第6話 返事は短いほどいい、というのが前職での鉄則だった
翌朝、封書を開けた。
ルドルフ殿下の筆跡だった。
読んだ。
丁寧な書き出しから始まって、中頃に謝罪の言葉があって、末尾に要件があった。「婚約破棄を白紙に戻したい。戻ってきてほしい」。それだけだった。追伸に「貴女の能力を改めて評価している」とあった。
封書を折り返した。
(面倒だな)
怒りが来ると思っていたのに、来なかった。代わりに来たのは、前職で筋違いのクレーム対応をしていたときに似た、静かな疲労感だった。感情として正しいかどうかはわからないが、そういうものが来た。
机の引き出しから便せんを一枚取り出した。
返事を書く。
短く。
前職での鉄則は「返事は短いほどいい」だった。長い文章は感情を読まれる。余白を作ると解釈される。一文で終わらせれば、交渉の余地がないとわかる。
ペンを持った。
書く前に、少し止まった。
なぜ止まったのかは、よくわからなかった。文面を整理していたのだと思う。そういうことにして、書き始めた。
「戻る気はありません。研究は楽しいです。お気遣いなく。私にはまだ、設計したいものが山ほどあります。」
読み返した。
問題なかった。
折りたたんで封をした。
◇◇◇
昼前に、クロード閣下が試算表の確認で研究所に来た。
「一つお願いがあります」
「はい」
「これを、殿下へお渡しいただけますか。閣下経由で届けるのが適切かと思いまして」
封書を差し出した。閣下が受け取った。表書きに目を通した。
「……承りました」
「お手数をおかけします」
「いいえ」
それだけで終わるかと思ったが、閣下は封書を手に持ったまま、少し止まった。
「読んでも、よいですか」
「構いません。返す返さないの証人になっていただいた方が、後々楽ですので」
閣下が封を開けた。
便せんを広げた。
読んだ。
間が、あった。
「……見事です」
「ありがとうございます」
何が見事なのか、正確にはわからなかった。文面の簡潔さか、それとも別の何かか。聞こうとして、閣下がすでに試算表の方へ視線を移していたので、やめた。
業務的な評価だろうと思った。
思ったのだが、なぜか「ありがとうございます」の後に何か言いかけて、止まった。
何を言いかけたのかは、自分でもわからなかった。
◇◇◇
午後は一人で作業をした。
暖炉カバーの設計書、初稿の仕上げだ。魔力変換素子の配置を最終的に決めて、素材の仕様を書き込んで、余白の計算式を清書した。
窓の外では秋の光が傾いていた。
ペンを置いた。設計書を正面に置いて、少し眺めた。
最初の一枚だ。
婚約破棄から二十日で、研究所名義の最初の設計書が一枚できた。題名のところに「暖炉用魔力変換カバー・試作一号」と書いてある。提出先の欄は空白だ。どこかに出すためではなく、作りたいから作った設計書は、初めてかもしれなかった。
(……いい仕事だった)
自分で言うのもどうかとは思ったが、事実として、よくできていた。予算の制約がなかった分、素材の選択に余裕があった。機能の優先度を自分で決められた。修正指示が来ない。
五年間で一番、自分の設計書らしい設計書だった。
◇◇◇
**◆ 幕間 クロードの独白**
執務室に戻ってから、三度、書類を読み間違えた。
自覚があった。珍しいことだった。
引き出しから断り状を取り出して、机の上に広げた。
「戻る気はありません。研究は楽しいです。お気遣いなく。私にはまだ、設計したいものが山ほどあります。」
短い文だった。それ以上も以下もなかった。
感情の温度が、どこにもない。
見事だと思った。それは本当のことだ。
問題は別のところにあった。
ヴァレンティン嬢は、この断り状を書く前に、少し止まった。ペンを持って、紙を前にして、一拍。止まった。
なぜ止まったのか。
文面を考えていたのだとすれば、それで説明はつく。しかし、あの止まり方は、文面を考える間とは少し違った気がした。
気がした、というのは、確信がないということだ。
こういう状態は得意ではない。論拠のない推測は業務の妨げになる。わからないことは、わからないとして保留するのが正しい。
断り状を折りたたんで、引き出しに戻した。
明日、殿下に届ける。それが仕事だ。
残り六十八日。試算表の確認を続けなければならない。
それだけを、考えることにした。




