仲間がそれに続き、やがて地下にはユルセラと男、それから数名の死体だけが残った。
「敵前逃亡とは、騎士の風上にも置けねェ奴らだな。しかも女だけを残していくのも感心しねェ」
男は大きく息を吸い込んで、紫煙と共に吐き出した。煙草の半分ほどが灰となって地面に落ちる。
「で、テメェのその剣が秘策ってわけか」
「…………………」
答える代わりに、ユルセラは剣に込められた力を解放する。
ユルセラの持つ剣は、未開拓地より入手された魔法道具の一種だ。未知の素材で作られたその剣には一時的に使用者の身体能力の向上と痛覚の緩慢化を促す魔法的な力が付与されている。防具も含め、これだけの装備をしている者は正規の騎士だとしてもそう多くない。
彼女本来の人並み外れた身体能力に加え剣の力がもたらす効果によって、ごく短い時間といえど自身の限界を超えた動きが可能になった。
(それでも、勝機は少ない………!)
男の身体能力はユルセラの遥か上をゆくものである。
懸念材料はそれだけではなかった。男がどれだけ自在に『気』を操ることが出来るのかも不明である以上、奥の手を見せているこちらは圧倒的に不利であるはずだ。そして何より、無理矢理に動かしている身体がいつ完全に壊れてしまうかも分からない。
ユルセラに残された道は、速攻という一手のみであった。