脱走
床にシートを敷いただけの硬い寝床の上で、ユウは、いつもどおり目を覚ました。
聞こえるのは、健やかな、クローゼの寝息だけ。
体内時計は夜明け前をさしている。
微動だにせず、天井を見つめ続けるユウの瞳へはっきりとした意思が表れるのに、それほど時間はかからなかった。
「……よし」
ひとつ大きく息をはいたユウはゆっくりと身を起こし、靴底の細工から長さ十センチ弱の太い針を引き抜いた。
盗掘業へ転身してからも、こうした盗人の心得は忠実に守っているユウである。
しかし、相手が誰であっても、監禁する際はこちらが用意した衣服に着替えさせるか、丸裸にした上で牢へ押しこめるものだ。
少なくとも、ハサンならばそうするだろう。
そのあたりが素人くさい、などと思っている間に、錠前が開いた。
ここから求められるのは、慎重な行動だ。
ユウは自分に言い聞かせ、錆びた鉄格子を押した。
通路へ忍び出し、クローゼの房へすべりこむまでに立てた物音は、錠前をはずす金属音ひとつ。
都合よく仰向けに眠っているクローゼの口をふさぎ、はっと目覚めたその顔の前で、口もとに指を立ててみせる。
クローゼは、うんうんうなずいた。
「待っていた」
手を取り、熱っぽく訴えるクローゼに、いささか、むずがゆさを覚えつつも、
「いけるか?」
「いつでも」
「あ……まず、聞いてくれ」
ユウは、立ち上がりかけたクローゼの肩を押さえた。
「注意がふたつ。絶対に大声を上げるな。なにがあっても、勝手なことはするな」
クローゼは、いちいち、うなずいた。
「ここを出て、まず荷物を取り返す。大祭主様をお助けして、逃げる」
「うむ。異存はない」
「緊張してるか?」
「それは……している」
「捕まっても、どうせここへ戻ってくるだけだ。身代金を受け取るまでは、殺せやしない」
「なるほど……」
「ゲームだと思えばいい」
「それは不謹慎だ」
「……軍事演習」
「あ、うむうむ、それなら……」
この面倒くささにも、すっかり慣れてしまった。
「よし、行こう」
ユウとクローゼは鉄扉の外に立っていた見張りの男ふたりを気絶させ、自分たちのかわりに牢へ放りこむと、光石灯の淡い光に照らされた石積みの通路を、息をひそめて進みはじめた。
誰もが寝入っているのか、人の気配がない。
しめった壁は、すぐに乾いた石肌をさらすようになり、時折吹き抜ける風が、牢ではさほど感じなかった寒気を運んでくる。
横目でクローゼをうかがうと、ようやくの展開に心が奮い立っているのだろう。頬を紅潮させ、目にも、歩む足にも力が満ちている。
うなずき返すその顔に、ユウは、これなら大丈夫だ、と感じたが、こうしたときこそ血気にはやった行動を取りやすいものだ。
ユウは常にクローゼとの距離に気をつけながら、見まわりの姿を探した。
近づきつつある足音を、耳が捉えた。
「……ひとり」
「どうする」
「道案内が必要だ」
小走りに突き当たりまで駆け、ふたりは足音の主を確認した。
右の通路から来るその男は、中肉中背。
腰に剣。それ以外に装備はない。
クローゼを下がらせ、ユウは壁を背に息をひそめた。
あくびをしながら近づく男。
その身体が見えるか見えないかの瞬間、ユウの腕が伸び、男の胸ぐらをつかみ上げている。
壁へ押しつけられた男が声を上げる前に、喉に入った前腕が、そのあごを押さえた。
錠前はずしに使った太針を左目につきつけ、
「騒ぐな」
男は両手を上げ、降伏した。
「クローゼ、武器を」
剣を奪われ、顔の長い男は、さらになさけない顔つきになった。
「俺たちの荷物、まだここにあるな」
男がうなずく。
「案内しろ」
さしたる抵抗もせずに、男は、ユウたちを宝物庫へ導いた。
ドアの前に見張りはいない。
それはそうだろう。隠れ家で警戒するべきは、出入り口と人質のみだ。
ユウは、締め落とした案内役の男を物かげへ寝かせ、鍵穴へとかがみこんだ。
靴の細工から二本目の針を取り出し、差しこむ。
錠前と違い、たとえ二本でも、直針で扉の鍵を開けるのは難しい。
「はずせるか?」
「……静かに。近くに、ヒッポの部屋がある」
「な、なぜ……?」
クローゼはあたりを見まわした。
「宝は、自分の目の届くところに置く」
「なるほど……」
か、ちゃ。
鍵がはずれた。
ユウとクローゼは、気絶した案内役の男を抱きかかえて宝物庫へもぐりこみ、鍵をかけなおした。
「ああ、私の剣だ」
金目のものを物色したのだろう。部屋の中央に置かれた木机の上に、奪われた装備、道具類が散乱している。
およそ十メートル四方の部屋には、他に金箱が積んであるばかりだ。
ユウは一番に姉の指輪を探し出し、
「よかった」
と、左小指へ戻した。
そしてカラスの指輪。
カジャディールから授かった、神官章。
他の道具もポーチへ移し、太刀を腰に下げる。
「君は、エド・ジャハンから来たのだと思っていた」
「え……?」
「その剣だ」
「ああ、カジャディール大祭主様から……お借りしてるんだ」
「その、大祭主様との関係も気になる。祭司や祭主ならともかく、准神官の位を授けられるなど、やはり普通ではありえない。……あ、もしや君の父上と、なにか?」
「……ハハ」
すっかり調子が戻ったな。
ユウはおかしかった。
「ご縁があったんだ」
言われてクローゼは、ふぅむ、と首をかしげた。
ディアナ大祭主の居場所は、床で伸びている男からすでに聞き取ってある。
「外は、陽がのぼりはじめてるはずだ。ここの連中も、そろそろ起きてくる」
「慎重に急げ、だな」
うなずきあったふたりは、廊下の様子をうかがい、外へ出た。
剣と鎧は、どう気をつけても音が鳴る。
むしろ堂々と歩いたほうが、あやしげに聞こえないものだ。
ユウとクローゼは忍び足をやめ、音の出るまま、早歩きに移動した。
交差路を右へ、突き当りを左へ。
さらに突き当たりで、右に顔を出すと、
「あそこだ」
ふたりの見張りが、とある部屋の前に立っている。
「ひとり頼む」
「了解だ」
一気に駆け寄ったユウとクローゼは、ぎょっと身をすくめた見張りたちへ、その勢いのまま、体当たりを食らわせた。
ユウは背後にまわりこみ、首を絞め落とす。クローゼは剣の柄頭で、相手の頭を殴りつける。
ベルトへはさみ、すぐに出せるよう用意しておいた鍵開けの道具で、三秒。
ドアを開け、
「大祭主猊下!」
クローゼが、まず飛びこんだ。
「あ、おい! クローゼ……くそ!」
ユウは仕方なく、気絶したふたりの巨漢をひとりで引きずり、部屋へ入った。
鍵をかけ、やれやれと振り向くと、クローゼがひざまずいている。
目の合ったディアナ大祭主は、丸く、大きな目を細め、にっこりと微笑んだ。