6-1 ~五日目:黒の波~ ナハト
狭間亭は普段とは違う慌ただしさに包まれていた。
いつも通り、店の前の井戸で水を汲み、朝食の準備をする。今日は特別にナハトが朝食準備をして、フィアーレットが客室の清掃を行った。その間にカルマとシャノアールは全身を清潔な濡れた布で拭いて、身だしなみを整えた。
ナハトの招集で全員が集まると、ナハトを除く三人は朝食を取る。食事を滅多にしないナハトは入り口近くのカウンターの内側に立ち、倉庫から様々な魔具を取り出しては小脇に抱えられるくらいの大きさをした二つの木箱へ入れていった。
「準備完了しましたよー、ナハトさん!」
「お、お疲れ様です……」
やがて木箱がいっぱいになるまで魔具を詰めた頃、カルマとシャノアールが奥の部屋から姿を現した。
二人の姿は、普段からすれば想像もつかないほど綺麗で可愛らしくなっていた。
半闇妖精種であるカルマは魔具師の仕事をしている時に着ている作業着ではなく私服を着用している。作業着ではその褐色の肌を晒すことなどほとんどないが、今のカルマの服装は割と露出の多い部類に入るものだ。狭間亭で働く従業員の中で最も背の低いカルマではあるものの、闇妖精種が持つ独特の妖艶さを確かに感じさせた。
ただ彼女の可憐な姿を見ても、別に暑いわけでもないのにどうして機能性の無さそうな服を選ぶのか、と思ってしまうナハトは女心を一生理解できないのだろう。
その隣、いつもならボサボサのままの髪の毛を垂れ流しておくか無造作に纏めてしまうシャノアールも、余所行きの今日ばかりはフィアーレットの手を借りて髪の毛を梳いてもらったらしい。まるで絹糸のようにたなびく金髪は、魔法でもかけたのではないかと疑えるような見違えようだった。
彼女の着ている服は継ぎ接ぎの襤褸ではなく、ナハトが気晴らしに買ってきたものである。白を基調としたワンピースで、その上に薄い緑色のヴェールを纏っていた。
女心を一生理解できないであろうナハトにしてはシャノアールに良く似合っていて、彼女の魅力を十全に引き出せるような出で立ちに仕上がっていた。
二人を捉え、ナハトは軽く手を上げて応じる。
「こっちも丁度終わったところだ。この木箱には使う可能性のある一通りの魔具を入れておいたから、この中から好きに選んで使ってくれ」
ナハトは二つの木箱をカウンターの上に載せた。木箱の中には魔法陣が描かれた長方形の紙や木の板、羊皮紙、液体の入ったガラス製の球体など、見る人が見れば一目で魔具と分かるような品物が詰め込まれていた。
隙間なく整頓されたそれらはナハトが綺麗好きということだけでなく、商売人としての力量をも表していると言って過言ではないだろう。商品を輸送する際に隙間なく梱包する技術は商品を傷つけないようにするために必要な技術なのである。
木箱の中身を見てシャノアールの目が大きく見開かれる。
「こ、こんなにたくさん……ですか…………」
「いや、別に全部の使い方を教えて来いって言ってるわけじゃないさ……。アクサナたち学生は貧乏だからな、大事な顧客を破産させるわけにはいかない」
今日はアクサナとの約束の日―――魔具教室を魔導院で開いてくれ、との願いに応える日だ。
交換条件にも両者納得し、ナハトは魔具教室を開催する運びとなった。
なったのだが、ナハト本人は魔導院へは行かない。少し気になることが出来てしまったためである。
「しっかり頼むぜ。間違っても狭間亭の顔に泥を塗る真似はしないように」
「分かってますってー。あたしに任せたこと、絶対に後悔させませんから!」
「わ、私も頑張ります……! ま、魔具を使うだけなら、私にも出来ますから」
意気込み十分な二人に、ナハトは満足げに頷いた。
「よし。外に石人形を二体待機させてるから、そいつらに荷物を持たせて行ってくれ」
カルマとシャノアールは頷いて、それぞれ木箱を一つずつ持ち上げる。
そうして店を出ようとする二人の背中に、ナハトは妙な胸騒ぎを覚えた。それが最近の出来事に関連することなのかは分からないが……。
「…………なぁ」
ナハトの声に、二人は足を止めて振り返る。
「どーかしましたか、ナハトさん?」
「気を付けて行って来い。危険が迫ったら魔具は全部使ってもいいからな」
普段のナハトからは予想もつかない言葉に、二人とも顔を見合わせる。
それから、
「もー、心配しないで下さいよ! あたしが付いてるんですから!」
「ご、ご心配、ありがとうございます……! 行ってきます!」
口元を綻ばせた半闇妖精種と雑種は木箱を抱えて外へ出た。
「……何も無ければいいが」
魔導院へ向かった二人とは対照的に、ナハトは苦虫を噛み潰したような表情で呟く。
その後は、倉庫から取り出した分の魔具を在庫から一時的に消去する作業が待っていたのだが―――
「ナ、ナナ―――ナハトさんっ!?」
「……あ?」
突然、フィアーレットの声が店内にこだまする。しかし視線を動かしてみても姿は見えない。
(声の出処は奥の部屋だったか?)
