競うは時間
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
やあやあ、つぶらやくん、今日はだいぶ早いじゃないか。まだ集合まで30分以上あるっていうのに。
――それを行ったら、お前もたいがいの早さ?
そりゃ、誘った側が余裕をもって到着しているなんて、当たり前のことでしょ。僕が遅れたら、後から来た人がどこに行けばいいか分からなくなる。集合場所を決めていたとしても、看板代わりになる誰かがいたほうがいいだろ。
ところで、つぶらやくんはここまで来るのに、どれくらい時間がかかった? 僕はざっと乗り換え3本の、一時間ちょいってところ。多分、君の住んでいるところからだと、あと五割増しくらいじゃないかな。
移動は、僕たちが昔から関心を払っている事柄のひとつだ。ちょっとでも早く動くために、動物を使い、道具を使い……今もなお満足することなく、時間と世界を縮め続けている。
でも、大多数の人が知っているのは、ごく一部の移動手段だけ。仕組みが分かり、安全性や再現性も含めて、「掌中にある」ものばかり。
もしその基準を下げたら、どのようなものがあるのか? 僕が小さい頃に出くわした、少し不思議な体験があってね。どうだろう、聞いてみないかい?
昔、僕と友達は近所に住むお兄さんと、よく遊んでいた。
時間が余っていると話していたそのお兄さんは、おそらくフリーターだったんだと思う。日が暮れたころにスーパーへ行くと、エプロン姿のお兄さんが働いている姿を見ることが、しばしばあった。
知っている人がいるお店って、なんとなく利用しづらくない? 僕はそれがすっごく苦手でさ、もし働いているお兄さんを見かけると、そこから離れたくなるんだ。昼間はいつも遊んでもらっているのに、不思議な気持ちだよ。
で、そのお兄さんが、ときどき披露してくれる特技に、「目的地一番乗り」がある。
単純な話、僕たちとお兄さんで一、二キロ先にある目的地まで競争するんだ。相手への妨害以外なら、なんでもいいというルールでね。
僕たちが勝てると、お兄さんはお菓子を買ってくれるんで、僕たちはがぜんやる気になった。
ただ遊びが始まってから長い間、僕たちはお兄さんを下すことはできなかった。
お兄さんはスタートから100秒間動かない。ハンデとのことだったけど、これが有効に活かせたことはなかった。
全力疾走で目的地へ向かっても、そこにはもう、お兄さんが立っているんだから。
どうにかお兄さんの先へ回ろうと、遊ぶ前に友達と町の地図を広げて、最短ルートを探した。自転車にまたがって、ゴールへ急いだこともあったけど、目的地へ近づくとすでに仁王立ちしているお兄さんが。
お兄さんも、何かしらの移動手段を使っているんじゃないか?
そんな疑惑が持ち上がったこともある。実際、お兄さんはいつも勝負に応じてくれるわけじゃない。
「疲れているから、今日はちょっと無理だよ」と、仕事を知っている身からすると、ごり押ししづらい理由をあげてくる。それでも僕たちは、事前にバスの時刻を調べて、勝負を挑むときにバスが使えない時間を、もっぱら選ぶようにしていたけどね。
どうしてもお兄さんのネタをつかみたい僕たちは、見張り作戦を使うことにした。
つまり、お兄さんと遊ぶ組と、遊ばずにお兄さんをこっそり見張る側の二組に分かれて、調査をするというものだ。お兄さんに悟られるのを防ぐため、見張る側は初めからお兄さんとは接触せず、近くに潜んで様子をうかがった。
いつも同じメンバーだと、怪しまれる恐れがある。僕たちはローテーションで参加するメンバーを替え、機会を待ったのさ。
そうして、僕が見張り側へ回った際、折よく例の競争ゲームが始まった。
目的地はここから1.5キロ先にある、河川敷グラウンド。お兄さんに対する僕たちのチームは全員が自転車にまたがっていた。対するお兄さんは、徒歩のまま。
スタートの合図とともに、みんなは一斉に駆け出した。かの公園までの最短ルートなら、事前に割り出している。信号なども徹底的にかわしているから、ものの5,6分で到着するはずだ。
そのうちの100秒を費やし、どのような細工をするのか。僕は茂みの影へ隠れたまま、お兄さんの動きを見守っていた。
100秒の間、確かにお兄さんはその場を動かなかったが、まったくアクションしないわけじゃなかった。しきりに腕時計を見て、時間を気にする素振りを見せていたが、その腕時計が妙に光るんだ。
今日は晴れとはいえ雲が多く、日もちょうど陰っている。にもかかわらず、お兄さんの時計は掲げるたびに光を放っていた。
そうして、僕の感覚で100秒を数える前後を迎えて。
腕時計の光源を求め、空へ視線を泳がせていた僕は、お兄さんの真上に当たる空中が、少しぼやけたように思えたんだ。たとえるなら、地面から上り立つかげろうが、逆に空から降ってきたかのようだった。
その範囲はじょじょに伸び、そして下っていって、やがてはお兄さんの隣まで景色までもが歪んで見えるように。
――ひょっとして、これがお兄さんのからくり!
