第10話 断り状の一行目を三回書き直したのは、初めてのことだった
断り状の一行目を、三回書き直した。
前職での鉄則は「返事は短いほどいい」だったし、断り状は一文で終わらせるものだと思っていた。現に、ルドルフ殿下への返事は一文で済んだ。
でも今回は、一行目が三回変わった。
最初に書いたのは「ご招聘の件、辞退いたします」だった。
二回目は「ご厚意に感謝しますが」で始めた。
三回目を書きかけたところで、ペンを置いた。
理由は、昨夜のうちに見つかっていた。
理由が見つかると、一文では終わらなくなった。一文で終わらないのは、言葉が足りないからではなく、言葉が多すぎるからだ。全部書こうとすると長くなる。どこまで書くかを決めるのに時間がかかっている。
(これは、断り状に書く話ではないな)
ペンをインク壺に戻した。
◇◇◇
昼前に、カタリナが来た。
昨日の帰り道で「言いたいことは言った」と言っていたのに、また来た。扉を開けると、少し照れたような顔をしていた。
「一個忘れてた」
「何を」
「昨日、閣下が笑ってたって言ったじゃない」
「はい」
「笑ってたとき、耳が赤かった」
「……」
「それだけ。本当にそれだけ。じゃあね」
扉が閉まった。
私はしばらく、閉まった扉を見ていた。
◇◇◇
王城の宰相執務室を訪ねたのは、午後の早い時間だった。
受付の官吏に取り次ぎを頼んだ。前回より少し長く待った。「どうぞ」という声がかかって、中に入った。
クロード閣下は執務机に向かっていた。書類を片付けているところだった。昨日の審査会の事後処理だろうと思った。
「試算表の件ではありません」
「わかっています」
それだけで、閣下はペンを置いた。こちらを向いた。書類から目が上がるのは早かった。
「理由が言えました」
「はい」
「隣国の招聘を断ります」
「理由を、聞かせてもらえますか」
一拍あった。
前回ここに来たとき、「理由が言えれば断ります」と言った。その答えを、今日持ってきた。持ってきたのに、いざ声に出すと、言葉が口の中で詰まった。
指先の腹が、微妙に冷えた。
設計を言葉にするのは得意だ。仕様を説明するのも、コストを提示するのも、問題を整理するのも。でも今日持ってきた理由は、そのどれとも違う種類のものだった。
「設計したいものがあります」
「はい」
「あなたと住む家の、暖炉のカバーです」
静かだった。
閣下が何も言わなかった。私も何も言わなかった。
喉の奥が、少しだけ詰まった。言い切った後に来る感覚だった。逃げ場がなくなった、ではなく。言ってよかった、でもなく。ただ、言った。それだけの感覚。
やがて、閣下が口を開いた。
「では」
それだけだった。
「では」という一言が、何を意味しているのかを確認しようとして、やめた。確認しなくてもわかった。というより、確認したら、今この部屋に満ちている静かな時間が壊れる気がした。
「失礼します」
「はい」
執務室を出た。
廊下に出てから、少し歩いて、壁に背中を預けた。
特に何もなかった。
何もなかったのに、足が少し止まった。
◇◇◇
それから十日後、ルドルフ殿下の省庁管轄が変わったという報告が届いた。
魔道具省から農政省への異動。理由は「農村振興政策の推進に適性が認められた」とある。官報の文面は丁寧だったが、内容は簡潔だった。
魔道具省とヴァレンティン研究所の間で正式な設計委託契約が結ばれたのは、その翌週のことだ。契約書の甲欄には王国の公印、乙欄には私の名前が入った。
初めて名前が正しい欄に入った書類だった。
◇◇◇
新しい設計依頼書が宰相執務室経由で送られてきたのは、さらに一週間後だった。
「王城医療棟の暖房魔道具・改良設計の依頼」。仕様書が添付されていて、要件が丁寧にまとめられていた。
最後のページを開いたとき、余白に一行だけ書き込みがあった。
担当官の印ではなかった。
「予算は無制限で。 C.E.」
また、直筆だった。
私は少し考えてから、その余白の下に「承りました。」と書き込んで、依頼書をデスクの中央に置いた。
設計台には、暖炉カバーの試作二号の下書きが広がっていた。
試作一号より、少しだけ広い部屋を想定した設計になっていた。