ナハトは、フィアーレットが自分を部屋まで呼んでいるのだと考え、店の入り口を閉めると奥へと続く扉を開いた。
そこはすぐに通路のような細長いスペースとなっており、三つの扉が目に入る。
左の一つは休憩室に繋がる扉だ。休憩室は狭間亭で一番広い面積を持つ部屋であり、食事や休憩などでフィアーレット、カルマ、シャノアールの三者がよく訪れる。
右の二つは私室となっている。そのうち通路の端に寄っている――つまり狭い部屋の――扉の向こう側が便宜上ナハトの部屋としている部分であり、もう一つの扉の向こうには三人の従業員が共同で使っている部屋が一つ。
ナハトの部屋が“便宜上”そう呼ばれているだけなのは、ナハトには休憩も睡眠も不要なためである。つまりナハトは自分の部屋を殆ど使っていないのだ。
通路に立つと、普段は使用していないにも関わらず、ナハトは迷いなく自分の部屋の扉を開けた。
そこには二名の人物がいる。
一人は従業員のフィアーレット。魔導院に行くなどの用事がないために服装はいつもと変わりなく、何着かある私服の内の一着を身に纏っていた。彼女の着用しているホットパンツから伸びる白く健康的な脚は扇情的とも思えるほど男の感情を揺さぶってくる。
「あわわ……どど、どうしましょう…………」
そんな彼女は冷静さを失い、真っ赤な顔で目元を覆ったり指の隙間から覗き見たりと慌ただしい行為を繰り返していた。
フィアーレットの視線の先にいるのは、ベッドの上で上半身を起こしている見目麗しい少年である。名は知らないが、紗のような栗毛色の髪、白磁を思わせる傷一つない肌、華奢な身体と一見すれば少女と違えてしまうような、そんな容姿。
フィアーレットが目を覆っているのは、その少年が衣服の一切を身に纏っていない所為だろう。
男の裸体など――下半身は白いシーツによって隠されているが――ナハトを含めて見たことのない初心なフィアーレットは、少年の白い肌を目にしただけでも茹蛸のように真っ赤になってしまったのだ。
仕方のない奴だ、とナハトはため息を吐く。
「フィア、お宅は出ていろ。後のことは俺がやる」
「は、はいぃ……そうさせていただきます。えっと……私はお店の方に行っていればいいですよね?」
「ああ。在庫の整理は俺が後でやっておくから、取り敢えずは店を開けておいてくれ」
「りょ、了解しましたです!」
ちょっとおかしな言葉を残して、真っ赤なフィアーレットは急ぎ足で部屋を出ていく。
彼女の背中を見送ってからナハトは少年へと視線を移した。
「…………」
少年は自らの右手を凝視している。
その右手は、禍々しい黒色に覆われていた。
光を反射して眩いばかりに白く輝く肌とは対照的に、右の上腕部中ごろから指先にかけては漆黒の皮膚に覆われていた。いや、それが皮膚であるかどうかさえ分からない。様々な種族の人間が行き交うこの都市に住むナハトでも、彼のような漆黒の肌を持つ種族とは一度も出会ったことが無いからだ。
ただし、ナハトにも彼の腕が異常な状態であることは理解できた。
雑種と思われる少年の右腕は、先端から鋭利な四本の鉤爪が飛び出ている。そして手の甲にはぼんやりと光る赤い光点。
そして―――ナハトは感じ取っていた。
その感覚は偽薬売りの男が殺されたという夜に感じたものと同じである。
つまりこの少年は偽薬売り殺しに関係している可能性がある。ナハトはそう考えているのだ。
「…………」
無言で自らの右腕へ視線を落としていた少年は、不意にナハトへ顔を向ける。
「あの、ここは一体……いや、僕はどうしてここに?」
怯えた様子もなく、読み取れない彼の表情に対し、ナハトは鋭い視線を浴びせかけた。
「その問いには答えてやる。その代わり、状況を説明したらお宅が俺の質問に答えろ。いいな?」
「……うん。お願い」
少年が小さく首肯したのを見て、ナハトは昨晩のことを思い出す―――
その夜も、ナハトは『何か』を感じ取っていた。
普段は大人しくしていただけの『何か』であったが、その夜は騒がしかった。
