婚約者を奪った『魅了』持ちの聖女が、私の幼なじみの王子も狙っているので、術式を書き換えて『豚公爵を絶世の美男子と誤認する呪い』をかけて差し上げました。どうぞ、豚とお幸せに!
「『魅了』……ね」
「確実なのかい? クラウディア」
「ええ。私の鑑定スキルでもかなり時間がかかったけど、間違いないわ」
夜会を数日後に控えた、王宮の奥深くにある温室。
熱帯の植物が鬱蒼と茂り、甘ったるい花の香りが漂うその場所は、深夜の密会にはうってつけだった。
月明かりだけが、ガラスの天井を通して静寂を照らしている。
私は手に持った羊皮紙の報告書を、向かいに座る男へと手渡した。
この国の王太子、キースクリフ・フォン・アルトエンハイム。
月の光を吸い込んだような銀髪と、冷ややかな知性を宿した深緑の瞳。
キースは美しい眉をひそめ、書類に目を通す。
私の前だけで見せる、冷徹な為政者の顔だ。
「対象はヴィクトリア・エン・ネーレ侯爵令嬢。スキル鑑定結果は『強制好感度操作』および『精神干渉』。……厄介な代物だ。禁術指定されてもおかしくない」
「ええ。本人は『女神の祝福』なんて呼んでいるみたいだけれど。彼女は、暇つぶしのように、アクセサリーを取り替えるように、手当たり次第に気に入った男を魅了で誘惑し、破滅させている。ケイデンも、そのうちの一人。すっかり彼女の虜よ」
私は優雅に紅茶を一口すすり、わざとらしく深いため息をついた。
実際、ため息の一つも吐きたくなる惨状なのだ。
私の婚約者、ケイデン・フィン・カンタブリア公爵。
家柄は良いが主体性がなく、顔だけの男。
親が決めた政略結婚の相手であり、私に恋愛感情など欠片もない。
だが、それでも私の「所有物」に手を出された不快感は拭えないのだ。
「ケイデン公爵の状態は?」
「重度ね。私との会話中も、うわの空でヴィクトリアのことばかり。『君には華がない』なんて言われたこともあったわ。私のドレスを選んだのは彼自身だということも忘れて」
他にも、口に出すのもためらうような侮蔑の言葉も何度も言われた。
私が肩をすくめると、不意に視界が遮られた。
ガタリ、と椅子が鳴る。
キースが立ち上がり、テーブルを回って私のすぐ隣へと歩み寄ってきたのだ。
「キース?」
彼は無言のまま、私の手を強く握りしめた。
その手は熱く、微かに震えている。
見上げると、その瞳には先ほどまでの冷徹さはなく、熱く煮えたぎるような暗い光が宿っていた。
「……腹が立つ」
低く、唸るような声だった。
「あの愚か者が、君を蔑む言葉を吐くたびに。私は、その舌を引き抜いてやりたい衝動を抑えるのに必死なんだ」
彼の手が、私の頬へと伸びる。
震える指先が、壊れ物を扱うように私の輪郭をなぞった。
王太子としての仮面が剥がれ落ち、そこにはただ一人の男としての情動があった。
「君が彼との婚約を受け入れた時……私は、正直妬いたよ」
「え……?」
意外な言葉に、私は目を見開く。
キースは自嘲気味に笑い、私の額に自身の額を押し付けた。
「もっと早く、想いを伝えていればよかった。そうすれば、君にあんな男の婚約者なんていう不名誉なレッテルを貼らせずに済んだのに」
「キース……」
「君が他の男の隣に立つ姿を見るのが、どれほど苦痛だったか。……君は賢いけれど、そういうところは相変わらず鈍感だ」
キースの瞳が、過去を懐かしむように揺れた。
「私には、君しかいなかった」
その言葉が、幼い日の記憶を呼び覚ます。
まだ私たちが十歳にも満たなかった頃。
父に連れられて行った王宮。
そこで初めて、彼と出会った。
庭の片隅で、膝を抱えて、つまらなさそうに池に小石を投げていた少年。
優秀すぎるが故に周囲から疎まれ、誰にも心を開けなかった若き日のキース。
