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婚約破棄おめでとうございます、と周囲が泣きながら言ってきます  作者: 秋月 もみじ


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第7話 断りたい、という気持ちが先に来て、理由が後からついてこなかった


招聘状が届いたのは、朝の作業を始めてすぐのことだった。


差出人はヴォルハルト王国、国立魔道具研究院。院長の直筆署名入り。封を開けると、丁寧な文体で三枚にわたる内容が続いていた。


読んだ。


研究費は上限なし。専用の設備室を用意する。助手を三名つける。王都への移住支援も行う。招聘の期間は最低三年、延長は本人の意向に従う。


待遇として、破格だった。


前職の感覚で言えば、業界トップの企業からヘッドハンティングされた、に相当する。断る合理的な理由がない。いまの研究所は設備も予算も自前で、助手もいない。向こうの条件と比べれば、どこをとっても劣っている。


読み終えて、便せんを折り畳んだ。


断ろうと思った。


(……なぜ?)


自分で考えて、自分で止まった。


なぜ断ろうと思ったのか。理由を探した。設備が悪いわけではない。研究の方向性に問題があるわけでもない。隣国が信用できないという根拠もない。院長の評判を聞いた限りでは、誠実な人物だという話だった。


断る理由が、出てこなかった。


◇◇◇


昼過ぎまで設計作業をしたが、いつもより集中が続かなかった。


試算表の数字を確認しながら、頭の別の部分が「なぜ断りたいのか」を考え続けていた。そういう状態は初めてだった。言語化できない感情は保留にして次の作業に移る、というのがいつものやり方だったが、今日は保留にするたびに戻ってきた。


条件が良すぎる、という感覚ではない。

何かが惜しい、という感覚に近かった。


何が惜しいのか。


研究所は始めたばかりだ。設計書はまだ一枚しかない。愛着と呼べるほどの時間も積んでいない。惜しいと感じる対象として、研究所は弱すぎる。


もう一度、考えた。


出てこなかった。


ペンを置いた。窓の外の秋の空が、均一な水色をしていた。


閣下に聞いてみよう。


思った瞬間に、少し不思議な気がした。なぜ閣下に、と考えたが、業務上の判断として外部の評価を聞くのは合理的だ、という結論が出たので、そういうことにした。


◇◇◇


王城の宰相執務室を訪ねたのは、午後の遅い時間だった。


通常、事前の約束なしに訪問するべき場所ではない。受付の官吏に取り次ぎを頼んだところ、思ったより早く「どうぞ」という声がかかった。


執務室は広かった。壁一面の書架。中央に大きな執務机。書類が几帳面に積まれている。


クロード閣下は机に向かっていた。ペンを動かしながら、視線を書類に落としたまま言った。


「ヴァレンティン嬢。試算表に問題がありましたか」


「いいえ。別件です」


「承りました。どうぞ」


「一つ、業務上の判断として聞いていただけますか」


ペンの動きが、わずかに止まった。


「業務上の」


「はい。個人的な相談ではなく、外部評価の確認として」


「……承りました」


招聘状の概要を説明した。差出人、待遇の内容、返答の期限。できるだけ簡潔に。閣下は書類に目を落としたまま、短い相槌を挟みながら聞いていた。


説明が終わった。


「ご意見を聞かせていただけますか。条件として、問題はありますか」


「先方の信用という意味では、問題ありません」


「研究の方向性として、障害はありますか」


「現時点では確認できません」


「そうですか」


「……どうされるつもりですか」


その問いは、少し早かった。


閣下の声のトーンは変わっていなかった。敬語も崩れていなかった。ただ、ペンが止まっていた。書類から、目が上がっていた。


初めてだった、と思った。

相談を始めてから、閣下が書類から目を上げたのは。


左の肩甲骨の内側が、かすかに強張った。

何かが変だった、とは感じた。何が変なのかは、特定できなかった。


「断ろうと思っています」


「理由は」


「それが」


少し止まった。


「理由が、言えません」


「言えない、というのは」


「言語化できていないという意味です。断りたいという気持ちはあるのですが、根拠が出てきません。業務上の判断として相談に来たのですが、そもそもの前提が整っていなくて、申し訳ありません」


閣下が、黙った。


短い沈黙だった。何を考えているのかはわからなかった。やがて、静かに言った。


「理由が言えたときに、また教えてください」


「……それは、どういう意味ですか」


「そのままの意味です」


それ以上の説明はなかった。


閣下の視線が、書類に戻った。


◇◇◇


研究所に戻ると、外はもう暗くなっていた。


ランプをつけた。試算表を広げた。暖炉カバーの設計書を脇に置いた。いつもの夜の配置だ。


「理由が言えたときに、また教えてください」


閣下の言葉が、もう一度頭の中で鳴った。


理由が言えたとき、ということは、いつか言える、という前提で話していたことになる。なぜそう思ったのか、閣下に聞くべきだったかもしれない。


でも聞かなかった。


聞けなかった、の方が正確かもしれない。


ランプの火が、小さく揺れた。


(理由、何だろう)


招聘状は机の引き出しに入っていた。返答期限まで、あと一ヶ月ある。


断りたい。

その気持ちは、今も変わっていない。


理由は、まだ出てこなかった。

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