15. 恋の呪い
午後の鐘が鳴る頃。
ナナオはイモートオモイーに連れられ、都にある研究所を訪れた。
レンガ造りの建物は、屋上の一部が緑に覆われている他、アーチ状の装飾とガーゴイル像付きのランタンに飾られた壁が印象的だ。
ここで、王室から支援を受ける研究者たちが日夜研究に励んでいるのだという。
開かれた扉をくぐると、賑やかなロビーに迎えられた。
交流の場となっているようで、老若男女様々な人が熱心に議論し、話し込んでいる。
「盛り上がっていますね」
ナナオがイモートオモイーに囁くと、彼女は微笑んで頷いた。
「都最大の学術研究機関ですもの、国で最も熱心な探究者たちの集う場ですわ」
「研究って、例えば?」
「神学、史学、人類学……様々ですわね。屋上では植物の研究もしているのだとか」
「へえ……神様がたくさんいて、神学を研究するのは大変そうです」
「ふふっ、本当に。わたくしも勉強中ですが、神様の逸話を読んでいるだけでも楽しいですわよ」
他愛のない話をしながらロビーを進む。
ナナオは受付の案内に従い、奥の研究室へ向かった。
ロビーを出て研究棟に入ると、途端に静かになる。
古い紙の積もったにおいと、人の気配を漂わせる静けさ。
ナナオはつい自分の大学時代を懐かしんだ。
(文系キャンパスの研究棟ってこんな感じだった気がするなぁ)
いくつも部屋が並ぶ廊下を見ながら、ナナオはしみじみする。
やがて、目当ての研究室に辿り着いた。
チュウジツナジジが扉を叩くが、返事がない。
「……おや。御留守でしょうか」
「入れ違いになってしまったのかしら」
チュウジツナジジは首を傾げながらもう一度扉を叩こうと手を浮かせた。
瞬間、部屋の中から物の雪崩れる音がする。
ナナオもイモートオモイーも目を丸くし、チュウジツナジジは急いで扉を開けた。
見れば、本棚から溢れた羊皮紙や木の板が床で山を作っていた。
書物の山がもぞもぞ動いたかと思うと、男が這い出てくる。
長く伸びた髪を雑に束ねた男は、傾いた眼鏡を直すとナナオたちを見て「あはは」と照れ笑いをした。
「すみません、お騒がせしてしまって」
「だ、大丈夫ですか?」
「ちょっと高いところにあるものを取ろうとしたら、いやーうっかりうっかり」
部屋の惨状に比べるとずいぶん呑気な男だった。
チュウジツナジジは咳払いをして尋ねる。
「文化人類学を研究されている、ソト・キョーミ先生でいらっしゃいますでしょうか」
「あえ? はい、キョーミは自分ですが……」
(だいぶ簡単な名前来たな……)
ナナオはきゅっと口を結んだ。いらないことを言いそうになった。
男──キョーミはイモートオモイーを見て表情を明るくする。
「おやー! イモートオモイー様じゃありませんか! お久しぶりですね~。お家が大変なことになったと聞いて、どうされてるのかと心配していたんですよ~」
「お気遣いありがとうございます、キョーミ先生」
「今日もトナリ王国についてですか? お家も商会も、今は苦労されてるでしょう」
(……え? そうなんだ)
ナナオは少し意外に思ってイモートオモイーに目をやった。
確かに彼女の両親は屋敷で見たことがない。イモートオモイーが自然に過ごしているから、多忙な両親なのだろうと勝手に思い込んでいた。だが確かに衛兵たちが「両親は信頼回復に奔走」みたいなことを言っていた気がする。
(……アクァレージョ家って王国派で商人派な貴族? みたいな感じだったんだよね確か。王子の婚約者第一候補だった理由もそんな感じだったし……その家から国王殺しが出たら、そりゃ大変だよね……)
ナナオが一人でうんうん頷いているのも構わず、イモートオモイーは話を続けた。
「先生に少しお話を伺いたいことがありますの。お時間よろしいでしょうか」
「わー! なんでしょう……あ、すみません立ち話なんて! どうぞどうぞ!」
キョーミが慌てて部屋に招くが、積み上げられ崩れた書物があまりにも多く、足の踏み場もない。
チュウジツナジジは咳払いをしてイモートオモイーとナナオを廊下に残した。
「お嬢様方、少々お待ちを」
そう言って、チュウジツナジジはてきぱきと散らかった物をまとめ始めた。