『あなた、退屈そうね』
『君、誰?』
『あなたと同じ暇人』
『……ふーん』
『隣座ってもいい?』
『いいよ。僕のこと嫌じゃなきゃね』
『嫌だったら座りたいって言わないよ』
なんとなくだが、彼とは不思議な縁を感じた。
運命の赤い糸とか、そんなロマンティックなものではなかったと思うけど。
ただ、退屈してる子供同士の、奇妙な繋がりのような。
私が何を話しても、彼は興味無さげに聞くものだから、ついムッとして彼の気を引こうと、私は自らの秘密を打ち明けた。
『私ね、この世界の人間じゃないの。転生者ってやつ』
転生者であるという突拍子もない告白。
どんな経緯でここに来たのか、自分は自分であって自分ではないという、彼にとっては謎の告白。
普通の子供なら、あるいは大人でさえも「気が触れた」と笑うか、恐れただろう。
けれど、彼は違った。
『ふーん。だから君は、そんなに遠い目をしているんだね』
『……わかるの?』
『わかるよ。僕と同じ、退屈だ……って目をしてる』
彼は私の言葉を疑わず、ただ真っ直ぐに受け入れた。
それからだ。私が彼に、前世の世界の話――空を飛ぶ鉄の塊や、世界中の知識が詰まった小さな箱の話を聞かせるようになったのは。
彼は私の話を聞くたびに、目の輝きを取り戻していった。
『君の話は、どんなお伽噺よりも面白い』
そう言って笑う彼の笑顔を守りたくて、私は彼の「共犯者」になったのだ。
「あの時、君が秘密を打ち明けてくれなかったら、私は孤独の中で腐っていたかもしれない。君が私に、世界の広さを教えてくれたんだ」
キースの手が、私の唇をなぞる。
「覚えているかい? 私たちのファーストキス」
「さあ、どうだったかしら」
私はわざと意地悪くはぐらかす。
けれど、心臓の鼓動は隠せない。
「また君は、そうやってはぐらかす」
キースはそう言って、私の鼻先をツンと弾く。
私はそのキースの表情と仕草に、どうしようもなくドキドキする。
彼のことが大好きだから。
「……あの日は、夕焼けが綺麗だった。真っ赤に染まる空を見ながら、幼い私たちは唇を交わした。……今でも……あの時の感触が唇に残っている。私は、まだ君が好きなんだ」
彼の言葉が、胸の奥深くに染み渡る。
国を背負う重責に耐えながら、これほどまでに私一人を想い続けてくれていた幼なじみ。
私の胸が、甘い痛みでぎゅうぎゅうに締め付けられる。
こんなにも愛されているという充足感が、婚約者に裏切られた不快感を塗りつぶしていく。
「……ごめんなさい。でも、もうすぐ終わるわ」
私は彼の手を両手で包み込み、悪戯っぽく微笑んでみせた。
「あの愚かな婚約者とも、図々しい泥棒猫とも、これでお別れよ」
「そうだね。……彼らには、相応の代償を払ってもらおう」
キースの瞳に、再び冷酷な策士の色が戻る。
だが、私を抱き寄せる腕の力は緩まない。
彼はテーブルの上に置かれた小さな木箱を、片手で器用に開けた。
中には、古びた手鏡が一枚、収められている。
王家の宝物庫から持ち出した、国宝級の魔道具だ。
「『真実の愛の鏡』……だったか?」
「ええ。少し、私のスキルで細工をさせてもらったわ」
私は鏡の縁を指でなぞる。
転生特典である『術式改変』スキルを使い、この鏡の術式を徹底的に書き換えたのだ。
「ヴィクトリアの『魅了』は強力よ。まともに受ければ、王族の加護すら貫通するかもしれない。だから……その力を利用して、彼女自身に『真実の愛』とやらを教えてあげるの」
「彼女自身に?」
「ええ。彼女にふさわしい、最高の相手と結ばれるはずよ」
私は扇子を開き、口元を隠して悪戯っぽく囁いた。
◇◆◇
決戦の夜会。
王宮の大広間は、着飾った貴族たちで溢れかえっていた。
