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婚約破棄おめでとうございます、と周囲が泣きながら言ってきます  作者: 秋月 もみじ


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第5話 計算したら、国が止まることがわかった


翌朝、閣下は約束通り午前に来た。


今度は紙の束ではなく、小さな手帳を持っていた。それと、私の研究所の設計書目録。先週、魔道具省に提出した書類の写しだ。なぜ持っているのかを聞こうとして、「保管するのが仕事」という昨日の答えを思い出したので、やめた。


「魔道具法第七条の確認ですが」


「はい」


「まず一点。ヴァレンティン嬢は、魔道具省への設計者登録をされていましたか」


「……していません」


「そうですね。確認しました」


手帳に何かを書き込んだ。


「ただし」と閣下が続けた。「第七条の適用要件は登録の有無ではありません。実際に設計に関与したかどうか、です」


「……」


「昨日お渡しした照合記録が、その根拠になります」


作業台の端に、昨日の束がまだ置いてあった。


つまり。


「つまり、私が婚約を解消した時点で、設計者の縁が」


「切れます」


「九十日後に、機能停止が」


「起算日は婚約破棄の日です。今日で十八日が経過しています」


頭の中で引き算をした。


「残り、七十二日」


「はい」


◇◇◇


午後の光が窓に差す頃には、机の上が紙で埋まっていた。


設計書の目録と、魔道具省の台帳と、閣下の手帳の書き写しが並んでいた。私が書き込んだ試算のメモが、余白のあらゆる場所を埋めていた。


街灯。浄水場の循環ポンプ。医療施設の暖房魔道具。王城の照明系統全般。


「……これ全部、私の設計書が関係しているんですか」


「はい」


「王城だけで何基ありますか」


「三十七基」


「市内は」


「台帳で確認した限り、二百十四基」


二百十四。


思わず手が止まった。数字は把握していたつもりだったが、こうして声に出して聞くと、重さが違った。


「浄水場は」


「主要三箇所。いずれも排水機構の一部に貴女の設計が組み込まれています」


奥歯の付け根が、じわりと痺れた。


怒りとか焦りとか、そういう名前のつくものではなかった。強いて言えば、デバッグ作業の途中で、想定より影響範囲がはるかに広かったと気づいたときの感覚に、近かった。


「私一人の設計書で、そこまで」


「五年分です」


「……なるほど」


なるほど、と言いながら、全然なるほどではなかった。しかし他に言葉がなかった。


閣下が手帳を開いたまま、こちらを見ていた。感情の読めない目だった。責めているわけでも、困惑しているわけでもなさそうだった。ただ、見ていた。


「解決策の試算を出せますか」


「出せます」


答えた後で、なぜそう即答したのか少し考えた。


これは設計課題だ。

規模が大きいだけで、構造は同じだ。何が止まって、何が止まらないかを整理して、優先度を決めて、対処の順番を決める。前職でシステム障害のトリアージをやっていた経験が、今になって動き始めていた。


「何から始めますか」


「台帳を機能の重要度で分類します。人命に関わる設備を最優先に」


「承りました」


閣下が椅子を引いた。

手伝う気らしかった。


◇◇◇


気づいたら、外が暗くなっていた。


「……ずいぶん遅くなりましたね」


手元の試算表から顔を上げると、研究所の窓に夜の色が張り付いていた。使用人が置いていったランプが一つ、机の端で揺れている。


「このくらいは問題ありません」


閣下が言った。インクを換えながら、淡々と。


「閣下は徹夜作業に慣れているのですか」


「業務上、必要なことがあります」


「そうですか。私も慣れています。前の職場が激しかったので」


「……そうですか」


今度の「そうですか」は、最初のそれと少し違った。


一拍、あった。

ごく短い間だったが、確かにあった。


何か言いかけた。そう聞こえた。

それ以上の言葉が来なかったので、試算表に目を戻した。


重要度Aの設備、二十三基。残り六十九日。今夜の作業で十八日目が終わる。


「医療施設の暖房を最優先にします。次が浄水場。街灯は人命への影響が間接的なので三番目に」


「妥当です」


「七十二日は」


言いながら計算した。


「短くはないですが、長くもない。急ぐ理由はありますが、焦る理由はないです」


閣下がペンを置いた。こちらを見た。


「違いを、教えてもらえますか」


「急ぐのは期限があるから。焦るのは対処法がないから。対処法はあるので、焦りません」


短い沈黙があった。


「……なるほど」


閣下も「なるほど」と言った。

なぜかそれが少しおかしくて、私は試算表の端の余白に「重要度A:23基、優先順位確定」と書き込んだ。


◇◇◇


翌朝、閣下が研究所に封書を持ってきた。


「ルドルフ殿下からです。お渡しするよう頼まれました」


「……殿下から」


「私は中身を存じません」


封書を受け取った。手のひらに乗る重さだった。厚くはない。


閣下は「では」と言って、いつも通りの足取りで出ていった。


扉が閉まった後、しばらく封書を持ったままでいた。


開ける気に、なれなかった。

なぜなのかを考えようとしたが、答えが出なかったので、試算表の続きを広げた。


手の中の封書は、机の隅に置いた。

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