第1話 おめでとうございます、とみんな泣いていた
婚約が破棄された瞬間に、心の中で雄叫びを上げた。
いや。雄叫びではないかもしれない。
正確に言えば、前の職場を最後に辞めた朝に似た、あの感覚。深夜まで残業して、退勤ボタンを押して、外に出たら空が白んでいたあの朝に。
王城の大広間。
白い光が天井から降りている。魔道具式の照明だ。三年前に省エネ型の改良案を出して、採用された。もっとも「王家の宮廷魔道師が新開発した」ということになっているけれど、それはもう関係ない話だ。
正面にはルドルフ・ヴァーゲナー第三王子。金髪、笑顔が得意、社交が上手い。今は「決断を下した男の顔」をしている。そういう表情の作り方も、うまい人だ。
「アリア・ヴァレンティン嬢との婚約を、本日をもって解消とする」
会場が、静まり返った。
一秒。
二秒。
(やっと、定時が来た)
三秒目に、侍女が泣き始めた。
「……おめでとうございます」
声を絞り出したのは、正面三列目の侍女頭だった。目が真っ赤だ。口元が震えている。
「おめでとうございます、ヴァレンティン令嬢……っ」
あれ。
視線を動かした。隣の侍女が泣いている。正面の文官が泣いている。窓際の貴族夫人が口元を押さえ、肩を震わせている。後列の若い男爵が首を振りながら目頭を押さえている。
全員が、私の方を見ていた。
全員が、「おめでとうございます」を言っていた。
(なんで?)
「替えはいくらでもいる」
ルドルフ殿下が続けた。涼やかな声だ。「ヴァレンティン嬢のような地味で能力のない令嬢でなくとも、王家には相応しい相手が」
会場の泣き声が、一段大きくなった。
ああ、そうか。
殿下への哀悼、ということか。これから替えを探す旅に出る方への。
「承りました」
自分で言って、少し驚いた。
五年間で一番すっきりした「承りました」だった。
殿下が目を細める。私が泣かないことへの戸惑いだろうと思う。
特に説明することもないので、一礼した。
退出する。
大広間の出口は、正面から向かって右。その手前の壁際に、いつの間にか王宰相が立っていた。黒い礼服、手を後ろで組んだまま、こちらを見ていた。
私の一礼は、なぜかその方向に向いた。
なんで?
深く考える前に、足が出口へ向かっていた。
◇◇◇
廊下に出た瞬間に、飛びついてくる人物がいた。
「おめでとうございます! アリア!」
子爵令嬢のカタリナ。二十一歳で、目が腫れている。
抱きつきながら泣いている。私の肩が、じわじわ濡れていく。
「よかった……本当によかった……! やっと自由になれたじゃない……!」
「ありがとう」
「五年間、あなたが本当に大変だったの、私だけは全部わかってたから……! 毎週設計書を出して、予算も全部一人でやって、徹夜も当たり前で。婚約者の仕事じゃないじゃない、あんなの!」
「職務の範囲内だったよ」
「職務って言わないでよ! 婚約なんだよ!?」
泣き崩れるカタリナの背中を叩きながら、廊下の石壁を眺めた。
まあ、職務に近かった、とは思う。
毎週の設計書提出。月次の予算申請書。徹夜作業、休日返上、コスト試算。前の職場と比べたら労働環境はかなりましだったが、そもそも婚約者の業務量ではなかった。五年分の損益を計算したことが一度あって、明らかに赤字だった。
替えはいくらでもいる、と殿下は言っていた。
(どうぞ、探してみてください。応援します)
なんか変、と思ったのは、そのあとだった。
応援、というより。正確には別の感情が来ていた気がするのだが、うまく名前がつけられなかったので、保留にした。
◇◇◇
馬車の中は静かだった。
秋の午後の光が、窓ガラスを斜めに横切っている。外を石畳が流れ、往来の人影が遠ざかり、街角に立ち並ぶ魔道具街灯が見えた。
あの街灯は、私が設計した。
低魔力でも安定点灯する機構が肝だった。前職でプログラムの最適化ばかりやっていたせいで、「省エネと安定性の両立」は反射に近い。設計書を出したとき、殿下は「なかなかやるじゃないか」と言った。発表会では「宮廷魔道師の新開発」になっていた。
もう関係ない話だ。
と思ったのに、街灯を見るたびに確認してしまう。これは誰の設計か。あれは何年に改良したか。
職業病はなかなか抜けない。
実家に帰ったら、まず書棚の整理をしよう。前職の習慣で、設計書は全部写しを取っていた。五年分、棚の奥に積んである。バックアップなんて誰も取れと言わなかったが、そういうものだと思っていたので。
次は何を設計しようか、ということは、もうほとんど決まっていた。省エネ型の暖炉カバー。浄水路の改良。それから魔力変換素子の小型化。どれも、婚約中は「優先度が低い」という理由で後回しにしてきた課題だ。
正確に言えば、後回しにさせられてきた、が正しい。
「……楽しい」
声に出したら、少し笑えた。
五年間、ずいぶん遠回りをしたことになる。
前職の五年と合わせたら、十年分の遠回りだ。それでも今、馬車の窓から光が差して、設計したいものが山ほどある、という事実だけが手元にある。
悪くない。
馬車が王城の影を抜けた。
陽が差し込んだ。
窓の外の魔道具街灯が、一瞬だけ、ちらついた。
気のせいかもしれなかった。
◇◇◇
大広間に残ったのは三人だった。
王宰相クロード・エイモスと、魔道具省大臣のハイン、それから虚空のどこかを眺めているルドルフ第三王子。
出席者が引き上げたのを確かめてから、クロードは大臣の隣へ移った。声を落とした。
「大臣」
「……はい」
「明後日、試算を出せ」
ハイン大臣の顔色が、白から灰色に変わった。
視線がわずかに揺れた。
「どの……試算でしょうか」
「わかっているだろう」
それだけだった。
大臣はしばらく口を開けたまま、動かなかった。やがて、深く息を吐いた。それがどういう意味の息だったか、クロードには十分わかった。
窓の外の街灯が、また一度、ちらついた。