煌びやかなシャンデリアの下、私はあえて地味な紺色のドレスを纏い、壁の花を演じていた。
周囲からは、遠慮のない囁き声が聞こえてくる。
「見て、クラウディア公爵令嬢よ。今日も地味ねぇ」
「カンタブリア公爵がヴィクトリア様にご執心なのも頷けるわ」
「可哀想に。王太子殿下との幼なじみという立場にあぐらをかいていたから、愛想を尽かされたのよ」
扇子で口元を隠した貴婦人たちが、嘲るような視線を投げてくる。
彼女たちもまた、ヴィクトリアの「人当たりの良さ」という名の魅了にほだされているのだ。
そこへ、騒がしい一団が現れた。
「クラウディア、どうしてこんな所にいるんだ」
不機嫌そうな声と共に現れたのは、婚約者のケイデンだった。
その腕には、当然のようにヴィクトリアがしがみついている。
今日の主役気取りの彼女は、露出の多いピンクのドレスを着て、媚びるような上目遣いを周囲に振りまいていた。
「ケイデン様。ご挨拶が遅れましたわ」
「フン。君はいつもそうだ。陰気で、可愛げがない。見てみろ、ヴィクトリアのこの愛らしさを。彼女こそが、次期公爵夫人にふさわしいとは思わないか?」
ケイデンの瞳は白く濁り、焦点が定まっていない。
典型的な魅了状態だ。
哀れなピエロ。
彼が自分の意思で動いていると思っているのが滑稽でならない。
「あらぁ、クラウディア様ぁ。そんな怖い顔をしないでくださいな。ケイデン様は、ただ真実の愛に目覚めただけですのよ?」
ヴィクトリアがくすくすと笑う。
「貴女のような、陰気臭い女のことは、ケイデン様はお嫌いだそうだから。会場の隅にでもいらしたら? 視界に入るとこっちまでその『臭い』が移りそうですものぉ」
その瞳には、自分の美貌と能力を微塵も疑わない、傲慢な光が宿っていた。
彼女にとって、私は踏み台であり、ケイデンはただの駒。
そして彼女の真の狙いは、王太子であるキースの隣。
ケイデンを奪ったのは、私への当てつけか、彼女よりも美しいと言われている私に対して、狂った嫉妬心を見せてくる彼女のしそうな事だ。
その強欲さは、もはや清々しいほどだ。
その時だった。
人垣を割って、巨体が揺れながらこちらへ近づいてくる影があった。
ドス、ドス、と床が軋むような足音。
「おお、これはこれは! 噂の聖女、ヴィクトリア嬢ではありませんか! グフフ、今宵は一段とお美しい!」
オラフル・ルイ・フェリオ公爵。
通称『豚公爵』。
豊かな領地と莫大な資産を持つが、その容姿は醜悪の一言。
はち切れんばかりの肥満体、脂ぎった肌、衣服の上から貫通してくる、腐った卵のような、豚の汗のような酷い体臭。
呼吸をするたびに「フゴッ、フゴッ」と鼻が鳴る。
そして何より、女性を金で買うことしか能がない下劣な性格で知られている。
彼はヴィクトリアの肢体を、舐めるような視線でねっとりと見回した。
「……ッ!」
ヴィクトリアの顔が、一瞬で引きつった。
彼女は自分の周りを美しいものだけで固めたいと願っている。
自身の美貌こそが正義であり、醜いものは悪。
そんな彼女にとって、オラフル公爵のような存在は、自分の世界を汚すシミのようなものなのだろう。
彼女は露骨に顔をしかめ、扇子で鼻を覆った。
「ご、ごきげんよう、フェリオ公爵」
「グフフ、ヴィクトリア嬢。今日も麗しい……。あどけなさと幼さの残るその美貌……たまりませんな……。一度お近づきになりたいと思っておりました。どうです、一曲?」
豚公爵が脂ぎった手を差し出す。
指には宝石のついた指輪が肉に食い込むほど嵌められ、手のひらは汗でじっとりと濡れている。
その手が目の前に迫った瞬間、ヴィクトリアの生理的嫌悪感が爆発したようだった。
「ひっ……!」
彼女は悲鳴に近い声を上げ、その手を思い切り振り払ったのだ。
バチンッ!