キョーミは呑気に拍手している。
「お~お手際~」
「一旦こちらに集めておく形でよろしいでしょうか」
「大丈夫ですよ、助かります~。あ、どうぞ座って座って」
すすめられるまま、イモートオモイーに続いてナナオも部屋に入った。
だが「座って」と言われても、かろうじてソファーの端に人が一人座れそうなスペースがあるだけだ。
イモートオモイーが極めて浅くソファーに腰かけ、ナナオとチュウジツナジジは壁際に立つことにした。
キョーミは申し訳なさそうに微笑む。
「いやーすみません、狭い部屋で。それで、何について話しましょうか」
「……ご覧いただきたい物がありますの」
イモートオモイーはそう言って木箱から花の髪飾りを出した。
花はすっかり萎れている。
「こちら、生花を使った髪飾りですの。この花について何かご存じかしら?」
「へえ! これはこれは」
髪飾りを受け取ったキョーミはその名の通り興味深そうな顔をして、ためつすがめつ髪飾りを観察した。
ルーペで枝や花を拡大し、うんうんと頷いてからキョーミは顔を上げた。
「これは、コイシラセですね。この細い枝と特徴的な表皮の模様は間違いありません。いやー腕のいい職人さんが作られたんでしょうね、とても繊細な髪飾りです。素晴らしい」
「コイシラセというと、恋の色にふさわしい、夢のような桃色のはず。こんなに青い花もあるのかしら」
「もしかしたら装飾用に青いコイシラセも開発されたのかもしれませんよ。人気のお花ですから、品種改良に熱心な者も多いと聞きます。イモートオモイー様の髪のように、青は高貴な血筋の方を象徴する色。お求めになる方はたくさんいらっしゃるでしょうからね~。似たような見た目でコイナガレという花もありますが、枝が脆くて装飾品には不向きですし、これはコイシラセです、間違いない!」
キョーミはそこまで言って、えへんと軽く咳払いをした。
「では、コイシラセの花についてお話をしましょう。コイシラセといえば、告白を手助けするお節介な女神様の話ですよね!」
「……そうなんですか?」
「ええ。コイシラセの花言葉は『告白』『想いを伝える』……恋物語によく登場する花ですわ」
首を傾げるナナオにイモートオモイーが説明する。
キョーミは嬉しそうに頷いて続けた。
「思い合っている二人がなかなか告白できずに、二人して顔を赤くして立ち尽くしていましたら、それを見た恋の女神様がもどかしい二人を後押ししようと、二人の頭上にある枝に淡い桃色の花を咲かせたんですね! 突如咲いた花を見て驚いた二人は、女神の助力を感じて、やっと想いを伝えることができた、という逸話です」
「スイトー神の花雲神話ですわね。わたくしも大好きなお話ですの」
イモートオモイーも楽しそうに言った。
「女神が花の雨を降らせたとか、花冠を渡したとか、諸説あるのでしたわね」
「わっ、よくご存じで! 嬉しいな~。この素敵な逸話から、ここケッコーデカ王国では古来より、告白の時に身に着ける花とされてきました。そこから転じて、身に着ける者の魅力を引き出す花として、装飾品の意匠によく採用されるんですね~。春の祭りではコイシラセの花を着けた子供たちが輪になって踊るのが恒例ですし」
このまま放っておくと話がずれそうだ。
ナナオはつい口を挟んだ。
「では、この髪飾り自体はよくある装飾品ですか?」
「はい~。でも生花を使っているのは本当に珍しいですよ。香りが強くて、控える人が多いものですから」
「……確かに、箱を開けてから夜会に出席するまで、ずっと甘い香りがしていましたわ」
はっとした様子でイモートオモイーは尋ねた。
「トナリ王国では、コイシラセについて何か特別な意味はあるかしら。女性がコイシラセの花を身に着けると、この国とは違う解釈をされるですとか……」
「あちらの国でもコイシラセの花は装飾品として人気の意匠ですよ。でも確かに、ちょっと細かい意味合いは変わるかもしれませんね~」
キョーミはうんうんと頷き、髪飾りをイモートオモイーに返した。
「トナリ王国でもコイシラセは身に着けた人の魅力を引き出す花とされていますが、髪に飾ると『恋人募集中』って意味になるんです~。ですので、身に着けるのは独り身の人限定なんですね」
