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狭間のアンテルヴァル  作者: 小木雲 鷹結
無貌の者たち(下)
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エピローグ ~心機一転 新規一店~

 リーゼロッテがこの世からいなくなった、あの日。

 分厚い鼠色の雲が天を覆い尽くし、都市を汚した血肉を雨が洗い流したあの日、セルジュは暴走したリーゼロッテを殺した。

 彼女の亡骸に抱き付いてユーリアは泣いていたが、今度は蘇るようなことはなかった。そうしてユーリアの涙が枯れた頃、頬を伝うものが雨なのか涙なのか分からなくなった頃に、『桃髪鬼』を伴って『雑貨屋』は現れた。

 彼は動かなくなったリーゼロッテの体に手をかざすと、彼女を溶かし、喰った。

 溶かして、とは言うが、別にグロテスクな映像が見えたわけではない。そう表現するのが妥当な光景であっただけだ。リーゼロッテは空間にゆらゆらと溶けだし、今にも消えそうな彼女が『雑貨屋』の手に吸い込まれた。その光景を見て、セルジュは彼女が喰われたのだと悟った。

 後悔はしていなかった。後悔などしてもリーゼロッテは浮かばれないだろう。選択肢だって一つしかなかったのだ、セルジュには、彼女を殺すという道しか選ぶことが出来なかった。結果として、ドヴォラクの願いを叶えることは出来ず、ユーリアの大事な人を奪ってしまったことになる。

 それでもユーリアとドヴォラクはセルジュのことを責めなかった。むしろ、よくやってくれた、と言う始末だ。

 セルジュはその言葉を呆れ顔で聞き流し、そんなセルジュの態度を見て二人は笑った。それからセルジュは、ドヴォラクが狭間亭のカウンターの下から取り出した果実酒を煽った。それだけじゃない、ドヴォラクは倉庫からも酒を持ってきて、気分を紛らわせるにはこいつが丁度良い、とグラスに注いで勧めてきた。ユーリアは酒に強いわけでもなかったが、悲しみを隠すためか、グラスを一息に飲み干した。

 ……その後、セルジュとユーリアが飲んだ酒について『雑貨屋』に言及され、狭間亭を手伝うことになってしまったのは計算外だったが。

 どうやらセルジュとユーリアはドヴォラクに騙されたらしい。よくよく考えてみれば、あのトカゲ野郎だけは酒に手を付けていなかった。思考力の鈍るおやつは好きじゃねぇんだ、とかなんとか昔に言っていたのを覚えていたセルジュは特におかしいとは思わなかったが、まさかそんな裏があったとは。おそらく『雑貨屋』と密約でも交わしていたのだろう。

 次に会ったら尻尾を切り落として干物にしてやろうか―――そう考えていたのが今朝のこと。

 早速ドヴォラクを見つけたセルジュが鬼の形相で彼に迫ると、そのデカい図体の背後から嗜虐的な笑みがこちらを見ていた。

 さらにはユーリアまで一緒にいて、「今から呼びに行くところだったんだ」と『雑貨屋』に言われたセルジュは何をさせられるかも分からぬままに連れられた。

 そうして《深淵歩き》一行は、狭間亭の隣、直角の曲がり角を作っている空き家に集められている次第である。


「―――というわけだ」


 『雑貨屋』が事のあらましを長々と述べ、酒瓶の並べられた棚を背中にそう締めくくる。

 その話を聞いて、セルジュは嫌そうな顔をしながら煙を吐き出した。

 短気な彼が『雑貨屋』の話を最後まで大人しく聞いていたのは、何を隠そう、念願の煙草を『雑貨屋』に与えられたからだった。先日まで騒動で忙しかったにも(かかわ)らず、すぐに煙草という入手しにくい嗜好品を手に入れるあたり、この男の商才というか人脈の広さというか、そういうものを見せ付けられている気がする。

 彼の話の内容に相まってそのことも気に食わなくて、セルジュは煙草を口から離すと舌打ちした。


「要約すると、俺様たちはここで酒場みてェなもんを経営しろってことか?」

「ズバリその通り。いやー、狭間亭が人気(にんき)ないのってそこかな、と思ってたところでだな。ちょうど働いてくれそうな男も手に入ったし、客層が確保できそうな外見の人間も揃ったことだ。取り敢えずお試しってことで、この空き家を借りた」


 なんて面倒なことを……と内心で再び舌打ちをしたセルジュの隣で、歓声と両手が上がる。


「やったー! ユーリア、こういうお仕事してみたかったし! ねね、セルジュもそうでしょ?」

「アン? 俺様は別に―――」


 包帯の巻かれた手で煙草を(くわ)え直しながら、ユーリアに白い眼を向けるセルジュ。

 無邪気な笑顔を見せる彼女。いつもウザったいと思っていたユーリアのそんな表情も、久しぶりに見ると感慨深いものを感じる。

 が、同時に、僅かながら違和も感じた。

 彼女は、心の底から笑っていない。リーゼロッテを喪った彼女の心に開いた穴は塞がる気配など微塵もなく、しかし彼女はセルジュやドヴォラクに心配をかけないようにと気丈に振る舞っているのだ。