乾いた音が響く。
「さ、触らないでくださいまし!!」
会場の空気が凍りついた。
音楽が止まり、全員の視線が彼らに集まる。
ヴィクトリアは止まらなかった。
日頃、チヤホヤされすぎて増長した自尊心が、醜いものへの耐性をなくしていたのだろう。
「その脂ぎった手! 腐ったような体臭! 視界に入るだけで吐き気がしますわ! 近寄らないで! その汚らわしい息をかけないで! いくら公爵と言えど、我慢なりませんわ!」
「な、なに……?」
豚公爵が目を白黒させるが、ヴィクトリアの罵倒は止まらない。
彼女はさらに言葉を重ねた。
まるで、汚物を消毒するかのように。
「あなたのような豚と踊るくらいなら、死んだ方がマシですわ! いえ、目が潰れるから視界に入れないで! 誰か、この汚物をあたくしの前から排除して!!」
「そうだ! ヴィクトリアを不快にさせるとは何事だ!」
ケイデンまでもが加勢し、豚公爵を突き飛ばした。
ドサリ。
巨体が床に転がり、無様な音を立てる。
会場からはクスクスという失笑と、ドン引きしたような沈黙が入り混じる。
侯爵令嬢ごときが、公爵を侮辱した。
本来ならば、ヴィクトリアの評判は地に落ち、縁談なども一切絶たれ、侯爵家全体の評価すら危うくなる状況だが、その悲壮感はこの場にはない。
恐らく、この場の誰一人、豚公爵がヴィクトリアから侮辱された! 証人になれ! と言われてもならないであろう。
それほどまでに、この豚公爵の評判は地に落ちている。
もはや、お飾りの公爵。
私は扇子の下で、冷ややかに笑った。
(よく言ったわ、ヴィクトリア。その言葉、一言一句違わず、冥土の土産に覚えておきなさい)
「……ぐ、ぐぬぬ……!」
豚公爵が顔を真っ赤にして震える。
恥辱と怒りで歪んだ顔でヴィクトリアを睨みつけながら、会場の端へと逃げるように去っていく。
「このままでは済まさんからな……!」
そんな捨て台詞が聞こえたが、ヴィクトリアは勝ち誇った顔で鼻を鳴らしただけだった。
ああ、豚公爵様。
なんていい仕事をしてくれるの?
あなたは、最高の舞台装置よ。
「さあ、邪魔者は消えましたわ。……ケイデン様ぁ?」
ヴィクトリアが甘い声で囁く。
ケイデンは操り人形のように頷き、私を指差した。
「クラウディア・エレナーデ! 僕は今日、この場を持って君との婚約を破棄する!」
高らかな宣言。
王太子が主役のこの場で、王太子不在とはいえ、公爵家同士の婚約破棄を宣言するなど、本来なら許されない暴挙だ。
だが、魅了された彼に常識は通用しない。
そして、魅了をかけている本人には常識がない。
なるべくしてなった、ということか。
「理由は、君が公爵夫人としての器に欠けるからだ! 社交を疎かにし、領民への慈悲もなく、あまつさえ聖女であるヴィクトリアを嫉妬から虐げた!」
つまらない。
「虐げた覚えはありませんわ。証拠は?」
「僕の心がそう言っている! ヴィクトリアこそが真実の愛だ!」
本当に、つまらない。
論理も何もない。
これでは議論にすらならない。
「さっさと出ていきたまえ!」
ケイデンが叫ぶ。
その時。
ファンファーレが鳴り響いた。
「王太子、キースクリフ・フォン・アルトエンハイム殿下、ご入場!」
重厚な扉が開き、正装に身を包んだキースが現れる。
その凛とした姿に、会場の空気が一変した。
ケイデンは「王太子殿下も僕の決断を祝福してくれるはずだ」と能天気に笑っている。
だが、ヴィクトリアの狙いは違う。
彼女の瞳が、獲物を狙う肉食獣のようにキースを捉えた。
(来たわ! 本命が! ケイデンはもう飽きたし、『奪った』から用済み。この国一番の権力と美貌を持つ彼こそ、私の相手にふさわしい!)