「まあ、そんな! た、確かにシーヌは独り身だけれど……あの子はそれを知っていたのかしら……どうしましょう、そのせいでシーヌは……?」
悪い想像に顔を青くし、胸を押さえるイモートオモイーをなだめつつ、ナナオは確認のため尋ねた。
「恋人募集中の印に過ぎないってことは、身に着けた人を見て恋に落ちるほどの効果はないってことですか?」
「そりゃあ、コイシラセは可憐で良い香りの花に過ぎませんから……あーなるほど、もしかして魅了術の話ですかね?」
キョーミが呑気に両手を合わせた。ナナオは聞き慣れない単語をそのまま返す。
「……魅了術とは?」
「トナリ王国には、感情に強く作用する香水が流通しているんです。宝石産業で豊かなせいか、昔から香水の研究が盛んでして……その中でも、『魅了の香水』というコイシラセを使ったものがあってですね」
そう言って、キョーミは黒板を引っ張り出してきた。
人型を二つ描いたかと思うと、片方には香水瓶、もう片方には花の枝を描き込む。
「この香水を使った者と生花を身に着けた者が出会う……つまり手の届く距離まで互いに近付くことで、コイシラセの香りが一際強く漂います。それが魅了術発動の証であり、互いへの恋愛感情を持たせるのです。といっても、効果は一晩と短いものですが」
それを聞いてナナオは一瞬頭が真っ白になった。イモートオモイーも同じだろう。
存在したのだ。
運命の恋だと思わせるほど唐突に、両者を恋に落とさせる手段が。
ナナオは震える声で尋ねた。
「その魅了術って、お隣ではありふれた、一般的なものなんですか?」
「いやー、花はともかく香水がとても高価でして。それこそ、王侯貴族でもないと入手できないでしょうね。ですから、庶民憧れの魔法というものになっているわけですよ~」
ナナオとイモートオモイーは思わず顔を見合わせた。
「まさか、王子が香水を?」
「言われてみれば、シーヌと一緒にご挨拶した時、殿下からとてもいい香りがしましたわ。それまで普通にしていたシーヌが、殿下とご挨拶した途端に様子が変わって……まさしく、運命の恋に落ちたような……」
「状況はかなり一致しますね」
イモートオモイーは険しい表情でキョーミに向き直った。
「キョーミ様。この髪飾りなのですけれど、王室の方から妹に贈られましたの。建国記念式典の朝に届いたもので、これを身に着けて出席するように、と手紙で頼まれました」
「へえっ?! 王室から?! 妹さんに?!」
キョーミはぎょっとして目を丸くし、彼の声は奇妙に裏返った。
「それも、式典に? 式典というと、その、トナリ王国からの出席者もいましたよね?」
「ええ、ツラノカワアツシ王子が。おそらくコイシラセの香水をお召しでしたわ」
「それは……それはですね、とんでもないことですよ」
キョーミは咳払いをしてから深刻な表情で声を潜めた。
「……一応お尋ねしますが、妹さんが王子の愛人になるというお約束を?」
「いいえ、そのようなものはございません」
「だとすると……いや~でもさすがに……」
キョーミは散々言葉を濁した後、廊下に誰もいないかわざわざ確認してから、さらに声を小さくした。
「それは、絶対に、おかしいです。……この国の王室であれば絶対にやらないことですよ」
「……どういうことですの?」
イモートオモイーの尋ねる声も自然と小さなものになった。
互いに距離を縮め合い、内緒話と同じ声量で話す。
「……かつて、トナリ王国とケッコーデカ王国の間では、その魅了術によって、あわや同盟関係存続の危機にまで陥りました。トナリ王国の王族にとって、コイシラセの香水は富の象徴。地位ある者がそれを身に着けることは当たり前のことなんです。そしてケッコーデカ王国では、特に若い人がコイシラセの花を身に着けることは一般的でした。公的な場ほど自分の魅力を発揮したいでしょう、交渉の場でもね」
服装もまた交渉術の一種ではある。
ナナオは理解を示しつつも、何が起こったか想像がついて顔をしかめた。
「……それで、意図せず魅了術が発動する事故が起こった?」
