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作者は文学的放火魔シリーズ

クオリアの支配 ~アマチュアカルト作家が挑む神の証明~

作者: もりゃき.xyz

■ クオリアとは?


 クオリアを雑に説明するなら――


「なぜ痛みは、痛いのか」

「なぜ赤は、赤く感じるのか」


 などといった……極めて主観的で、果たして人体の中に実在するのかどうかすら分からない代物です。


 かと言って、クオリアは笑い飛ばせる代物でもなく、科学分野では真剣にクオリアの実在検証が行われています。

 事実、ChatGPTでもクオリア説を支持したような応答も返ってきます。


 私が支持する『機能主義』の界隈においても――一部には「すべては機能主義で説明できる」という学派もあります。

 私はそこまで断定的に言えなくて、仮にクオリアの実在が証明されたなら、それを受け入れるべきだと考えています。

 それが、科学的な態度というものではありませんか?


 しかし、このクオリア実在証明に潜む恐ろしさを、一体どれだけの人が認識しているのか――そこには強い疑問を抱きます。


■ デカルトの『神の証明』が危うくなる


 デカルトは「Cogito, ergo sum(我思う、ゆえに我あり)」という言葉で有名な哲学者です。

 回りくどい説明は、哲学お得意の厳密性ゆえに、ここでは雑に説明します。


「私は全てを疑う、全てを疑うが、疑うという行為自体を疑っても疑いは残る。だから疑いこそが理性だ」


 そうです、先ほどの「痛い」「赤い」すら疑いの対象にしているのが、近世哲学の祖デカルトの言い分です。

 ここで「痛い」「赤い」が科学的に証明され、疑う必要がなくなったら?

 我々の理性も、神の証明も、土台から崩れるという話です。


 ニーチェは「神は死んだ」と訴えましたが、彼の訴えた「超人」はあたかも「自らが神となる」かのような思想です。

 ニーチェは心を病み……時に「我はデュオニソスである」とつぶやいたとされています。

 「神は死んだ」は、あくまで「キリスト教的な神は死んだ」でしかないのです――なぜなら、自分をギリシア神話の葡萄酒の神だと、自ら言ってるんですよ?


 すなわち、デカルトが関わる――最低限でも近世哲学を軒並み洗い直す必要が出てきます。

 なんとか科学と折り合いをつけた宗教も同様です。



■ 実存主義が危うくなる


 既にニーチェで、実存主義哲学者に触れましたが、実存主義自体が存続の危機に陥ります。


 実存主義とは「主体が世界を意味づける」という思想です。

 「個人の自由と選択こそが真理」ということを叫んだ思想です。


 その主体が、突き詰めればクオリアである――そう証明されたとしたら、どうなるでしょうか?

 実存主義哲学者サルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉さえ――虚しいものになってしまいます。


 あなたには根源的に「個人の自由」も「個人の選択」も存在しない、と結論付けざるを得ません。

 この部分を切り取ると「人権侵害か?」という向きもあるでしょう――しかし、そうではありません。


 その「自由」や「選択」を決定する「主体」が、そもそもクオリアであり――それが観測されないという異常事態です。


 人権思想すら、自由と尊厳という選択で生まれてきた思想ですよね?

 その人権思想そのものまで土台から崩れている――そういう話です。


 当然、思想といったもの全般が危ぶまれます。

 それこそ、私が妥当と感じている『機能主義』も危ぶまれます。


 唯一、科学だけが拠り所になりかねません、なんと心細い状況でしょうか。



■ クオリアはどこに存在するか?


 クオリアの実在が証明された、しかし観測されない――となったら、どうでしょうか?

 私は、この線は極めて濃厚だと思っています。


「赤を赤いと感じる」

「痛いことを痛いと感じる」


 私は、これらを脳が処理していると考えていますからね――しかし、クオリアの実在はそれをひっくり返します。(ここで、脳の働きがクオリアだ……という場合は『実在する』に含まないとします、仮にそうであれば機能主義に還元できるでしょう)


 観測されないが確かにある、そんな存在には――虚数空間や多元宇宙論などの世界を想定した方がいいでしょう。

 すなわち、我々はクオリアを通じて「いわゆる異世界」から操られている。

 そういう可能性を論じなければなりません。


 また、クオリア自体が『観測主体』という可能性も考慮しなければならないのですから。

 しかし、ここで『観測されていない存在は観測主体になり得ない』という量子論を思い出さなければなりませんね。

 すなわち、なんらかの『異世界』が実在している、そこで『あなたのクオリア』が観測されている……と考えるのが妥当でしょう。

 その世界で、何者かが『あなたのクオリア』を観測していると見るのが妥当、となります。


 あるいは『クオリアが多元宇宙から流れ込む』というモデルがあるとします。

 これは既に、前提として『異世界の実在』を前提としていますね?


 『クオリア』こそが主体で、あなたの『心身』こそ幻かもしれない可能性という話に突入します。



■ クオリアとシミュレーション仮説と『新たな神の証明』


 この両者を踏まえる、有力な説があります――『シミュレーション仮説』です。

 ご存知だとは思いますが、我々が『何者かにシミュレーションされた存在』とする仮説ですね。


 ここで、クオリアの存在が証明されると同時に、『シミュレーション仮説』はに証明され、仮説を脱却します。


 しかし、ここでシミュレーション説を採用するならば――『クオリアを観測している存在』はどうなるのでしょうか?

 当然、その『あなたのクオリア』を観測している存在さえ、クオリアを観測されているのです。

 この先に待つのは『クオリアを観測している者も何者かにクオリアを観測されている』となります。

 

 この先には、『無限後退』か『神の存在』を仮定しなければ、論理的に不整合を生じます。

 物理的に『無限後退』があるとしたら、もはやその――無限後退という概念自体が『神』と呼べるでしょうね。


 すなわち『シミュレーション仮説』を肯定する人は、例外なく有神論者だという結論が導かれます。

 しかも、その神は人格神を想定しいると見るのが妥当という結論になります。


 『神の存在』もまた、何者かが『神のクオリアの観測』を行っているとしたら?

 ……そこにあるのは同様に『無限後退』か『(より上位の)神の存在』となりますね――もう神の概念が崩壊してしまいます。


 この『神が神によって観測されている』という状況下で、唯一――人格神を否定するには『無限後退』しか存在しません。

 『無限後退』を否定するなら、必ず『人格神』の存在を肯定しなければなりません。


 すなわち、クオリアが存在したら、我々は神に支配されていることの証明になります!


■ おわりに


 もちろん、こんな妄言は私自身も信じていませんよ――詭弁ですからね(笑)


 というか、クオリアの実在自体に相当懐疑的ですからね――クオリアの実在が証明されたらどうなるのか?を、個人的に考えたらこうなりました。


 クオリアが実在すること――すなわち、我々の手にしている自由や生命すら崩壊します。

 また、気まぐれでどこか上位層の誰かしら観測者が『あなたのクオリアに関わる存在の観測』をやめたら――我々の世界が終わることと、ほぼ同義です。


 明日、ふと目を覚ましたあなたに痛覚がなかったなら――

 それはきっと、どこかの観測者が『あなたの存在』に興味を失った証でしょう。

 もしかしたら『上位の観測者』に興味を失っただけかもしれませんね――


 そう……機能主義に乗り換えましょうよ……クオリアなんてうらめしや……

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