都市の各地で行動を開始したと思いきや、それらは一点に収束していき、宗教区の付近に集まって動かなくなった。
そうして数分後、一つの『何か』がその集団から抜け出て、通りや路地を無視して高速に移動を開始した。その『何か』は他の個体よりも大きな力を持っており、移動を始めてから狭間亭の方向へと向かってきているようだった。
ナハトは飛び出てきた『何か』が都市上空を飛行しているために道を無視して移動できているのだと考え、製作中の魔具を一本携え、《人形創造》の魔法の札で創造した石人形を四体従えて『何か』を探しに出た。
やがてその『何か』は速度を緩め、道に沿って、大きな通りを避けて行動し始める。そして最終的にはその歩みを止めてしまった。
ナハトがその『何か』のもとへ到着すると、黒いローブを纏った人間が静かに泣き崩れていた。
その人物にナハトが声を掛けようとすると、
「…………あ、あれ……?」
と疑問符を浮かべる。
その後すぐに路地に倒れてしまい、ナハトの呼びかけにも応じなかったため、こうして狭間亭に運んできたのだ。
「―――そんな事が起きてたんだ」
ナハトの説明を聞き終わると、少年は悲しげに目を伏せた。しかしそれも一瞬で、少年はすぐに表情を無に戻す。
「次はこちらの番だ。まずは―――」
「その前に、もう一つだけいい?」
「……何だよ?」
「どうして僕は裸なの?」
白いシーツに隠された自身の下半身を確認しながら、少年は頬を少しだけ赤らめる。
少年の問いは尤もだった。誰だって寝ている間に裸にされてベッドに横たわらされていたら、何か良からぬことが起きたのではないかと勘繰らざるを得ない。
だが、その勘繰りは杞憂に終わった。
「お宅が武器を隠し持っているとも限らないんでな。悪いが、丸裸にさせてもらった」
「ああ……そうなんだ。いや、別にいいけどね。助けてもらっただけマシというもんだよ」
少年は複雑そうな表情を浮かべる。
「それで、こちらの質問へ移ってもいいか?」
「うん。どうぞ、遠慮なく」
「名前は?」
「普段は名乗らないんだけど、貴方は特別。僕の名前はレファリア」
「職業は?」
「普段は学生騎士。一応、最高ランクを貰ってるよ」
「普段は? 他に何かやってるのか?」
「うん。これも誰にも言ったことないんだけど……領主直属の暗部として活動してる。いや、してた、って言うべきかな?」
「昨晩はあそこで何をしていた?」
「逃げていたんだ。敵の組織から。濃い紫の分離鎧を着た剣士とかがいてね、僕一人じゃとても相手にならなかったよ」
「分離鎧……? ……その組織というのは?」
「《深淵歩き》って言うんだけど、知ってる?」
「ああ、もちろん知ってる。俺のところの従業員がお世話になったぜ。……ということは、お宅が《深淵歩き》を四苦八苦させていたとかいう謎の男か」
「知ってるの? いやあ、光栄だね」
立て続けに浴びせられる質問に笑顔を交えながら返答するレファリア。その対応は、敵組織に敗北して逃げてきた人間のものとは思えなかった。
ナハトは違和感を覚えながらも、最も訊きたかったことを口にする。
「―――お前のその右腕は、一体何なんだ?」
その瞬間、レファリアの笑みがふっと消えた。代わりに現れたのは悲哀とも憤怒とも思える表情。
「…………」
レファリアは再び自身の右腕に視線を落とす。
彼の目には、何か汚いものを見るような侮蔑と穏やかさを感じさせる優しさとが綯い交ぜになった感情が揺らめいていた。
「……これはね」
レファリアは視線をナハトに向けることなく、ポツリと漏らす。
「僕にも何なのかはよく分かっていない」
「よく分かっていない、ということはある程度の推測は出来ているんだろう?」
レファリアはコクンと首を縦に振る。
「……悪魔だと思う」
悪魔―――
日常生活を送っていればまず聞かないであろう言葉。
突飛とも思える発言であるからか、レファリアは苦笑いを浮かべながらナハトに視線を戻す。
「……え?」