 煙草を銜えたまま、溜め息と共に煙を吐き出す。


「―――仕方ねェ、付き合ってやるよ」

「おおー! セルジュが素直だ!」

「テメェな……」


 前言を撤回したい。気丈に振る舞っているのが半分で、セルジュをからかって楽しんでいるのが半分だ。そうだった、ユーリアという少女はそういう風に出来ているのだった。

 げんなりと肩を落とすセルジュとは対照的に、どこか嬉しそうなドヴォラクがカウンターに置いてある木製のコップを大きな両手で弄ぶ。


「裏社会を席巻(せっけん)する《深淵歩き》の幹部たちが、今度は酒場の経営に精を出すってぇわけか。悪くねぇ冗談だな、若造」

「お宅のような老いぼれにはピッタリな老後を送れそうだろう?」


 言われて、ドヴォラクは喉を鳴らして笑った。


(ちげ)ぇねぇ! そんで、俺は何をやらされんだ?」


 ドヴォラクがコップをカウンターの上に置くと、『雑貨屋』はそれを手にしてカウンターの下から白い布を取り出す。


「カウンターだよ。デカい図体でウェイターなんかやられた日には大変なことになる」

「そりゃあ悪かったな。カウンターでも同じことが言える気がしねぇでもねぇが」

「心配するな。カウンターに出入りするのは、お宅を除けば魔法従者(オートマタ)だけだ。奴らは命令に忠実だからな、お宅がどれだけ愚図野郎でも邪魔にはならないさ」

「そんじゃあ、まず手始めにお前さんのその口の悪さを直すように命令させてもらうとするぜ」


 ふん、と『雑貨屋』は鼻で笑った。

 そんな二人の会話に少々不安なものを感じたセルジュは、煙草を灰皿に押し付ける。


「おい、『雑貨屋』。今の話を聞く限りじゃ、俺様はウェイターをやるってことになってるみてェだが?」

「当たり前だろう? 露出多めの幼気(いたいけ)な少女なら屈強な開拓者たちを釣れるだろうが、なにも開拓者は男だけじゃない。お宅は女開拓者やら、あとは……男色家やらを釣るための要員だな」


 何を言っているのだ、この男。まさか、そんなことを言われてまでセルジュがウェイターをやるとでも思っているのだろうか。そうだとしたら、リュイドベル並みにイカれてる。


「美男子セルジュ、狭間亭にて人気ウェイターになる」


 ユーリアの呟きがセルジュの眉間に皺を寄せた。


「……(わり)ィが、俺様は下りる。元々テメェに恩があるのはドヴォラクだけのはずだ。俺様がテメェの指図に従う必要はねェ」

「酒をしこたま飲んだだろうに」

「あれはトカゲ野郎に騙されただけだ。俺様は関係ねェ」

「騙したとは人聞きの(わり)ぃことを」


 (うそぶ)蜥蜴人種(リザードマン)を鋭く睨みつければ、おいおいやめてくれよと言わんばかりに両手を上げて降参の意を示す。

 二本目の煙草を取り出し火を着けたセルジュに、悩む様子を見せていた『雑貨屋』が笑みを見せた。

 ……あの笑みは良くない笑みだ。


「だけど、ユーリアはやる気だぞ?」

「……チビと一緒にすんじゃねェ。そもそも俺様は、開拓者の屑どもは好きじゃねェんだ」

「その屑どもに、ユーリアが手出しされるかもしれないな?」

「えぇー!? それはちょっとヤダかも……」


 ユーリアが身体を抱いて身を逸らす。

 彼女を出汁にしてくるとは、やはり『雑貨屋』は容赦なく人の弱いところを突いてくる嫌な奴だ。リーゼロッテを殺してしまったこと、奪うことしか出来なかったことに関してユーリアに負い目を感じている部分を見抜いているのだろう。と、犯罪組織に属していたセルジュが思うのもお門違いかもしれないが。

 セルジュはドヴォラクに目を向ける。

 しかし彼はやれやれと肩を竦めた。


「デカい図体の愚図野郎が歩き回ってるんじゃあ、店は回らねぇぜ?」

「……チッ。やりゃあいんだろ、やりゃあ」

「分ればいい」


 鷹揚に頷いて、『雑貨屋』はコップと布をカウンター下に仕舞った。


「まあ、これだけじゃ人手が足りないだろうからな。お宅らの他にも二、三人は確保してある」


 出て来い、と彼がカウンター奥の通路――おそらくは厨房に繋がっているのだろう――に声をかけると、そこから一人の女性が現れる。

 出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる、妖艶な肢体。だがそれほど大人びているというわけでもなく、あどけない顔立ちをした狐尾種(フォクシウス)の少女だ。

 その狐尾種(フォクシウス)は給仕用の制服に身を包んで登場した。フリルの付いた白いエプロンと、同じくフリルの付いたカチューシャが特徴的な制服だ。耳が頭頂部付近についている狐尾種(フォクシウス)にカチューシャを着用させるのはどうかとは思うが―――

 …………まさか、自分もあれを着るのか?