「そうなんですよ~。効力は一晩だけとはいえ、一晩もあれば過ちには十分でしょう? ですから、両国の者が揃う公的な場では、コイシラセの花と香水を避ける決まりができたんです。ただ、理由を聞かれると両者の醜聞をさらすことになりますから、王族や外交官以外には知らせず、それとな~く指摘したり距離を取らせたりしているわけです。王室付きの儀礼指導役や侍従長は当然、熟知しているでしょう」
そこでキョーミは難しい顔をした。
「たぶん、一般的なコイシラセの花であれば気付き次第誰かが妹さんを引き留めたと思います。でもこの花は色味がコイナガレに似ている。だから見逃されてしまったんでしょうね~」
「コイナガレには、そういう心配がないってことですか?」
ナナオが尋ねると、キョーミは顎を撫でながら答えた。
「コイナガレというのは、冬の一番寒い朝に咲く花です。霜のように脆い枝に、冬空を映したような色の花を咲かせます。寒さに耐えて咲き誇ることから、花言葉は『忍耐』『悲しみの中に立つ』……転じて、『私に想いを寄せても無駄ですよ』とお断りする意味で、既婚者や意中の人がいる場合に身に着けることが多い」
「……コイシラセとは真逆ですね」
「そうなんです。だから式典で身に着けていても誰も止めなかったんでしょう。妹さんの身に着けた花がコイシラセだと、誰も思っていなかった」
それを聞いてイモートオモイーは震える口を開いた。
「……では、魅了術の発動を目論んで、妹にわざと青いコイシラセの花を?」
「そうとしか考えられません。加えて、ツラノカワアツシ王子ですよ。王子も変です」
険しい表情になるイモートオモイーに対し、キョーミも眉根を寄せた。
「トナリ王国側も、香水選びは服飾儀礼と並んで厳しいはず。あえてコイシラセの香水を使ったとしたら、ご自分の意思だとしても誰かの指示だとしても悪質です。好き好んで事故を起こしに行ってるんですから」
「……ツラノカワアツシ王子は、なんというか、あえて規則を無視するような性格の人ですか?」
ナナオが尋ねると、キョーミは「うーん」と顎に手をやった。
「……これはあまり、よそでは言っちゃいけないんですが、王子は大変な女好きでしてね」
「女好き……」
「お妃様は相当やきもきしていますよ。お子さんがいらっしゃって王宮内の地位も安定しているから黙っているだけで、そうでなかったらたぶん切除してたんじゃないかなー王子のあれを。トナリ王国も相当気を付けていたと思うんですが……王子は以前、護衛役を買収して黙らせ、一人で街に出て女漁りしていた、なんて醜聞があるぐらいです。奥様と離れて羽目を外すために、コイシラセの香水を使った可能性はあります」
バキッ。
突然物の折れる音がして、ナナオもキョーミも飛び上がった。
イモートオモイーの手元にあった扇子が、真っ二つにへし折られている。
「あんまりだわ」
イモートオモイーは俯いたまま、ぽつりと呟いた。
ぽつ、ぽつ、と膝が濡れていく。
「こんなの、あんまりだわ……シーヌの何もかもを、弄んで……っ!」
肩を震わせ、イモートオモイーは顔を両手で覆って泣き崩れた。
ナナオは何も言えず、彼女の肩をそっと撫でる。
ゼッタイシーヌは、贈られた花を身に着けたために偽りの恋に踊らされた挙句、無実の罪で処刑された。
本人が望んだ恋ならばともかく、その恋すらも仕組まれていたのかと思うと、あまりにも不憫だ。
おろおろと両手を意味なく浮かせているキョーミに向かってナナオは尋ねた。
「この青っぽいコイシラセの花は、どこで手に入ると思います?」
「いやーさっぱり思いつきません。花の女神が願いに応じて奇跡をもたらしたとしか思えない花ですからね。髪飾りを作った職人から心当たりを辿った方が、まだ探しやすいのではないでしょうか」
キョーミはそう言って頬を掻いた。
彼の「奇跡」という言葉を聞き、何かがナナオの頭に引っかかる。
ふと思い出したのは、イモートオモイーの言葉だった。
『婚約発表の席で彼女が祈りを捧げた瞬間、雪のように花が降ってきましたの』
「……いるじゃん……」
ナナオは思わず呟いた。
一人、確実に存在する。
神に祈り、奇跡を起こす──花を降らせた令嬢。
普通とは異なるコイシラセの花を用意したのは、もしや、第一王子の婚約者ではないか?