驚愕に言葉を失った彼の視界には、真剣そのものであるナハトの表情があった。ナハトの瞳は見たもの全てが深く惹き込まれるような深紅を湛えている。
ナハトにとって、レファリアの発言は突飛でも何でもなかった。
何しろ『悪魔』という単語を聞くのは二度目なのだから。
「…………。……驚かないんだね」
ぱちぱちと目を瞬かせるレファリア。
「そう言うお宅は随分と驚いているようだな?」
「それは、そうだよ。右腕が悪魔です、って言われてそれを大人しく受け入れられる人間なんていると思えないもの」
「ここにいるじゃないか」
言って草臥れた笑みを見せるナハトだったが、すぐに思い直す。
「……いや、今のは訂正だ」
「やっぱり驚いている、ってこと?」
「そこじゃない。俺がお宅という存在を大人しく受け入れられる人間である、って部分だ」
ナハトの言葉に、意味が分からないよ、とレファリアは笑顔で返す。
そして彼はそのまま可愛らしく首を傾げた。
「そういえば、貴方は僕のことを感じ取っていたと言っていたよね? つまり貴方は、何なのかな?」
彼の疑問に、ナハトは一瞬だけ考える素振りを見せる。
「……さてな」
「分からない?」
「知る必要がない。俺が何者であろうと、俺を受け入れてくれる人間がいる場所が俺の居場所だ」
あの日―――一度死んだ、あの日。
あの夜にフィアーレットがナハトへ教えてくれたことだ。
自信満々に発言するナハトを視界に収めながら、レファリアは目を細めた。
「いいなぁ……。僕にそう言える場所が欲しかったよ」
憧憬の念を抱いているような、そんな言葉。
そこでナハトは、自身が感じていた違和の原因を理解した。
レファリアは諦めていたのだ。自分の居場所であった位置へと戻ることを諦めている。もう既にあらゆることを諦め、今あるがままに身を任せようとしているのだ。
(こいつは俺とは違う。自分を失ったわけではない。だが、居場所を失いかけている)
自身の存在は確立されている。だからこそ、居場所を失うことの痛みが倍増されているのだろう。
ナハトは彼の右腕を見た。
どういう経緯があって悪魔が彼に憑りついたのかは分からない。しかし、悪魔のせいで彼は居場所を失おうとしている。
「ねぇ」
険しい視線をレファリアの右腕に送っていたナハトは、彼の呼びかけに我に返った。
「どうした?」
「……貴方が来てくれたから、僕はこうしてここにいられるのかな?」
自身にも問いかけているような口調に質問の意図を掴み損ね、ナハトは首を捻る。
そんなナハトの仕草にレファリアは乾いた笑みを浮かべた。そして補足する。
「僕ね、怖かったんだ。右腕がこんな風になってしまってからどれくらいの時間を過ごしたのかは分からない。けど、その間ずっと、僕は僕自身が失われていくようで怖かった。僕の心が、右腕と同じように黒く塗りつぶされていくような気がして……。もうみんなと一緒にいられないんだって思うと、泣けてきちゃって」
諦念を感じさせる彼の言葉の中に、僅かばかりの弾んだ音色が混じる。
「―――でも、貴方が来てくれてからは楽になった。僕の右腕……もう僕のものじゃなくなったって思っていた右腕が、こうしてまた僕の思い通りに動かせる。どうなっているのかは分からないけど、貴方がいてくれるから僕は僕でいられる。これって偶然じゃないよね?」
レファリアは整った顔で綺麗な笑顔を作る。フィアーレットとは違う方向の、同じような満開の笑み。
その表情の裏に隠された彼の想いを、ナハトは見抜いていた。
「……どうだろうな」
「いや、偶然なんかじゃない。偶然なんかじゃないんだよ。今こうして、貴方の傍に僕がいることが何よりの証拠さ」
ナハトは彼の縋るような声音に、憐憫に似た感情を抱く。
「お宅は俺を何だと思っている?」
「分からないし、知らなくていい。貴方も言ってたし」
「確かに言ったが、いつまでも知らなくていいということじゃない。知る必要はないが、知らなければならないんだ。俺の仲間に迷惑はかけられない」