 なんて考えに、疑問は一瞬にして吹き飛んだ。


「おお! おおっ!」


 目を輝かせたユーリアはセルジュの心配など知りもしないで狐尾種(フォクシウス)の傍に駆け寄り様々な角度から彼女を眺めている。

 見られて緊張しているのか、ぎこちない動きで彼女は腰を折った。


「ア、アクサナです。よ、よろしくお願いするであります……」


 二本の尻尾がピンと伸びる。


「ねね、触ってもいい?」

「い、いいけど……」


 アクサナが顔を赤らめながら答えると、ユーリアは満面の笑みで彼女の尻尾に手を伸ばした。


「わあ、フワフワだ! フサフサだ!」

「尾が二本しかねぇ狐尾種(フォクシウス)なんて珍しいじゃねぇか」

「特別な事情があるんだよ。あまり触れてやるな」


 興味深そうに眺めるドヴォラクに『雑貨屋』が釘を刺す。どうやらアクサナは特別な事情とやらを教える程度には『雑貨屋』と親しい付き合いをしているらしい。

 セルジュは煙草を(くわ)えてぼんやりと思う。どこで道を踏み誤ったのか、とか。この煙草はあまり美味くねェな、とか。いわゆる一つの現実逃避だ。

 ユーリアとドヴォラクがアクサナに他愛のない質問を投げかけている最中に、『雑貨屋』がパンパンと手を二回叩いた。


「さて、今日は最後にもう一人だけ紹介しておく。出て来い」


 彼が指を鳴らして、厨房に繋がる通路から制服を身に纏った人影が現れる。

 ―――その姿を見て、セルジュは吸いかけの煙草を口から落とした。


「じゃじゃーん!」


 唖然として固まるユーリア、ドヴォラク、そしてセルジュ。

 沈黙が立ち込める中、最も長い年月を生きてきた蜥蜴人種(リザードマン)がようやく口を開いた。


「―――リーゼ、ロッテ?」


 そう。

 リーゼロッテが、あの日確かに殺し、そして『雑貨屋』に喰われたはずのリーゼロッテが、とても元気そうな姿を見せたのだ。

 黒かった腕は、白く。赤く染まっていた双眸も、元の色に。

 暴走していた時の残滓を微塵も感じさせない姿は、かつてのリーゼロッテそのものだった。


「どうどう? 似合うかな、この制服!」

「……リーゼロッテっ!!」


 感極まったユーリアが震える声で片割れに抱き付いた。そんな彼女を、リーゼロッテは笑顔で迎える。大声で何度もリーゼロッテの名を呼び泣いているユーリアに胸を貸してやっていた。

 同じくドヴォラクも、珍しく潤んだ瞳でリーゼロッテに近づいて頭を撫でてやった。リーゼロッテは嬉しそうに笑い、ドヴォラクの頬を一筋の涙が流れる。

 …………だが、セルジュは気付いていた。

 彼女の存在の、その違和感に。


「……本物だったらユーリアが気付かねェはずがねェ。答えろ、『雑貨屋』。アレは一体何だ?」


 ユーリアは、いわばリーゼロッテの箱である。その話はドヴォラクから聞いた。

 あの日、彼女が外壁広場へ走ってきたのだってリーゼロッテの存在を感じ取ったからだ。リーゼロッテがどこにいるかを感じ、誰かを頼ることなく自分一人の感覚で外壁広場までたどり着いた。

 しかし今、彼女はリーゼロッテがカウンターの向こう側にいることに気付いていなかったではないか。これはつまり、アレが、あそこにいるリーゼロッテのようなもの(・・・・・・)がリーゼロッテではないことを意味しているはずである。

 セルジュの問い掛けに、『雑貨屋』は口角を上げた。


「リーゼロッテそのものだよ。ただし、お宅らが見ていたアイツとは少し違う……リーゼロッテという単体じゃなく、あれは俺の一部分だ」

「テメェ……どうして…………」

「会いたかったろう? だからこうして会わせてやったんだよ」


 深紅の双眸が見つめてくる。

 初めて見据えた彼の瞳は、深く、どこまでも深く、まるで深淵に呑み込まれるような、そんな錯覚すら覚えてしまう。


「忘れるな。俺は、悪魔だ。《大地信仰》にすら御し切れないほどの」


 ―――にやり、と彼の笑みが歪む。

 その表情が、セルジュの背筋に悪寒を走らせた。

 おそましい、故知れぬ恐怖が、心の底から湧き上がってくるような感覚に囚われる。


「いつか都市を滅ぼすかもしれない―――ま、その時は頼んだぜ」


 耳元で囁かれたその言葉。

 その悪魔の言葉に、《深淵歩き》のセルジュはただ、生唾を飲みこむことしか出来なかった。

 深淵を覗く勇気など、湧いてこなかった。


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