……とでも、思っているのでしょうね。このバカ女は。
ヴィクトリアはドレスの裾を翻し、キースの元へ歩み寄る。
「殿下、お初にお目にかかります。ヴィクトリアと申します」
彼女は最上級のカーテシーを見せ、上目遣いで彼を見上げた。
「……何の真似だ? 騒がしいようだが」
キースの冷ややかな視線にも、彼女は動じない。
「殿下、私、ずっとお慕いしておりました。……殿下ならば、私の『真実の愛』を理解してくださいますわよね?」
ヴィクトリアの全身から、濃密なピンク色の魔力が噴き出す。
会場にいた騎士たちがふらつくほどの、特大の『強制魅了』。
彼女はこれを、至近距離からキースに叩き込むつもりだ。
――勝った。
彼女の顔に、勝利の笑みが浮かぶ。
「私を愛して!」
不可視の魔力の矢が放たれた。
キースの心臓を目掛けて、一直線に。
だが。
キースは動じない。
彼は懐から、あの日私が渡した『鏡』を取り出し、胸元に掲げた。
「……愚かな」
魔力の矢が鏡に直撃する。
その瞬間、世界がスローモーションのように感じられた。
鏡は魔力を吸収すると、それを数倍の輝きに変え、術者であるヴィクトリアへと跳ね返した。
ただし、そのままではない。
私の『術式改変』によって書き換えられた、新たな命令を乗せて。
【命令変更:対象定義の書き換え】
【新対象:視界内に存在する、最大質量の雄】
ドシュッ!
目に見えない衝撃が、ヴィクトリアの心臓を貫く。
「あ……っ?」
ヴィクトリアの動きが止まった。
術式が反転し、彼女の脳内で「愛すべき対象」の定義が暴力的に書き換わる。
彼女の瞳から、キースへの執着が消え失せ、代わりに猛烈な熱情が宿る。
彼女はゆっくりと首を回した。
その視界の端に映っていた、会場の隅でふてくされてワインを飲んでいる、醜悪な肉塊。
先ほどまで「汚物」扱いしていたその姿が、今の彼女の目には、黄金に輝くアポロンのように映っているはずだ。
(え……? 何、あの素敵な方……?)
脂ぎった肌は、生命力に溢れた艶やかな光沢に見える。
醜く突き出た腹は、包容力の象徴のような安心感を与える。
体臭すらも、男らしいフェロモンのように鼻腔をくすぐった。
「……ああっ……なんて……なんて素敵な殿方なの……! キースクリフ様より……美しい美男子だわぁ!」
彼女は叫ぶと、キースの前から走り去った。
ドレスが乱れるのも構わず、一直線に豚公爵の元へ。
「ヴ、ヴィクトリア? 何を……」
呆然とするケイデンを突き飛ばし、彼女は豚公爵の脂ぎった胸に飛び込んだ。
ドスッ! と肉がぶつかる音がする。
「私の王子様! ごめんなさい、私、目が曇っていたの! ああ、その美しいボディ、芳醇な香り……素敵、最高だわ!」
ヴィクトリアは豚公爵の頬に、首筋に、雨あられとキスを降らせる。
「死んだ方がマシ」と言い放ったその口で、彼の汗を舐めとるように愛撫するのだ。
「ぐ、ぐふふ? な、なんだこれは? ヴィクトリア嬢、気が変わったのですかな? はっ! まさかさっきのは、愛情の裏返しだったというわけですかな!?」
豚公爵も最初は戸惑っていたが、絶世の美女からの求愛に、すぐに下卑た笑みを浮かべた。
「ええ、ええ! あなたのその瞳、とってもチャーミングだわ! 結婚して! 今すぐ私をあなたのものにして! オラフル様ぁん♡ 大好きぃ!」
ヴィクトリアは恍惚とした表情で、豚公爵の太い指を口に含んだ。
「おやまあ、積極的ですなぁ。グフフ、先ほどの罵倒も愛の裏返しでしたか」
豚公爵の太い腕が、ヴィクトリアの細い腰に回される。
粘着質な手つきで、彼女の尻を撫で回す。
「あんっ♡ もっと触って! もっと強く抱きしめて! 私をあなたの色に染めてぇ!」
「いいですぞ、いいですぞぉ! では早速、我が屋敷へ!」
「ええ、連れてって!」
狂気。
それ以外の言葉が見つからない。
数分前まで「汚物」と罵っていた相手に、発情した猫のように擦り寄るヴィクトリア。
その光景はあまりにもグロテスクで、かつ滑稽だった。