いつか大きな事件に巻き込まれた時、何も知らなかったでは済まされない。ただでさえ得体の知れない人間―――分離鎧の女から目を付けられているのだ、自分がどれほど迷惑な存在なのかは推して知るべきだろう。
だからこそ、ナハトは自身について知る決意を固めていた。
少なくとも分離鎧の女はナハトについて知っている。ならばその女を煮るなり焼くなりして答えを教えてもらおうじゃないか。そんな風にナハトは考えている。
その決意を聞いてなのかは分からないが、レファリアは突然ベッドから起き上がると、ナハトに駆け寄って抱き付いた。
フィアーレットが覗いていたら一大事になっていただろうな―――下らないことを考えながらもナハトは彼の身体を甘んじて受け入れる。
「……ほらね。貴方とこうしてくっついていると、ベッドで寝ている時よりも落ち着いていられるよ」
少女のような容姿の裸の少年に抱き付かれ、甘い声で自分を求められる。
栗色の髪からはふわりと花のような芳香が広がり、ナハトの鼻孔をくすぐった。
男女問わず顔を赤らめてしまうような行為だが、それでもナハトは微動だにしない。この行為がナハトを籠絡しようとしているものだと、頭の隅で理解しているからだ。
何の反応も示さないナハトにレファリアも効果がないと分かったのか、ナハトを抱きしめる両腕に力がこもった。
「……貴方は、僕にとっての救世主なんだ……。貴方がいてくれればこの右腕も抑えられる。僕は僕のままでいられる。僕は居場所を、一番大切な場所を失わずに済む……!」
言葉を重ねるたびに、徐々に嗚咽が混じってゆく。
ナハトの服も、彼の瞳から零れ落ちる悲哀の透明に濡れていった。
「僕を……僕を捨てないで……! もう、行き場がないんだ……!」
その言葉を最後に、レファリアの涙腺は決壊した。
声こそ立てなかったが、溢れ出る涙を抑えることが出来ないようで、ナハトの胸元は彼の涙を吸い込んでいく。
レファリアはまだ人間として、騎士として生きる道を捨ててはいなかった。捨てることが出来なかった。自分の居場所がそこにしかなかったからだろう。
右腕を放棄すれば悪魔に侵蝕されることもなく、これからも人間として生きていけるだろうが……それでは戦いには身を投じることが出来なくなってしまう。領主直属の暗部や学生騎士などといった戦中に身を置かねばならないレファリアの居場所へは、帰ることが出来なくなってしまうのだ。
(哀れだな)
彼の悲哀に暮れる姿を見てもナハトは同情しなかった。ただ一つ、哀れみという感情が心の奥深くに沈んで、酷く冷徹な眼差しをレファリアへと注いでいた。
今、ここにある彼が、彼の人生そのものなのだ。彼は様々な取捨選択を行い、様々な苦難を乗り越えてここまで来たはずである。つまり今ある彼が全ての行動の結果なのだ。
その結果を変えようと必死にナハトに縋る彼の姿は、あまりに哀れで、見ていて気持ちの良いものではなかった。まるで子供のようで、まるで醜悪な命乞いの様を見せ付けられているようでもある。
この都市で普通に生きてきた商人としてのナハトならば面倒事に巻き込まれたくない一心で彼の頼みを一蹴したことだろう。
だが―――
「安心しろ。もちろん、捨てたりはしないさ」
今のナハトは違う。単なる商人のナハトではない。
もしもこの少年の悪魔を自分の力で抑えられるなら。もしもこの少年を意のままに操ることが出来るなら。
それは強力な駒となり得る。この少年には、まだ利用価値があるのだ。
ナハトの甘言に釣られてレファリアは小さな身体を強張らせる。そんな彼を、ナハトは優しく抱きしめた。
「ぅ……あ、ありがとう…………ありがとう……!!」
嗚咽に混じって感謝の言葉を口にするレファリア。彼はナハトの腕の中で静かに泣き続けた。
「楽になるまで泣くといいさ。戻れるようになるまで、ここがお宅の居場所だ」
その背中を、ナハトはゆっくりと撫で下ろす。
静かな時間がナハトの私室に流れた。
―――ナハトの瞳には確かな決意が、口元には邪悪な笑みが湛えられていた。
そのことに気付くわけもなく、レファリアは温かさの中で静かに涙を流し続けた。




