第4話 五年分の記録を、他人が持っていた
研究所の朝は、静かだった。
実家の離れを一室借りた。前の住人は物置として使っていたらしく、荷物を出したら思いのほか広くなった。窓が東向きで、午前中は光が入る。それだけで十分だった。
設計台に向かって、暖炉カバーの下書きを広げていた。
魔力変換素子の配置を三パターン試して、二パターン目の余白に計算を書き込んで。ふと気づくと、一時間が過ぎていた。前職では集中できる時間が細切れにしか取れなかった。まとまって考えられる、ということの贅沢さを、じわじわと実感していた。
(これが普通の仕事環境か)
などと思っていたところで、扉を叩く音がした。
◇◇◇
「失礼します」
入ってきたのは、黒い礼服の男だった。
クロード・エイモス。王宰相。三十二歳。昨日も一昨日も会っていないが、申請書の直筆決裁を経由して、なんとなく存在を意識していた人物だ。
「視察です」
「……視察、ですか」
「魔道具省管轄内の研究施設の設立状況を確認する義務があります」
言いながら、手に持っていた紙の束を作業台の端に置いた。
厚かった。相当の枚数がある。
「こちらは」
「照合記録です」
私が手を伸ばすより先に、クロード閣下が上から一枚めくった。日付が見えた。五年前の日付だ。その下にも日付がある。さらにその下にも。
「ヴァレンティン研究所に関係するものではありません。参考資料として、お持ちしました」
「参考、の」
「魔道具省に保管されていた設計書の、筆跡照合結果です。五年分」
束の最初のページを、閣下が正面に向けた。表に項目が並んでいる。日付。設計書の題目。提出者名。照合結果。
提出者名の欄は全て「ヴァーゲナー王家宮廷魔道師課」となっていた。
照合結果の欄は全て「ヴァレンティン嬢筆跡と一致」となっていた。
「……これは」
声が、少し間抜けな出方をした。
「五年分です」
閣下の声は平坦だった。
ページをめくった。
また同じ形式。また同じ照合結果。
一枚、二枚。十枚。三十枚。
全部、同じだった。
日付だけが変わって、設計書の名前だけが変わって、照合結果は変わらなかった。
全部が、ここにある。
五年分。全部、私の筆跡。
怒るべきだと思った。なのに怒りが来ない。
頭の中で計算が始まった。五年間、週に一回以上。提出した設計書の総数を弾き出そうとした。
待って。
これは、私が書いた。全部。
じゃあ今まで私はずっと、「補助要員だから当然だ」と処理してきた。でもこれだけの量を、補助要員が一人で? 違う。これは補助じゃない。最初から、私が——
首の付け根の内側が、じわりと熱くなった。
処理してきた、のか。
それとも、処理させられてきたのか。
答えが出る前に、閣下が静かに待っているのが視界の端に入った。何も言わなかった。急かすでもなく、説明を加えるでもなく、ただそこに立っていた。
ページをめくる手が、止まった。
「なぜ、保管していたのですか」
顔を上げずに聞いた。
「保管するのが、宰相の仕事です」
答えが返ってくるまでに、間はなかった。
短い答えだった。それ以上も以下もなかった。
閣下が宰相に就いたのは四年前だと聞いていた。就任以前の分も束に入っていた。前任者の記録を引き継いで、整理して、照合まで行っていたということになる。
「そうですか」と言おうとして、喉の手前で止まった。
「そうですか」と言うのが正しい気がしたし、なぜかそれだけで終わらせていいかどうか、よくわからなかった。
沈黙が、少し続いた。
◇◇◇
閣下は束を机の上に残したまま、室内を一周した。設計台を見た。窓を見た。棚の資材を確認した。視察、というのは言葉通りだったらしい。
「設備は足りていますか」
「今のところは」
「不足があれば申請書を」
「出します」
「三日で処理します」
それは宣言だったのか、それとも普通の業務連絡だったのか、判断できなかった。とりあえず「ありがとうございます」と答えた。
閣下が出口の方向へ向いた。
「もう一点」
振り返った。
「魔道具法第七条について、確認したいことがあります。次回、時間を取っていただけますか」
「……第七条」
設計書の末尾に転記した条文が、頭の中で浮かんだ。設計者が縁を切ると九十日で機能停止する、あの条文だ。申請作業が忙しくて、それ以上考えていなかった。
「いつでも構いませんが」
「では明日の午前に」
「はい」
「失礼しました」
扉が静かに閉まった。
◇◇◇
しばらく、扉を見ていた。
作業台に目を戻した。暖炉カバーの下書きが広がっている。その端に、紙の束が置いてある。
五年分の記録。
全て、私の筆跡と一致。
手を伸ばして、束の表紙を指先で押さえた。紙の冷たさが指に伝わった。
なぜ閣下が、これを持っていたのか。
「保管するのが仕事」という答えは聞いた。
聞いたのだが、なんというか。それが全部だとは、なぜか思えなかった。
言葉を探したが、見つからなかったので、諦めた。
代わりに、別のことが気になった。
魔道具法第七条。
次の日の午前に、何を確認されるのか。
婚約破棄の日から今日で、ちょうど十七日。