二人は熱烈なキスを交わしながら、もつれ合うように会場を出て行った。
後に残されたのは、理解不能な事態に思考停止した貴族たちと、放心状態のケイデンだけ。
そして。
術者であるヴィクトリアが自ら魅了にかかったことで、彼女が周囲にかけていた『魅了』の効果が切れた。
彼女の精神リソースが全て『豚公爵への愛』に割かれたことで、周囲への『ばら撒き型魅了』の維持が出来なくなったのだ。
「……あれ? 僕は、何を……?」
ケイデンが膝から崩れ落ちる。
濁っていた瞳に、正気の色が戻っていく。
彼は自分の手が、ヴィクトリアを守るために振り上げられていたことに気づき、そして今しがた目撃した地獄絵図を脳内で再生した。
『あなたのような豚と踊るくらいなら、死んだ方がマシですわ!』
『オラフル様ぁん♡ 大好きぃ!』
脳裏に焼き付いたのは、脂ぎった豚公爵と、それに貪りつくヴィクトリアの姿。
「う……お、ぉぇっ……!」
ケイデンは口元を押さえ、その場で嘔吐した。
生理的な嫌悪感が、胃の中身を逆流させたのだ。
自分が命がけで守ろうとした「真実の愛」の正体が、これなのか、と。
私は静かに、彼の前へと歩み寄った。
「目が覚めましたか、ケイデン様」
「ク、クラウディア……? 僕は、いったい……」
彼は縋るような目で私を見上げる。
まだ状況が飲み込めていないようだが、自分が取り返しのつかないことをしたという自覚はあるらしい。
「全く、酷いことをなさいましたわね。……婚約破棄、確かに承りました」
「ま、待ってくれ! あれは本心じゃない! 僕は操られていて……!」
「操られていれば、何をしても許されると?」
冷たい声が響く。
隣に、キースが並び立った。
「魅了は確かに強力だが、彼女への真実の愛を心に宿していたなら、跳ね除けることができる力のはずだ。それが出来なかった時点で、あなたの彼女への愛は所詮そこまでだったということ」
彼はもう、私への愛を隠そうともしなかった。
私の腰を強く抱き寄せ、ケイデンを氷のような瞳で見下ろす。
「殿下……!」
「ケイデン公爵。我が国は、自己管理もできず、他者の精神干渉に操られるような無能を、要職に就かせるほど甘くはない。そんな者が中枢にいては、国などすぐに崩壊しかねんからな」
キースの宣告が下る。
「君の家は取り潰しはしない。だが、君個人の罪は重い。公爵家の当主権限は剥奪し、隠居を命じる。……一生、領地の片隅で今日の出来事を反芻しながら生きるといい」
「そ、そんな……クラウディア、君からも言ってくれ! 僕たちは婚約者だろう!? 僕は操られてただけなんだ!」
ケイデンが私のドレスの裾に手を伸ばそうとする。
私は一歩下がり、その手を避けた。
汚いものを見る目ではなく、道端の石を見るような無関心な目で。
「先程の王太子のお言葉を聞き逃したので? 操られるのは、心が弱い証。あなたが本心から抵抗すれば、このような結末にはならなかった」
「あなたは、心のどこかで思ったのよ。このまま彼女にほだされるのも悪くない……と」
「なっ……!? お、お前ごときが僕の何を知っている!! 僕はお前みたいな小汚い女を婚約者にしてやったんだぞ! 感謝はされても、そんな目で見られる筋合いは無い! お前もどうせ、腰を振るしか脳のない女なんだろう!?」
キースの拳が震え、ミシッと音を立てるのが聞こえた。
私はそっとキースの拳を包み込んだ。
「貴方が、こんな猿に手をあげてはいけない。貴方の価値を、こんな男のために消費しないで」
「……許せない。こいつの言い草は、君を侮辱するものだ」
「平気よ。キース。……そうでしょう? ケイデン。あなたは、『腰を振るしか脳のない私に、腰を振らせることすら出来ない無能』なんだから」
「な……なにっ……!! 僕を侮辱するな!!」
ケイデンが拳を振り上げようとし、キースは私を背に庇うように前へ出る。
王太子への暴力行為は不敬罪どころの話ではない。
即刻打首だ。
流石にこれだけ理性を失っていても、それを理解することはできたらしい。
