ビジョン
メーテル神殿、ディアナ大祭主は当年十八歳。
月女神の神光をその身に宿したといわれる、白髪の聖乙女である。
顔は青ざめ、乾いた唇はひび割れていたが、意志の強い紫の瞳は、しっかりとした輝きを持って、ユウを見つめている。
大人びた容姿からつむぎ出された、
「ハイゼンベルグ将軍」
というあどけなさを残した声に、ユウは、少し驚いた。
「このかたは?」
「は。彼は……メイサ神殿、ヒュー・カウフマン准神官。猊下をお助けするために、協力を頼みました。ご安心ください、信用できる男です」
「そうでしたか、メイサの……。私のために、世話をかけます」
「いえ、とんでもありません」
頭を下げる大祭主に恐縮し、クローゼ同様ひざまずいたユウも、大祭主への当然の礼として手を取った。
すると、
「あ、だ、駄目だ、ユウ!」
「え……?」
「あ……!」
細く、可憐な大祭主の身体がビクリと跳ね、大きくのけぞったものである。
「だ、大祭主様……?」
固くふせられた目蓋が痙攣し、左手が、蚊を払うように振りまわされる。
強烈な力でつかまれているのは、ユウの手ではない。
N・Sカラスがおさめられた、指輪。
「大祭主様……!」
「ふれるな!」
手を伸ばしかけたユウを、クローゼが制した。
「過去か、未来か。君のその指輪にまつわる、なにかを見ておられるのだ」
「なに……?」
手のひらを通して、千里の先も、万象の真理をも見通すという、異能の力。
世間には公表されていないが、この力こそが、歳若いディアナを大祭主たらしめたのだ。
「普段は封印のため、常に手袋をされているのだが……」
それはいま、テーブルの上にある。
水差しと水を張った洗面器が置かれているところを見ると、顔でも洗っていたのだろう。
「どうすれば」
「いまは、落ち着かれるのを待つしかない」
ユウは戸惑いながらも、うなずくしかなかった。
そうして、いくばくかの緊張の時間が流れ……。
ディアナは突然、胸もとを苦しげにつかみ、
「ぁ、う……!」
と、ゆらり、揺らめいた。
「大祭主様!」
倒れこんできた身体を、ユウは胸へと抱き止める。
見開かれた目が虚空を泳ぎ、焦点を定めるまでには、また、しばらくの時が必要だった。
「……あ……」
ようやく我を取り戻したディアナの額には、汗が光っている。
荒い息づかいで指輪から右手を離し、
「ごめん、なさい……」
「いえ……」
「……手袋を……」
ディアナはクローゼから手袋を受け取り、指を通した。
「大祭主様、なにが……」
見えたのか、と、たずねかけた言葉を呑みこんだのは、腕の中のディアナが、ユウの唇をふさぐように手をかざしたからだ。
見つめ合う視線の内で、ディアナがN・Sに関するなにかを見たらしいことを、ユウは直感した。
そのときである。
「見張りがいねぇ!」
ドアの外で、何者かが叫んだ。
戸板が叩かれ、ガチャガチャとドアノブが揺れる。
「鍵ぁかかってる!」
「中、確かめろ!」
「お頭に鍵借りて来い! 他の連中も起こせよ!」
会話を拾っただけでも、声の主は六人。
そのうちひとりが、ヒッポのもとへ走ったようだ。
「くそっ……! すまない。俺がもっと、気をつけていればよかった」
ユウは無駄にした時間をくやみ、舌打ちした。
「いいえ、私の不注意です。手袋さえしていれば……」
「猊下、責任の所在はあとにしましょう。まずは逃げなければ。ユウも、しっかりしてくれ」
「……ああ」
とはいえ、どうしたものか。
部屋の出入り口は一カ所しかない。隠れられそうな場所も皆無だ。
つまり、こちらから出ていくか、押しこんでくるのを待つかの、二択。
どちらにしても、リスクがある。
頭をかかえたユウが、はた、と思い出した言葉は……。
「……とにかく、動け」
「うん? なに?」
「悩んだときには、とにかく動けだ!」
ユウは自分に言い聞かせ、ポーチをあさり、手持ちの道具を確認した。
「よし……!」
床へ耳を当てると、ヒッポはまだ来ていない。
「すぐにここから出よう」
ディアナとクローゼにいくつか指示を出し、ユウはつかんだ水差しを、力まかせに、床へ叩きつけた。
磁器の水差しである。
もちろん粉々に砕け、高音の、けたたましい音が響く。
「あ! おい! やっぱりここにいやがる!」
ドアの前に集まった五人の手下は鍵を持っておらず、狙いどおり、扉への体当たりをはじめた。
「しまった!」
などと、わざとらしく叫びつつ、ユウは、ディアナとクローゼをドアの真横へ導く。
気づかれないよう、そっと鍵を開け、体当たりの振動に合わせて、一気にノブをまわすと、
「うわあっ!」
支えを失った手下五人は、将棋倒しに部屋へなだれこみ、床へ積み重なってしまった。
「行こう!」
その山を飛び越え、三人は廊下へ飛び出した。
「右から、人が」
と言えば、ヒッポの手下が右から顔を出す。
「止まって」
と、立ち止まれば、間一髪、大人数が先の通路を横切っていく。
クローゼの胸に抱きかかえられながら、手袋をはずした右手を前方にかざしているディアナ。そこからもたらされるヒッポたちの動きと出口への道順の情報は、実に正確を極めている。
「おつらくはありませんか、猊下」
「直接ふれているわけではありませんから……。それよりも、将軍に申し訳なくて……」
「いえ、軽いものです」
床へ積み重なった男たちの醜態を見て、少し溜飲を下げたらしいクローゼは、元気一杯そう答えた。
だが……。
いかなディアナの力であっても、相手の数が減るわけではない。
ヒッポ一家は大所帯。ユウが噂として聞いただけでも、確か四十人近くはいたはずだ。
敵をかわせばかわすほど、背後から来る足音の数が増えていく。
長い直線通路で振り返ると、十数人の追っ手が、血走った目でせまっていた。
「振り返るな! 走れ!」
「あ、ユウ!」
ユウはパッと身を返し、二メートルほどの幅のせまい通路に立ちふさがった。
「上等だぁ!」
「ぶっ殺せ!」
ユウはポーチからあの発光筒を引き抜き、素早く狙いを定め、紐を引いた。
鈍い発射音とともに飛び出した閃光弾は、
「ぎゃ!」
先頭を走る男の鼻柱に直撃する。
そして、破裂音。
「うわ!」
「うぎゃあ!」
強烈な閃光に、男たちの目がつぶれた。
前方を走っていた数人は、飛び散ったクルミの破片を、もろに浴びたらしい。
両手で押さえた顔面から、血がしたたっているのが見える。
すぐに方向転換して走り出したユウのあとを、追える者はいなかった。




