敵として、友として
そこから、かなり離れたザリ湖の対岸に、あの人物がいる。
黒馬にまたがり、漆黒のマントをなびかせた、例の鉄仮面だ。
はるか前方に立ちのぼる黒煙に、なにを思うのか。
表情のない鉄仮面からは読み取るべくもないが、その手に握られたスイッチが用ずみとばかりに放り投げられ、地面にうつぶせに倒れた男の手もとへと転がった。
全身に傷を負ったその男は、ジョーブレイカーだった。
「……う」
ひと声うなったジョーブレイカーは、腕で身を起こし、
「……私を……黒幕に仕立てるつもりか……」
と、スイッチを、木立へ投げ捨てた。
「なぜ、ディアナ大祭主をかどわかした……」
「……」
「狙いは月の聖石か……カジャディール様の失脚か……!」
鉄仮面は、本当に生きているのか疑わしくなるほどの陰気をまとい、黙然と、湖へ視線を向けている。
「皇帝の座か!」
答えるかわりに、腰に下がったサーベルが引き抜かれた。
暗澹たる地の底へ引きずりこむかのような威圧感に、周囲の景色さえもゆがんで見える。
ぱっと起き上がり、飛びすさったジョーブレイカーの手から放たれた煙玉が、一瞬のうちに地面で弾けた。
そのころ。
ユウは、ヒッポに刺された左太腿の応急手当を受けていた。
「可能ならば、しかるべき医者にみてもらったほうがいい」
と、丁寧に包帯を巻くのは、バレンタイン紋章官だ。
無論、ここには軍医もいるが、ユウとN・Sのことは極秘裏に処理しようというクローゼの意思を尊重し、余人の手をまじえないようにはからってくれたのである。
「ありがとう、ございました」
身支度を整えて立ち上がったユウは、ディアナのもとへ向かった。
「大祭主様」
「あ! どうか、そのまま」
ディアナは、ひざまずこうと身をかがめたユウをとどめた。
「あなたには感謝しています、カウフマン准神官」
「いえ。……ですが、ひとつお願いが」
「ええ」
「カジャディール大祭主様に、災いが降りかかることのないように、どうか……」
それと聞き、ディアナは意外そうに目を丸くした。
「カウフマン准神官」
「はい」
小さな両手が、ユウの手を包みこむ。
「心配にはおよびません」
ディアナは、愛らしい笑顔の中にも威厳のある面持ちで、頼もしく、請け負ってくれた。
「ありがとうございます」
これで、少し心が軽くなった。
「では……」
「あ、准神官」
「は……」
「あなたの、旅の助けとなるかはわかりませんが……」
と、ディアナはなにを思ったか、ユウの頬に両手をそえ、ふたりの額をふれ合わせる。
「だ、大祭主様……?」
「静かに。目を閉じて」
ユウは言われたとおり、固く目を閉じた。
……が。
「あ……!」
すぐさま目蓋を開いた。そこに浮かんだ光景に、思わず驚愕してしまったからである。
「駄目。目を閉じて……集中して……」
「……はい」
ディアナがなにをしようとしているのかようやく察しがついたユウは、ひとつ息をはき、心を開け放つ。
砂に水がしみこむように、ふたりの意識が同化した。
……見えるのは、向かい合う、N・Sオオカミ。
サイズが同じところを見ると、こちらも、同サイズのなにかに乗っているらしい。
そう思うや否や、左手から光芒が走り、視界の半分を失った。
斬られた。
ユウの意識にも、その感触が伝わった。
相拮抗するオオカミと『それ』は、その後幾度も斬り結び、離れてはまた、刃をかわす。
いったん距離をおいた二体は一足飛びに間合いをせばめ……、
「うッ……!」
互いの胸へ、剣を突き立てた。
はじめてN・Sに乗った、あのときと同じ。痛みのない感触だけが、ユウを貫く。
もう、間違いはない。これは……十五年前の光景。
N・S、カラスの記憶。
だが、ここからがユウの、いや、アレサンドロさえ知らない真実だった。
ユウの憑依したN・Sカラスは、確かにこのとき、オオカミの身にもたれかかるようにして機能を停止した。
しかしユウは胸から魂の抜け出る感触を覚え、右側のみとなった視界の端に光球を見たのである。
光球はみるみる収縮し、人型をなす。
現れたのは、美貌の女性。
清げで、凛とした、大輪の白百合のごとき、
「カラス……!」
死んではいなかったのだ。少なくとも、この時点までは生きていた。
そうこうしている間にもカラスは腰の太刀を抜き払い、なにか叫びながら、N・Sの左手へと駆けていく。
左の視界を失っているN・Sカラスは、その目指す先に誰がいたのか、結末がどうであったのか……これ以上の情報を残してはいなかった。
「これが……私の見た、すべてです」
額を離したディアナが言った。
その顔には、先に見せたような疲労はない。声も、意志の強い目も、しっかりと、ユウへ投げかけられている。
「カウフマン」
「は……」
「気をつけて。無事を祈っています」
「はい。カジャディール大祭主様にも……とにかく進みますと、お伝えください」
「わかりました」
ユウは頭をたれ、きびすを返した。
そこには……。
「ユウ……」
クローゼが立っていた。
「……ユウ、もう一度聞かせてくれ。本当に、その指輪を置いていくことはできないのだな?」
「ああ」
「いまならまだ、君の罪は揉み消せる。それでも……」
「それでもだ」
「……そう、か」
目蓋を閉じ、太く、ため息をはいたクローゼは、
「わかった」
天を仰ぎ、笑顔を作った。
「次に会うときは、戦場だ」
「……ああ」
「戦場のならい、手加減はしない。正々堂々と剣をまじえよう」
「ああ」
ふたりは、どちらからともなく、固く、握手をかわした。
「君の大望が、はたされることを祈っている」
「クローゼも……」
と、言いかけたユウだったが、
「……いや。クローゼはきっと、夢をかなえられる」
「夢?」
「いい将軍になれる」
「あ……うむ、そうだろうか。できれば、そうなってから……君とは再会したいな」
「……」
互いに、それ以上の言葉が続かなかった。
だが、目と目を見かわすだけで、言葉は足りた。
高台へ幌馬車が走りこんできた。
「迎えが来た」
ディアナへ、バレンタインへ一礼し、ユウは馬車へ向かう。
「ユウ、必ずだ! 必ず、また会おう!」
「ああ! ……クローゼも、元気で!」
クローゼとディアナは姿が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けていた。
高台をくだった馬車は、一路、パリュを目指してひた走る。
そこからまたアシビエムの本道へ戻り、西へ進路を取ろうというのが、アレサンドロとハサンが考えた逃走ルートである。
アレサンドロはいまユウの手当てにかかりきりになっているため、御者台に座っているのはハサンだ。
手綱を台にくくりつけ、なんとも、ものぐさに鞭を入れているが、馬車はそれでも道をはずれることなく、一定の速度で走っていた。
そこへ、音もなく、幌へ舞い降りた影がひとつ。
「ほぅ」
すぐに気配を察し、振り向いたハサンは、そこに、肩口を押さえたジョーブレイカーが、うずくまっているのを見た。
「運賃は、一キロにつき五十フォンスだ。どこまで行きたい?」
「……おまえたちと、ともに行く」
「ならば金はいらん」
ハサンは馬の尻に鞭を入れた。
「中に腕のいい医者がいる。見てもらうがいい」