まあ、私としては、殴られる寸前に魔法でこいつを転ばしてやるつもりだったけど、キースの男らしさが勝ったということかしら。
「……ヴィクトリアを失ったことがそんなに悔しいのだったら、追えばいいじゃない。『類は友を呼ぶ』と言いますわ。脳内お花畑と豚のお似合いのカップルが誕生して、本当によかったと私は思うけど、貴方は、あちら(豚公爵邸)へ混ざりたかったのでしょう?」
「っ……!!」
ケイデンの顔が真っ赤になり、その瞳は絶望に染まる。
「どうぞどうぞ、お行きなさい。3人で楽しく『腰を振って』」
「く……くそがっ!!」
彼は八つ当たりのように、机の上のグラスを全て床に叩きつける。
「あら、そういうのはあまりオススメしませんけど」
「黙れ! どうなったって知るか! 僕のことをコケにしやがって!」
なんと醜悪。
醜さのレベルで言えば、あの豚公爵よりも上回っている。
まさか……魅了にかけられていた時の方が、マシな性格だったとは。
あるいは、長期間魅了にかけられていたが故、ここまで歪んだ性格になってしまったのか。
どちらにしろ、見るに堪えない。
「……衛兵。その男を捕らえろ。地下牢に入れておけ」
キースの命令により、衛兵がケイデンを捕らえる。
「やめろ! 僕に触れるな! 薄汚い手で!」
「前言撤回する。……ここまで君を侮辱し、夜会をめちゃくちゃにしたんだ、奴の公爵家は爵位を剥奪させてもらうが、問題ないね?」
「お好きなようにどうぞ。あんな男、どうなろうが構いませんから」
キースが私の腰に手を回し、私と向き合う。
「……キース……みんなが……見ています」
「見ているからいいんだ。それに、このまま婚約破棄されただけでは、君も実家に顔を見せられないのでは?」
「……それはそうだけど……心の準備が……」
「構うものか。僕は、心底ムカついているんだ。あいつが言ったことに」
「……キース」
「……僕だけのものになってくれ。君を、もう誰の手にも触れさせたくない」
「……バカね。私の心は、ずっと貴方1人だけのものよ。……あの、夕焼けの日からずっと」
キースは目を見開き、その瞳は激しく揺れていた。
動揺なのか、感動なのか、色々な気持ちがないまぜになったような、複雑な瞳。
周囲の貴族たちも、私たちの『行方』を固唾を飲んで見守っているのがわかる。
視界に入っているわけではない。
私の視界には、彼しか映っていないから。
「2回目のキスを、してもいいかい?」
「これがファーストキスよ。愛が繋がった私たちの」
唇が重なる。
この会場を、私たち2人のキスの音だけが、支配する。
邪魔はいない。
何も耳に入らない。
聞こえるのはただ、彼と私の心臓が愛してると囁く音だけだった。
◇◆◇
それから数ヶ月後。
私とキースの成婚パレードが華やかに行われた。
国民は新しい王太子妃の誕生を祝福し、国中が喜びに包まれた。
一方で、社交界を震撼させるニュースが二つあった。
一つは、名門カンタブリア公爵家の当主交代。
前当主ケイデンは、精神的な錯乱を理由に幽閉同然の隠居生活を送っているという。
彼は夜ごと、震えながら声が枯れるまでひたすら泣き叫んでいるらしい。
そして彼の事は、王太子の有能な側近たちが徹底的に監視しており、彼が表舞台に戻ることは二度とない。
そしてもう一つ。
フェリオ公爵家(豚公爵家)の醜聞だ。
あの日、熱烈な愛の逃避行を繰り広げたヴィクトリアとオラフル。
二人はその日のうちに結婚し、毎日毎日、昼夜を問わずひたすら愛し合っているらしい。
だが、ヴィクトリアの『魅了』は、かけ続けなければいずれ効果が切れる。
ある朝、彼女は目覚めた。
豪奢だが悪趣味な装飾が施された寝室。
隣には、イビキをかく巨大な肉塊が横たわっている。
部屋中に充満する脂の匂いと、獣のような体臭。
「……ッ、何、これ……?」
ヴィクトリアは震える手でシーツを握りしめた。
記憶が混濁している。
素敵な王子様と結ばれたはずなのに、どうしてこんな豚が隣にいるの?