僕は飛び出したときには、お兄さんはそのかげろうの一部へ、手を伸ばしているところだった。
わずか10数メートルの距離を瞬く間に詰めた僕だけど、気配に気づいて振り返ったお兄さんが、「危ない」と叫ぶのを十分に聞くことができなかった。
走り寄るとき、このかげろうらしきものを突っ切る腹積もりだったよ。けれど、どういうわけか、僕の身体は大きなスポンジにぶつかったように、やわらかく弾かれたんだ。
尻もちをつくまいと、とっさに伸ばした腕は途中で誰かに掴まれたような感触とともに、動かなくなってしまう。
「暴れるな! とにかく今はダメだ!」
あせって身をよじろうとする僕に、お兄さんの制止の声が浴びせられる。
その時にはもう、全身が強く上へ引っ張られたかと思うと、僕の見ている地面がぐんぐん遠ざかっていったんだ。
ほんの数秒足らずで、僕たちは市内を見下ろせる高さにまで持ち上がっている。家々の屋根は、色のついたゴマ粒ほどにしか見えず、その景色はじわじわと動いていた。
地図を見慣れていないから判然としないが、おそらくは目的としている河川敷が、眼下に見える。
「じっとしてなよ。下手に動いたら、落っこちてそれっきりだからな」
高さにふるえる僕を、お兄さんがなだめる。けれどお兄さん自身も、真下を見やったまま「まずったな」と小さく舌打ちした。
次の瞬間、今度は上から押さえつけるような圧力と一緒に、どんどん地面が近づいてきた。家の屋根があっという間にゴマからピンポン玉ほどの大きさになったかと思うと、次の瞬間には家の壁が、僕たちの目の前にあった。
景色は分かる。目的地より、更に数百メートル先にある土手下の田んぼ。その一角に僕たちは降り立っていたんだ。
けれど、それもほんの一秒程度のこと。再び僕らは身体ごと、空の上へと連れていかれてしまった。繰り返す急上昇、急下降に頭ががんがん痛んで、吐き気がこみ上げてくる。
一方、お兄さんはこたえた様子を見せず、上と下を何度も見やりながら、僕へ声をかけてきた。
「次にもう一度地面に着いたら、思い切りのけぞるんだ。勢いをつけてね。さっきのように地面へついたら、すかさずやるんだ。
さもなきゃ、また空へ連れてかれる。もうどこへ行くか分からないぞ」
すでに真下に広がる街並みは、僕の把握できているものじゃなくなっている。
持ち合わせもないし、ここより遠くなったら果たして帰ることができるかどうか。僕はお兄さんの顔色をうかがいつつ、次に降下する瞬間を待ち受けたんだ。
広い月極駐車場のど真ん中。そこへ再び下ろされた僕は、すかさずお兄さんにいわれた通りにした。
景色がすっかりひっくり返ってしまうほど背を曲げると、急に腕の掴みが取れた。でこぼこのあるアスファルトへ背中を打ち付け、大の字に寝転ぶ僕の前で、あのかげろうの塊はまた、ぐんぐん空へ上っていき、見えなくなってしまったんだ。
「あれはな、俺たちにとっての大きな脚だ。俺たちはひっつき虫のようなものさ」
隣でお兄さんが話してくれる。
ひっつき虫は、別の生き物の身体や服にくっつき、短い時間で遠くまで移動する。その僕たちがひっつき虫レベルへ落としてしまうのが、あのかげろうの塊らしい。それにうまいことすがることができれば、あっという間に目的地へつけるって寸法だ。
お兄さんはずっと前から、この近辺を行き来する「脚」を研究していたらしい。いつ、どこに来て、どこへ向かうのか。腕時計などは、それを測るために自分で少し手をくわえたものだとか。
ただ、今回は特別。僕というイレギュラーがくっついたことで、「脚」の運びが乱れた。ゆえに目的地を外れたうえに、いつもより脚を上げ下げするペースが早まっていたらしい。
脚がどこまで行くのか、お兄さんも知らないようだった。
その日、初めてお兄さんはみんなにお菓子を買ってくれたんだ。
念願の勝利に湧くみんなだったけど、僕はあの体験を思い返して、少し複雑な気分だったよ。
それからお兄さんは競争をすることはなくなった。僕たちもやがて大きくなり、お兄さんと遊ぶ機会は減っていったよ。
いつのころからか、お兄さんの姿も見ることはなくなってさ。近所の人の話だと、少し前に引っ越してしまったとのことだったんだ。