ふと、全身鏡に映った自分の姿を見て、彼女は息を呑んだ。
そこに映っていたのは、かつての美貌を失い、絶望に満ちた女の顔だった。
「ひっ……!」
毎日のように豚公爵とひたすら愛し合い、部屋に閉じ込められていた結果だ。
肌は荒れ、髪はボサボサ。
自慢だった美貌は見る影もない。
「嘘……嘘よ……!」
彼女は自分の腹を叩いた。
だが、現実は変わらない。
「……ヒッ、イヤァァァァァッ!!」
彼女の絶叫が屋敷に響いた。
その声で目を覚ました豚公爵が、ヌタリと笑いながら起き上がる。
その巨体が視界に入った瞬間――
ドシュッ。
魅了の呪いが、再び彼女の脳を揺さぶった。
一瞬だけ戻りかけた正気が、再び強力な「愛」によって塗りつぶされていく。
「……おや、ヴィクトリア? どうしたのかなぁ?」
「あ……あれ……? 私、何を……?」
涙で濡れていた瞳が、再びトロンとした熱情に染まる。
目の前の怪物が、また王子様に見えてしまったのだ。
「ああ、私のダーリン! ごめんなさい、怖い夢を見ていたの!」
「よしよし、私が慰めてあげよう」
彼女は自ら、豚公爵の腕の中へと飛び込んでいく。
一瞬の正気と、長い狂気。
彼女は死ぬまで、この一瞬の絶望を繰り返すことになるのだ。
魅了はかけ続けなければ解ける……はずなのだが、どうやら、鏡の呪いと改変スキルの効果により、彼女の魅了は『完璧な魅了』に変わってしまったらしい。
『彼女が望んだ』解けることのない、永遠の愛に。
彼女はもう公爵夫人であり、彼のお気に入りのペットだ。
かつて「死んだ方がマシ」と言い放った相手に抱かれ、求め続ける日々。
それが、他人の心を弄び、破滅させ続けた彼女への、永遠に続く罰だ。
◇◆◇
「クラウディア、何を考えているんだい?」
バルコニーで風に当たっていると、キースが後ろから抱きしめてきた。
その体温は温かく、心地よい。
「いいえ。ただ、世界は案外、正しく回っているのだなと思って」
「ふふ、君という女神が調整したからね」
「あら、私はただの『悪役令嬢』よ? 聖女様を壊し、婚約者の公爵様も高い崖から突き落とした」
「どちらも自業自得さ。たとえ魅了が無くても、彼らは遅かれ早かれ同じ道を辿っただろう。世界というのは、そういう風にできている」
私たちは笑い合い、キスを交わす。
「じゃあ、私と貴方がこうなることも、そういうこと?」
「そうさ。これから、私が君の全てを、どこまでも愛することも、そういうこと」
再び、私たちは熱いキスを交わす。
彼とのキスは、私の思考力を低下させる。
脳がとろけそうになってしまう。
下界の泥沼など、もう私たちの目には映らない。
ここにはただ、とけてしまいそうな恋があるだけ。
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